ゴッホ・ベルナール・ゴーギャンの判じ絵~≪英泉≫を主に~

手塚 淳子

ファン・ゴッホ美術館蔵1887年ビンセント・ファン・ゴッホ(1853~1890c)作≪英泉≫は、サイズ100.7×60.7cmの油絵だ。(1)
この作品は林忠正(1853~1906)が携わった(2)左右反転のパリ・イシュストレ誌1886年5月号の表紙になった渓斎英泉(1791~1848)の≪雲龍打掛の花魁≫の模写だ。
この時ゴッホはジャポニズムに傾倒し、同後期印象派で後に統合主義を作ったポール・ゴーギャン(1848~1903c)やエミール・ベルナール(1868~1941c)らと親交しゴーギャンとは理想郷を志した程だ。志は結果挫折したが、画中画等を交換し合い、お互い刺激、影響し合っている。統合主義には「見えないものを描く」という概念がある。

日本が海外に出荷した陶器等の包み紙が日本画で、それに描かれていた絵に西洋人が興味を持ちジャポニズムが普及したという。
上物の日本画や浮世絵は紙が厚く、緩衛材に向かない。端を綴じる紐を取り、表・背表紙を外した中の古本紙なら柔らかいので向いている。再利用だ。この時代、北斎漫画の様な様々な絵入の本や版画が出回り(資料1 (明治))、中には判じ絵本の類も混ざっていた。判じ絵は江戸で庶民に大流行したからだ。
西洋で日本画や浮世絵だけでなく、ジャポニズムの普及で判じ絵に興味を持つ西洋人も居ないとは限らず、嘗て大流行した判じ絵本の紙を再利用した類の物も混ざっていた可能性もあり(3)、ジャポニズムの流行に乗り、買付に来日した西洋画商もいた。
西洋で林の美術の関与や、ゴッホも読んだピエール・ロティ(1850~1923c)作『お菊さん』の発刊、上記の画商等、日本語の理解が当時の西洋人に無かったと言いきれず、他の版画に比べ奇妙さに疑問を持ち、洒落という訳が誰も出来無かったとは限ら無い。
ジャポニズムに趣があったゴッホら後期印象派画家が判じ絵の概念を完全に解らなかったとしても、日仏両語が可能な上記の様な人々も居り、洒落や隠語、諺等として解していた可能性もある。

ゴッホ作≪英泉≫は中央に花魁、下部の蛙は二代目歌川芳丸(1844~1907)の≪新板虫尽≫(資料2)を模写し、蛙は隠語で「卑しい女」だ。左側の鶴は龍明鬙谷(1870~80代頃)の≪芸者と富士≫の模写(4)で、鶴は隠語で「娼婦」だ。右と上部は葛飾北斎(1760~1849)の≪富獄百景二編≫他(5)を模写した竹葦、左と下部の蓮で仏教用語「一蓮托生」、西洋の諺に直すと「In the same boat」で、花魁上部に鬙谷の上作の舟が描かれている。彼はジャポニズムと共に仏教に傾倒し(6)、青年期伝道師を志した。

仏映画『ポンヌフの恋人』で主人公女性が生魚を食べる場面で「Pas de soucis(鮨)!」と言う台詞から、洒落という概念が仏語に有る。

統合主義と判じ絵の共通点は「見えないものを描く」で、彼らは判じ絵の概念を概ね解っていたのではないか。

後期印象派画家達は日本画や浮世絵の線描や彩な色やベタ塗り、大胆なカット、誇張等の新鮮さに惹かれていただけでなく、洒落の様な事も絵にする日本人の陽気さや寛容な国民性も魅力だったのではないか。

美術展「ゴッホ アライブ 」に行った。SENSORY4はハイテクと絵画の融合で、聴覚、嗅覚等の感覚でゴッホの絵の世界に没入する事により、新たな学習が出来る。(7)英泉とゴッホの花魁を一緒に鑑賞し、その世界に没入する事により、元の英泉の花魁は笑ってないが、ゴッホの方は笑っていて、あえてウィンク顔にした彼は洒落という事を解っていたのではという見解が湧いた。
千葉市美術館蔵の英泉作のみや、ファン・ゴッホ美術館蔵の花魁の鑑賞のみでは出来ない体験が出来る。
この様な気付きの体験は、美術展「北斎づくし」でも有った。北斎作品のプロジェクションマッピング部屋に入り、≪神奈川沖波裏≫を観る事で舟がアニメになっていたり、踊り指南本の絵を連続して映す事で本当に踊っている様に見えた。
この様なハイテクと掛合わせた没入型美術展に入る事でゴッホや北斎のイメージの中に入る学習が出来る。

