高岡市の勝興寺—一向一揆の中核から浄土真宗有数の寺となり国宝に至った戦略—

浅井 光太郎

1.本報告の概要 — 基本データ
勝興寺は富山県高岡市伏木にある浄土真宗の寺である。勝興寺の前身は1471年に創設され、戦国時代は一向一揆の中核であった。1584年に現在の地に再興された後に加賀前田家および本願寺との関係を深め、地方有数の規模と格を持つ寺となった。2022年には平成の大修理を終えた建築物の一部が国宝に指定され、2件の国宝と10件の重要文化財を有している [1][2]。これらの文化財は江戸時代後期の仏教美術である。本報告では戦国時代を含めた勝興寺の歴史と戦略を振り返り、文化財としての価値、現在の活動と今後の方向についてまとめる。

2.勝興寺の歴史—歴史的背景と評価対象
勝興寺の歴史において、筆者が最も評価するのは時代に応じた生存と繁栄の戦略である。以下、勝興寺の歴史からその戦略を確認する。
1471年、本願寺八世蓮如上人が越中国砺波郡の山中に開いた土山御坊が勝興寺の起源である(図1①)。1480年代、一向一揆の争いにおいて土山御坊は大きな役割を果たした[2]。1494年、交通の便がよい高木場に坊を移し(図1②)、1517年に勝興寺の寺号を得た。当時勝興寺は本願寺との関係強化より一向宗徒の組織化、在地での勢力強化を優先し、一向一揆の中核寺院となりつつあった[3]。
1519年、焼き討ちにより高木場御坊が焼失、安養寺に坊舎を新設した(図1③)。1525年に本願寺九世実如が没したことで本願寺縁者の勢力図が変化し、勝興寺と本願寺の距離が縮まった。以後、勝興寺は天文年間(1532-1555年)に渡って本願寺と親密度を深める戦略をとり、1560年には院家八寺の一つとなった。
1565年本願寺顕如が武田信玄と手を結び、勝興寺が掌握する一向一揆勢も戦国末期の抗争に関わることになった。翌年、織田信長と上杉謙信が同盟、一向一揆勢の争いは激化した。1573年に信玄が没し、勝興寺は謙信に占拠された。1575年に信長と謙信が決裂、1578年に謙信が没した。1580年、石山本願寺と信長は和睦したが争いは止まず、1581年に勝興寺は織田方の焼き討ちで焼失した。1582年、本能寺で信長が死亡、1583年に羽柴秀吉が柴田勝家を破り、佐々成政を越中国主に任じた。1584年、成政は加賀の前田利勝と対立して能登を攻め、家康に接近した。同じ年、成政は一向宗徒の懐柔を優先して伏木古府の地における勝興寺の再建を許した(図1④、旧地①②③から離れているのは地域の求心力を削ぐ意図だろう)[4][5]。1585年、越中三郡は前田家の所領となった。この時点で勝興寺は秀吉側につき、前田家に寄り添う戦略をとった。江戸時代には前田家との姻戚関係、住職の人材交流、さらに公家との婚姻関係、将軍家や大名家への姻戚拡大を活用して寺を巨大化していった。江戸後期には越中門徒の寄進も大きな資金源となった。
以上のように時代に応じた勝興寺の戦略が成功し、江戸時代有数の仏教建築、明治時代の唐門移設、1998年から2021年にわたる平成の大修理を経た国宝指定にまで連なっていることを評価したい。

