
矢切の渡しの生活の中での意味と文化的景観との共存
1.基本データと歴史的背景
矢切の渡しは東京近郊の観光地として有名な葛飾区柴又と江戸川を隔てて隣接する千葉県松戸市矢切を結ぶ渡船である。周辺は河川を横断する手段として複数の橋梁が整備され、徒歩・自転車・自動車や電車が一般化している。それにもかかわらず、矢切の渡しは「船で渡る」という形式を保ちながら継続しており、現代の交通の合理性だけでは説明しにくい存続のかたちを示している。矢切の渡しの運航[註1]は、夏季には毎日10時頃から16時頃まで行われ、冬季には土日祝日および庚申の日に限り、同時間帯での運航となっている。この運航形態から矢切の渡しが日常的な移動や物流を担う交通インフラとしてではなく、景観や散歩のために特定の時間と状況において利用される存在であることがうかがえる。
葛飾区では平成23年度から26年度にかけて柴又地域の文化的景観調査を実施した。文化庁の補助事業(文化的景観保護推進事業)として、国の「重要文化的景観」選定に向けた届出を行う目的で、調査は葛飾区の委託を受け東京大学大学院工学系研究科建築学専攻・伊藤毅研究室が中心となり文化庁や東京都教育委員会等の協力のもとで進められた。柴又地域の文化的景観調査では文化的景観を言語化・可視化するために大きな視点から地域全体像を捉えようとした。帝釈天と参道景観を核としつつ、微高地・低地・かつての農村地域という複数の領域を設定し、それらを「点」ではなく「関係の束」として捉え直す試みを行った。その結果をまとめた『葛飾・柴又地域 文化的景観調査報告書』[註2]の中で、周辺の柴又地域の歴史的特徴、文化的特徴、生業的特徴などと一連のつながりとなるものとして矢切の渡しも文化的景観を構成する一要素と位置づけられている。江戸時代初期から続く自然環境(江戸川)と人々の生活行為(往来)の関係を現在に伝えるものとして意味づけられているのである。
周辺の柴又という地名は、養老5年(721年)の正倉院文書に見られる「嶋俣里」に比定されるなど、江戸以前から下町デルタの微高地上に形成された集落を前身とするとされる。柴又は有名な帝釈天門前町の賑わいだけで語られがちであるが、歴史的には、東国の水上交通の要衝であり、水陸の結節点として人や物資が行き交った特異な場であった。このような過去からの文脈からも、矢切の渡しを柴又の文化的景観の一部として捉えることが重要なのは明白である。
過去に江戸川は利根川東遷事業の影響を受け、江戸と東国・北関東方面をつなぐ重要な動脈の位置付けであった時代があり、近世以降は舟運とともに地域の時間を形作ってきた。昭和初期頃まで、醤油舟や下肥を運ぶ船など、川舟が航行する風景がよく見られ、生活を支える水路であった。生業と往来の歴史を内包する場であった背景が、矢切の渡しを単なる交通ではなく柴又地域の文化的景観を構成する要素として位置づけているのである。
2.積極的に評価する点
江戸川が実用的な水上交通の場としての役割を大きく縮小した現在においても、矢切の渡しが存続している点は注目に値する。現地を実際に何度か来訪し「矢切の渡し 江戸川河岸」[註3]にまとめた。水路に複数の船舶が見られる地域と異なり、江戸川では渡船以外の船を日常的に見かける機会は多くない。かつて舟運が存在したとしても、現代の江戸川は「船が行き交う水路」ではなく、「治水・境界・眺望」としての性格が前景化している状況であった。さらに河岸に目を向けてみる。現代的な船が着岸するにはあまりにも心もとない桟橋である。それがあえて残されている。実際、渡し船の動力源は人の力で稼働しているのである。そうした状況で残ることは、渡し船としての機能的な必然よりも別の種類の価値が働いていることを示唆する。
空間デザインの視点から、現況がどういった構造なのかを考察し、移動インフラの違いによる比較図[註4]をまとめた。まず、橋が架かると、こちら岸と向こう岸は同じ歩行空間の延長として接続され、川を越えるという意識は薄れるであろう。そうすると我々の日常の移動において「越境」することは徐々に無意識になり、通過は風景に溶け込む。一方で渡船という方法では、利用者は船着場でいったん立ち止まり、「渡る/渡らない」を自分で選ぶ。船に乗るという手続きが挿入されることで、移動の時間は短縮ではなく「経験」として立ち上がり、川面・流れ・対岸の距離をあらためて意識する。矢切の渡しの価値とは、そういった体験を呼び起こすことにあるといえるのではないだろうか。
3.他の同様の事例との比較で特筆される点
