戦後開拓期の北海道開拓写真
1.はじめに
写真技術の導入とほぼ同時期に開拓が進められた北海道は、何もなかった原野から街の創生までが写真で記録されている稀有な土地であり、明治期の開拓写真に始まり、野生の動植物、風景写真など、現代まで様々な切り口で被写体となってきた。本レポートでは、太平洋戦争後の北海道開拓期に撮影された「戦後開拓写真」の写真群を取り上げる。同じ「開拓」写真である明治期の開拓写真との比較の中で、戦後開拓写真の特徴と評価すべき点、課題を明らかにし、今後どのように継承されていくべきかを考察する。
2.基本データ
太平洋戦争終戦直後、敗戦した日本は、あらゆる生産機能を失った。そうした中で、北海道は日本復興のための食糧や資源の供給地として注目されるようになり、1950(昭和25)年に制定された北海道開発法のもと再び開拓事業が行われた。土地を耕した分だけ自分たちのものになるといった触れ込みにより、東京や大阪で戦災にあった多くの人々が、全道各地に入植し、農業、漁業に従事した。しかし、設備も機械もなく家族の労働力だけの過酷な開墾作業と、冬の苛烈な寒さなどで、1964(昭和39)年までに入植した累計45,365世帯が、開拓事業が終了した1970(昭和45)年には15,563世帯となり、入植した約7割の世帯が離農したという。
そのように過酷な開拓事業の中にある人々の営みや、失われかけているアイヌ民族の暮らしなどを被写体に撮影されたのが戦後開拓写真である。撮影したのは、地域のアマチュア写真家・掛川源一郎(伊達市)や前川茂利(共和町)、また長万部写真道場などの写真愛好家たちである。彼らは、土門拳らによって提唱されたリアリズム写真運動に影響を受け、カメラ雑誌『アサヒカメラ(朝日新聞社)』、『フォトアート(研光社)』などの月例応募を中心に活躍した。
3.明治期の北海道開拓写真との比較から見る事例の特徴
戦後開拓写真の特筆される点を、明治期の開拓写真との比較の中から以下の4つの評価軸において考察する。
①撮影者の違い
明治期の開拓写真は、開拓使が明治政府への開拓事業の報告資料として撮影させたもので、1872(明治5)年から10年の間に、田本研造や武林盛一などの御用写真師たちによって撮影された。現在でも撮影者を特定できていない写真が多く、当時は誰が撮影したか、さほど重要ではなかったと考えられることから、あくまで一資料として扱われていたのではないか。
職業写真家ではなくアマチュア写真家によって撮影された戦後開拓写真は、依頼主はおらず、自身の意思で撮影されたものである。戦後開拓写真の代表的な写真家である掛川は、伊達高校で教鞭を執る傍、前川は、小澤郵便局の外務員として勤務しながら、身近にあった戦後開拓民やアイヌの人々を撮影した。戦後開拓写真に大きな影響を与えたリアリズム写真運動が「社会意識を持て、社会の中で写真がどういう役割を果たすかを考えよ」(註1)と説く通り、彼らは、自身が社会に問いたいテーマを自らの眼差しで内発的にとらえた。
②撮影対象との関係性
明治期の開拓写真には、事業の全体像がわかる全景の写真(写真1・2)や、人々を整列させた集合写真(写真3)のような説明的な写真が多く見られる。明治期の開拓写真は、あくまで報告書の添付資料として撮影されていることから、説明的である必要があったのだと考えられるが、これらの写真からは、撮影対象者の感情や撮影者との関係性を感じ取ることは難しい。
しかし戦後開拓写真は、撮影対象者の飾らない仕草や表情から表出する感情が読み取れることから(写真4)、物理的な距離だけでなく、関係としての距離も近かったのだと推測する。掛川、前川共に撮影対象者である開拓民やアイヌの人々との交流の記録を文章で残しており、その関係性は彼らの著書に記されている(註2)。特に前川は、郵便外務員という職業柄、開拓地の人々と接する機会が多く、開拓民の愚痴を聞くような間柄であったという(註3)。このことからも戦後開拓写真は、撮影対象者との関係性の上で撮影された写真であったのだと考える。
③写真の役割
明治時代の開拓写真は、開拓事業の宣伝材料として1877(明治10)年の国内勧業博覧会や、1873(明治6)年のウイーン万国博覧会へ出品された。このことにより、報告資料としてだけでなく、開拓事業の偉大さを国内外へ知らしめ、さらには、日本の国力や自国の及ぶ領土と臣民を提示するツールとして使われた。
一方、戦後開拓写真は、農村や漁村に暮らす戦後開拓民の営みや、失われかけているアイヌ民族の暮らしなどをカメラ雑誌の月例応募への投稿を通じて社会に伝えた。この戦後開拓写真を含むリアリズム写真運動は、次第に社会的意識=戦災孤児や乞食の貧しさというパターン化に陥ってしまい、「乞食写真」と揶揄されるようになり、運動は長く続かなかったが、写真表現において、形式やフォルムよりも写真自体の意味やテーマ、メッセージを重要視するという考え方を定着させ、以降の写真表現へ影響を残した。
④現在の保管状況
国策として撮影された明治期の開拓写真は、現在でも歴史を伝える貴重な資料として北海道大学北方民族資料室などの公的機関に保管・整理され研究も進んでいる。デジタルアーカイヴ化も進んでおり、ウェブサイト上での写真の検索や、デジタルデータの貸し出し申請も可能になっている。(図1)
しかし、アマチュア写真家が撮影した戦後開拓写真は、撮影者個人が保管していたため、明治期の開拓写真のように、広く利活用されることはなかった。また現在では、撮影者が故人となっていることが多く、その保管は一層難しく、現存していても、撮影者の家族が専門的な知識がないまま保管しているため、劣化、破損していたり、死蔵となっているものも多いという。
4.評価すべき点
明治期の開拓写真は、記録・報告資料としての役割や、国内外への宣伝材料としての役目を負わされ、常に外部からの視線を意識した写真であったのではないであろうか。そのため、開拓事業が偉大な事業であり、その進行が順調であることを強調した写真であることが必要であったのだと考える。しかし戦後開拓写真は、地域に暮らすアマチュア写真家が、開拓民の暮らしの有様や、密かに失われていく風景や文化を社会的な問題として捉え、写し撮っていった社会的風景である。この戦後開拓写真の評価すべき点は、開拓民やアイヌの人々に寄り添いながら、自らの眼差しで切り取った、誇張や見栄、嘘のない写真であることだと考える。これらの写真は、公的な北海道史では語られない、語りきれない、北海道の戦後開拓の歴史の細部を伝えてくれるのではないであろうか。
5.課題と今後の展望
政府が主導した開拓事業の公的な資料である明治期の開拓写真とは違い、地域のアマチュア写真家が撮影した戦後開拓写真は、その価値も定まらず、利活用されていないのが現状である。また、戦後開拓写真は、掛川や前川など生前に写真集を出版できた写真家を除き、正しく保管・整理されておらず死蔵となっているケースが多い。戦後開拓写真の課題は、写真の保管・整理、そして研究を進めることで、正しく次世代に継承することであると考える。
「北海道開拓写真研究協議会」と「長万部写真道場研究所」は、このような課題に対し、戦後開拓写真の情報を収集し、保存・管理方法の研究によって戦後開拓写真を含む「北海道写真」のアーカイヴ構築と、それによって次世代へ継承していくことを目的とした組織である。
戦後開拓写真を継承するためには、保存・管理だけでなくアーカイヴの構築は必須であると考える。しかし、手がかりが少ない地域のアマチュア写真家が撮影した写真の撮影場所や撮影時期などを明らかにし、アーカイヴを構築するには、当時を知る街の人々への聞き込みや、投稿されていたカメラ雑誌の月例投稿の文献調査などの地道な作業を積み重ねる以外方法はなく、非常に困難で膨大な時間が必要な作業であるという。
長万部写真道場研究所を主宰する美術家・中村絵美は、長万部に拠点を移し、写真の整理作業と合わせて調査研究を続けている。土地に根ざした写真は、その調査も土地に根を下ろし、じっくりと調査していくことが必要であり、また、写真に関わった人々がまだ存命である今だからこそできることを一つづつ行なっていくことでしかアーカイヴを構築することはできないのである。
6.総括
時代と正面から向き合い、戦後開拓の暮らしや人々の感情を直視しながら撮影された戦後開拓写真は、言葉よりもリアルに戦後の北海道を写し取った、極めて貴重で重厚な歴史の記録であると考える。未だ価値が定まらず、利活用が不十分な現状であるが、北海道開拓写真研究協議会や長万部写真道場研究会の地道な活動によって、通史で語られるものとは違う側面から見た「土地の記憶」を明らかにすることが期待できるのではないであろうか。
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[写真1]銭函小樽間道路開削ノ為「字カモイコタン」石山切崩ノ図(複製)、1879(明治12)年 武林盛一撮影、北海道大学附属図書館北方資料室蔵
道路建設工事の様子の写真だが、人物がブレておらず、写真撮影のためにストップモーションを強いられたと考えられる。工事の規模がわかりやすいよう、距離をとり全景が入るよう撮影されている。 -
[写真2]札幌麦酒製造所開業式、1876(明治9)年 武林盛一撮影、北海道大学附属図書館北方資料室蔵
開拓使がつくったビール工場の開業式に撮影された写真。工場の建物は全て収まっているが、誰ががどのような表情で写っているのかは、わからなくなってしまっている。 -
[写真3]対雁移住の樺太アイヌたち(複製)、1877(明治10)年頃 撮影者不明、北海道大学附属図書館北方資料室蔵
1875(明治8)年の日本・ロシアの間で樺太千島交換条約締結によって強制的に移住させられてきた樺太アイヌたちの写真。写真内に全てが収まるように整列させ、背格好がわかりやすいように撮影されている。右端の人物が持っている弓矢が不自然であり、撮影者の演出であることが推測される。 - [写真4]掛川源一郎写真集『gen 掛川源一郎が見た戦後北海道』と前川茂利写真集『開拓地のくらし 1948-1976』(2018.1.29 筆者撮影・非公開)
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[図1]北海道大学北方関係資料北海道大学北方関係資料総合目録トップページ
明治期の開拓写真を含む、北海道大学附属図書館が所蔵する北方関係資料・旧外地関係資料・パンフレットを検索することができる データベース。
所蔵資料は、研究・調査・教育の目的に限り、申請の上、無償で使用することができる。 -
[図2]『長万部写真道場 再考』フライヤー
長万部写真道場研究所と北海道開拓写真研究協議会が主催する調査報告と写真展を告知するフライヤー。長万部写真道場の残した写真群の写真展と、写真研究者らを招いてのフォーラム、主催者である中村氏の調査報告などが企画されている。
参考文献
▪️注釈
(註1) 金村修・タカザワケンジ著『挑発する写真史』、株式会社平凡社、2017年、p140
(註2) 掛川源一郎著『gen 掛川源一郎が見た戦後北海道』、北海道新聞社、2004年、p134-143
前川茂利著『写真集 開拓地のくらし 1948-1976』、前川茂利、1982年、p8-9、10、20、36、47、55、61、72、82、91、101、107、113、126、132、145、163、174
(註3) 前川茂利著『写真集 開拓地のくらし 1948-1976』、前川茂利、1982年、p8
▪️参考文献
大友真志編『photographers’gallery press no.8』、photographers’ gallery 、2009年
木下直之編『日本の写真家2 田本研造と明治の写真家たち』、株式会社岩波書店、1999年
公益財団法人東京都写真文化財団 東京都写真美術館 三井圭司編『夜明けまえ 知られざる日本写真開拓使北海道・東北編研究報告書』、東京都写真美術館、2013年
渋谷四郎編『北海道写真史[幕末・明治]』、株式会社平凡社、1983年
ニッコールクラブ発行『ニコンサロンブックス6 北海道開拓写真史-記録の原点-』、ニッコールクラブ、1980年
日本写真家協会編『日本写真史1840-1945』、株式会社平凡社、1971年
渡辺義雄・飯沢耕太郎(他)編『写真150年展 渡来から今日まで』、写真150年展実行委員会、1989年
北海道戦後開拓史編纂委員会編『北海道戦後開拓史』、北海道、1973年
掛川源一郎著『gen 掛川源一郎が見た戦後北海道』、北海道新聞社、2004年
前川茂利著『写真集 開拓地のくらし 1948-1976』、前川茂利、1982年
金村修・タカザワケンジ著『挑発する写真史』、株式会社平凡社、2017年
▪️参考URL
北海道大学北方関係資料総合目録 http://www2.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/
北海道開拓写真協議会 http://hsp-web.jpn.org/wp/
長万部写真道場研究会 http://occ-lab.org
▪️聞き取り調査
北海道開拓写真研究協議会 露口啓二(写真家、フレメン写真製作所) 2018年1月26日