ゴッホはベルナールへの手紙の中で「日本人の作品交換を以前から関心していた」、「彼らが互いに愛し合い~(中略)~何の陰謀もなく」(8)と書き、日本を画家の理想郷と考えていた。遺品の日本画(資料2)は本のページ一面に様々な絵が無造作に配置され、彼はモチーフ帳と捉えたのではないか。判じ絵も一面に無造作だ(資料3)。
特に≪新版念頭状絵かんがへ≫(9)等は絵が文になっており、日本人でも解読困難で、外国人は特にであろうが、かんがへ(考え)はアイデアという意味である為、モチーフ帳と捉えても不思議ではなく、日本人絵師達の作品交換と捉えたのではないか。彼も含め、実際当時の様々な西洋作家が日本画から洋画や工芸品にモチーフ引用している。

当時西洋では洒落は低俗とされ、大々的に言えなかったかもしれないが、稚拙ではない。歌川国芳(1798~1861)や月岡芳年(1839~1892)等、著名な絵師も描き、国芳の草稿は以色列のティコティン日本美術館に収蔵されている。(10)
美術展「北斎づくし」では「墨と巻物と扇子」で「すみません」と描かれ(写真4)、巨匠北斎の好奇心旺盛さを見た。

判じ絵は出版物で、現代版クイズ本、昭和50年代位に流行った『頭の体操』の様な脳トレ本だ。売れる本を制作する為アイデアを出すブレーン、絵師、版師、摺師、編集者等が携わった。
判じ絵の手法は後の漫画家田河水泡(1899~1989)や長谷川町子(1920~1992)らも使っている。(11)日本漫画が世界的評価される礎を築いた人々だ。

今後の展望は、その周辺の作品との関連も研究したい。例えばベルナールがゴッホと作品交換したゴーギャンの肖像画入自画像(資料5)や、ゴッホがアルルでゴーギャンに送った≪ボンズ(坊主)≫(資料6)も、判じ絵的要素を含んだ作品ではないかと考察する。
ベルナールはゴッホへ、ゴーギャンとの画家の理想郷の出発、自身とゴーギャンの統合主義の出発を重ねた“出航“の労い、≪ボンズ≫は、そのアンサーとしてアルブレヒト・デューラー(1471~1528c)の自画像(資料7)の様な「画家としての決意」を仏教徒として描いたとすると、彼らは統合主義の重い哲学や思想より少し軽めの判じ絵的表現でお互いのメッセージ性を欧風に込めたのではないか。聖職を志した真摯な性格が伺え、「日本風に目(帆?下記記載)を吊り上げた」(12)と記す。

資料5が贈られたのはゴーギャンとの同居前で、特に右下の日本画は、どの日本画を模写したのか未特定だ。(13)オリジナルの要素もあると考察する。
この作品のゴーギャンの表情は惚けた表情で、理想郷の志だけで無く、テオからの送金目的だった事もゴーギャンと親交した彼は知っていた。
「仲間のフィンセントに捧ぐ」と添える。右下の日本画の厚みはキャンパスならば欧流を表し、そうではないなら、絵の右と下が切れている為、本の左上角だとすると日本画本ではないか。日本画は版画である為線描だが、この絵の帆は面描だ。写真8を模写したのが近いと思うが、そうであれば帆の角張りや線がない為洋船ではないか。これを模写したのであれば、彼程の画力ある人が何故オリジナル風に描いたか。

それ以前にゴーギャンが贈った肖像画入自画像は自身の周囲を花で飾り、ビクトル・ユゴー(1802~1885c)作『レ・ミゼラブル』の革命的主人公ジャンに重ねて自らを「ならず者」と自嘲し、彼を「悲しい時代の犠牲者」と言っている。

これに対して彼の作品はメッセージ的要素が有り、仏語のvoile(男性語)は帆の意味と共に出航、ヴェール(布)に包む等の意味がある。布に包むは、包み隠す(大々的に言えない)、又は女性語のvoir(見える、解す、判ずる)と掛けて、「Peux tu voir?」で「Je vois!」(Fair monter la voile(voir))等、又は「現実的な者は帆を調整する」等の諺と掛けているかもしれない。同年8月彼は統合主義を、10月ゴッホは同居を始めている。ボンズもvonsと掛け、「来てよ」ではないか。(14)