3.文化資産としての国宝勝興寺—特筆すべきこと
今日勝興寺における国宝や重要文化財の建築物は17世紀半ば以降のものである[6]。以下、主な建築物の建設時期、特筆される点について記述する。
文献[2]は1584年以降の勝興寺の建設活動を5期に分けている。第1期(1584-1646年)の境内は自力建設した小規模な本堂等の堂舎群と庫裡で構成され、第2期(1646-1769年)に殿舎群を加えた。第3期(1769-1810年)は前田家との関係が強く、堂舎・殿舎ともに改築された。第4期(1810-1863年)は門徒の寄進も大きな資金源となり、台所を改築した。第5期(1863年〜)は維持継承を基本に部分的な増減築を行なった。図2に主な建物の建設時期を示す。かくも長期に渡って拡大したことは特徴的である。
国宝指定の本堂は1795年竣工で、本願寺棟梁が構想策定に関与したため、西本願寺の阿弥陀堂を模している。全国の国宝・重要文化財の建造物で8番目という面積は勝興寺の権威的な側面を表す。一方、特徴的な架構を頭上に見せる縁側(図3)、四隅の柱上に置かれた魔除けの邪鬼(図4)等は門徒を楽しませる大衆的な側面であり、両者の同居が勝興寺の特徴とされる[2]。
国宝指定の大広間および式台は、修理の過程で建築当初からの変遷が明らかにされた。1653年の最初の建築以来、複数回の増改築が行われ、復元されたのは1863年に造られた台所を含む姿である。国宝の指定理由には、初期の形式からの整備過程を体現する建物であることが挙げられている[2]。大広間が2列並びから3列並びに拡張されたことがわかりやすい現在の展示も特徴的である(図5)。大広間には勅使が座る上段の間があり、勝興寺の寺格の高さを表している。地方の浄土真宗の寺で江戸時代以前に造られた上段の間があるのは勝興寺だけである[7]。
平成の大修理は文化資産保全の観点と、勝興寺を国宝にとの市民の期待を背負って行われた[8]。工事と同時に調査が行われ、新たな発見から修理方針の見直しが必要になることもしばしばあった。このため費用は51億円から70億円に、工期は20年から23年に、と計画を超えた。修理後の境内が1803年の図絵とほぼ変わらず、江戸時代の建物がほぼ残り、夾雑物がほとんどなく、境内の広さもほぼ変わっていないことは全国的に珍しいとされている[7]。
さらに特筆したい点は寺社城郭らしい境内の境界部分である。図6は勝興寺の俯瞰写真と伽藍図の境内周縁部をトレースした図との組み合わせである[9][10]。周縁の土塁や濠の多くが緑に覆われている。現在も境内東側に水壕、南側・西側と北東側には土塁と空濠が残っている。造成時期は不明だが、勝興寺が一向一揆の中核であったこと、勝興寺再興のために寄進された土地が神保氏張の出城であったこと、同地が越中国府であったこと等が重なっていると思われる。これらは高岡市のもう一つの国宝、瑞龍寺にはない特徴である。境内周縁部分に関する今後の調査と整備が期待される。

4.今後の展望
平成の大修理の費用は国、県、市が補助を行い、宗教法人勝興寺が賄った。成果の維持・発展、研究の継続には、文化財の価値を発信して関心を持つ人々を増やし資金を獲得する仕組みが必要である。
勝興寺のHPではボランティアガイドや文化財借用、本堂・本坊の使用申請が可能で、大広間での茶会や写経体験等のイベント情報を見ることができる[1]。勝興寺の宝物や絵画、文書の多くがデジタルアーカイブ化されている[11]。これらの先進的な試みはアウトリーチに有効だろう。筆者は勝興寺以外の仏教建築や仏教美術のデジタル資産とのネット上の接続を提案したい。勝興寺単独でなく、宗教や時代や地理的特質等、何らかの共通項を持つデジタル資産のネットワーク化は広範囲の関心や発展に繋がると考える。
JR伏木駅の観光案内コーナーには勝興寺近隣に関するパンフレットがある[8]。勝興寺参道を中心とする勝興寺寺内街通り景観協定区域には景観整備基準がある[12]。周辺には万葉歌碑や北前船資料館など、歴史的な場所が多くある。筆者は寺内町の商業的賑わいも期待したい。大修理以降、参拝客やイベントは倍以上に増え、飲食店の開業やリニューアルが行われ、観光客誘致の取り組みも進んでいるという[13]。観光客誘致は昨今のインバウンドにも繋がっている [14]。
国宝の話題性を梃子に、文化的にも商業的にも発展することを期待する。さらに戦国時代からの歴史を訴求することも期待したい。山中の要塞的な土山御坊に始まる勝興寺の歴史は戦国時代の物語性を有している。勝興寺を舞台とする映像作品は有望でないだろうか。

5.まとめ
勝興寺は戦国時代初期に生まれ、一向宗徒を組織化し、本願寺との関係を強めて一向一揆の中核となり、戦国時代終盤に一旦は壊滅するものの再興し、戦略的に加賀前田家、本願寺、公家との関係を強めて発展し、門徒にも支えられて平成の大修理に至った。文化資産としての価値は国宝や重要文化財の指定に端的に表れている。資産を維持・活用するための文化的活動や観光資産の活用も行われている。江戸後期の仏教美術としての資産に加え、戦国時代に果たした役割の歴史的価値も含めて維持・活用されていくことを願っている。