比較の一例として福岡県北九州市の洞海湾にある若松渡船[註5]を挙げる。この周辺の水路では現在でも渡船以外の船舶も見られ、水路自体が交通・産業の場として機能していることがうかがえる。生活動線として合理性を保ち、「渡る」ことが日常の一部である。若松渡船が着岸する戸畑渡場は電車やバスとも接続されており、この地域は水路が生きていて、渡船は実用として残っているといえるだろう。
一方、矢切の渡しの江戸川周辺は陸上交通の発達により移動の合理性を満たす手段は橋へ移行している。河岸に行くには徒歩しかなく、最寄りの京成線柴又駅から帝釈天参道を抜けて河川敷などを抜け、地図上では900メートルほどである。実測で20分かからない程度。それでも存在として残る点に矢切の特筆性がある。実用的な水路交通というより、「かつて水路が地域生活を担ったという記憶」を体験として現在に暮らす我々にもたらす存在である。記憶と行為によって支えられる文化的景観なのである。
4.今後の展望
前述した文化的景観調査の内容を辿ると、従来の文化財が志向しがちな「当時の形式への復元を前提とした静的な保存」だけではなく、プラスして動的な扱いを推奨すべしと言及があった。美術品は価値の保存のために静的な保存が必要不可欠であるが、景観となると少し勝手が変わる。「固定」ではなく開かれたものにする。昔の門前の賑わいを保ちながらも将来的に継続可能な目線で、かつ破壊や滅失につながらないよう注意を払うという「共存の姿勢で保存」する。矢切の渡しも、かつての交通手段として“展示”だけにとどめるのではなく、現在の行為として意味を再考することが重要である。新たな価値を考え、文化資産として評価することがポイントである。
このようなことをふまえ、文化的景観における価値継承の考え方[註6]をまとめた。我々が地域生活とどのように共存できるかを生活者の視点でデザインすること。現代の我々の体験としてどのようにデザインするかが大切である。
単なる観光資源として消費するのではなく「渡るという行為の意味」を地域の生活とどのように共有・更新していくか。周辺環境が変化していく文脈の中で「なぜ残すのか/何を残しているのか」をあらためて語り直す必要がある。文化保存を意識するあまり自由がなくなることを避けつつ、我々の生活を豊かにする方向での魅力の再発見が求められる。前述した若戸渡船には 「若戸渡船を愛する会」[註7]という事務局があり、通常とは異なる参加者が楽しめるクルージングが開かれている。江戸時代の江戸川では花見時期に砂利船を転用して花見船が出たという記録も見かけた。もしも自分も生活者として参加するならば、花見が楽しめるクルージングを企画してみたい。
しかしながら、過度な効率化や演出は、かえって地域の歴史や水路交通の記憶を学びとして呼び起こす工夫をすることを妨げてしまい、我々の時間的・身体的経験を希薄化させるおそれがあることも意識する必要がある。意味の継承方法を慎重に設計することが大切であるから、例えば、待ち時間をなくす予約制や、過剰な演出の常設は、渡る前の「立ち止まる時間」そのものを消してしまうおそれがあるかもしれない。
5.まとめ
渡船は「渡る」という行為そのものを意識化させる。矢切の渡しは、水路が実用交通の主役から退いた後に、行為だけが選び取られて残された文化的景観である。柴又地域の文化的景観調査が示したように、この地域は帝釈天門前町の景観だけでなく、微高地・低地・生業の記憶を含む複層的な関係の束として捉えられ、矢切の渡しは、水路が地域生活を担った記憶を我々に思い出させる。我々は過去を静的に保存するだけでなく、現在の行為を通して自由で開かれた発想をもってこの文化的景観に関与し、それぞれの立場からその意味を更新し続けていくことが文化的景観を残していくことに繋がるのである。
参考文献
[註1]葛飾観光ポータルサイト「かつまるガイド」「矢切の渡し」 https://www.katsushika-kanko.com/guide/scene/96.html (閲覧日:2026.1.30)
[註2]柴又地域文化的景観調査委員会・葛飾区教育委員会著・出版『葛飾・柴又地域 文化的景観調査報告書』、2015年
[註3]本人撮影:矢切の渡し 江戸川河岸(撮影日:2026.1.27)
[註4]本人制作:移動インフラの違いによる比較図
[註5]北九州市公式ホームページ 「若戸渡船の沿革」 https://www.city.kitakyushu.lg.jp/contents/924_10255.html(閲覧日:2026.1.30)
[註6]本人制作:文化的景観における価値継承の考え方
[註7]北九州市公式ホームページ 「若戸渡船を愛する会」 https://www.city.kitakyushu.lg.jp/contents/924_10219.html(閲覧日:2026.1.30)