高尚や富裕層の象徴だった絵が俗化し、版画や判じ絵は魁ていて革命的と彼らは予見していたと考察する。

可能なら渡米・仏・蘭し、欧米各地美術館等を調査したい。ベルナールは生前に統合主義やクロワニズムから転向したので決定的証拠は困難かもしれないが、ゴッホ作品も含め探求したい。

  • 資料1 小林幾英(生没年不詳)≪新版子ども遊び≫1884年、図録『没後120年 ゴッホ展2010-11』、東京新聞・中日新聞社、2010年、p.173、no.107
  • 資料2 歌川義丸(1844~1907)≪新版虫画≫1883年、Van Gogh Museum Amsterdam 図録『Van Gogh&Japan-English-』、青幻社、2016年p.31 no.35
  • 資料3 歌川重宜(1849~1852)≪勝手道具はんじもの 下≫1851年、『図録 江戸の判じ絵 再びこれを判じてごろうじろ』たばこと塩の博物館、2012年、p.70
  • 297741_1 写真4 葛飾北斎(1760~1849)≪福禄寿に乗る唐子≫、北斎漫画第十一編(1824~1833年)巻頭、永田生慈監督・解説『北斎漫画・三』東京美術社、2003年2月20日 p.9、2024年9月6日筆者撮影
  • 資料5 エミール・ベルナール≪ゴーギャンの肖像画のある自画像≫1888年、『図録 Vincent van Gogh&Japan ゴッホと日本展』京都国立近代美術館・世田谷美術館・テレビ朝日、1992年、p.149
  • 資料6 ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ≪ボンズとしての自画像≫1888年、日本経済新聞電子版 2020年6月23日2時記事
  • 資料7 アルブレヒト・デューラー(1471~1528c)≪1500年の自画像≫1500年、『雑誌 芸術新潮』新潮社、2003年5月号p.8
  • 297763_1 写真8 歌川広重(1797~1858)≪富士三十六景・武蔵本牧のはな≫1858年、図録『Vincent Van Gogh&Japan ゴッホと日本展』京都国立近代美術館・世田谷美術館・テレビ朝日、1992年、p.206、no.21(左下部をトリミングする)、2024年8月19日筆者撮影

参考文献

(1)、(4)、(5)、VAN・GOGH MUSEUM Amsterdam『VAN・GOGH&JAPAN-English-』 2018年 p.30 no.29、 p.31 no.33、no.32、34 『図録 ゴッホ展~巡りゆく日本の夢~』2017年 北海道新聞社

(2)、及川茂著『渓斎英泉 8章 ゴッホと英泉作≪雲龍打掛の花魁≫』千葉市美術館 2012年 p.224

(3)、(9)、(10)、(11)、岩崎均史著『いろは判じ絵 江戸のエスプリ・なぞなぞ絵解き』青幻舎 2014年、p.297、298、p.306、307 p.300 p.304
岩崎均史著『江戸を楽しむ!絵ときなぞなぞ 判じ絵から日本が見えてくる』株式会社PHP研究所、2016年
岩崎均史、小野泰靖 、上野堅貴他著『再びこれを判じてごろうじろ~江戸の判じ絵~』、株式会社ジェイティクリエイティーサービス たばこと塩の博物館、2012年

(6)、(12)、二見史郎監修 國府寺司訳『ファン・ゴッホの手紙』みすず書房2001年 エミール・ベルナール宛書簡、B-18、1888年9月末
J・V・ゴッホ-ホンゲル編 砧伊之助訳『ゴッホの手紙上、中、下』、岩波文庫、1995年
テオ宛書簡(中巻)、第545信、1888年

(7)、ゴッホ・アライブ実行委員会『ゴッホ・アライブ カタログ』2024年
『生誕260年記念企画特別展 北斎づくし 完全ガイド』2021年 朝日新聞出版
『図録 北斎づくし』2021年 青幻社
『すみだ北斎美術館 カタログ』2020年

(8)、(13)、稲賀繁美著『日本美術史の近代とその外部』、放送大学教育振興会、2019年、p.94、第6回映像

(14)、ディコ仏和辞典、白水社、2018年

https://www.vangoghmuseum.nl
Van・Gogh Museum Amsterdam
2024年8月14日
https://www.ccma-net.jp
千葉市美術館
2024年8月14日
『芸術新潮 特集 前川誠郎のデューラー講義』新潮社、2003年5月号

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