  • 81191_011_31786093_1_1_Fig1_勝興寺所在変遷 図1 勝興寺および前身である坊舎の位置関係(Googleマップ2024年7月14日閲覧画面上に筆者描画、写真は①②③2024年7月16日、④2024年7月7日それぞれ筆者撮影)
  • 81191_011_31786093_1_2_Fig2_建築物建設時期 図2 勝興寺境内の建築物と建設時期(背景の配置図は境内の説明版を2024年7月7日筆者撮影、建設時期は文献[2]より)
  • 81191_011_31786093_1_3_Fig3_本堂縁側上面 図3 本堂縁側上面の架構(2024年7月7日筆者撮影)
  • 81191_011_31786093_1_4_Fig4_屋根を支える猿 図4 本堂の屋根を支える猿(右の複製は平成の大修理時に作成されたもの、いずれも2024年7月7日筆者撮影の写真を加工)
  • 81191_011_31786093_1_5_Fig5_説明と大広間3 図5 大広間拡張の説明と拡張部分(手前が大広間②で奥が大広間③、いずれも2024年7月7日筆者撮影写真を加工)
  • 81191_011_31786093_1_6_Fig6_境内の境界 図6 勝興寺の俯瞰写真と境内周縁部の対比(文献[9]の閲覧画面と文献[10]の伽藍配置図を筆者がトレースした図を加工)

参考文献

[1] 勝興寺文化財保存・活用事業団『[ 国宝 ] 雲龍山 勝興寺 - 高岡市』、https://www.shoukouji.jp(2024年7月13日閲覧)
[2]勝興寺文化財保存・活用事業団『「勝興寺境内の文化的価値に関する調査研究報告書」概要版 国宝 勝興寺』、2023年、https://www.shoukouji.jp/pdf/gaiyo-230126.pdf(2024年7月13日閲覧)
[3] 久保尚文『勝興寺と越中一向一揆』、桂書房、1983年
[4] 浅野清編著『佐々成政関係資料集成』、新人物往来社、1990年
[5] 遠藤和子『佐々成政 <悲運の知将>の実像』、サイマル出版会、1986年
[6] 桜井敏雄編集『浄土真宗寺院大広間の研究—勝興寺大広間及び殿舎構成を中心として—』、高岡市教育委員会、勝興寺文化財保存会、1975年
[7] 高田克宏「勝興寺の大修理—施行前と施行後—」、日本海学講座、2021年11月、https://www.nihonkaigaku.org/library/日本海学講座2021第2回(最終版).pdf(2024年7月13日閲覧)
[8] JR伏木駅観光案内コーナーにおけるガイドさんと筆者との会話(2024年7月7日)
[9] 国土地理院地図「全国最新写真」、撮影期間:2021年6月〜8月撮影、https://maps.gsi.go.jp/#18/36.792810/137.054073/&base=std&ls=std%7Cseamlessphoto&blend=0&disp=11&lcd=seamlessphoto&vs=c1g1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1&d=m(2024年7月14日閲覧)
[10] 岫順史編『雲龍山勝興寺古文書集』、桂書房、1983年
[11] 勝興寺文化財保存・活用事業団『高岡市雲龍山勝興寺/文化財デジタルアーカイブ』、https://adeac.jp/shokoji/top//(2024年7月13日閲覧)
[12] 勝興寺まちづくり協議会景観委員会『歴史文化の薫るまち 歴史都市高岡 ふるこはん』(2024年7月JR伏木駅観光案内で入手)
[13] 北日本新聞「歴史都市高岡 輝く二つの国宝」、2023年1月1日付け北日本新聞朝刊19-21面、2023年(筆者が2024年7月に訪れた際の印象ではさらに商業的賑わいを望みたい)
[14] Yahooニュース「富山県高岡市の伏木港にクルーズ船 国内外から乗客2700人、五箇山や国宝・勝興寺へ観光」、2024年7月5日配信、https://news.yahoo.co.jp/articles/b3bc6f90ccf63d39f0e89b5e024319b888eb1c08 (2024年7月13日閲覧)

年月と地域
タグ: