映像メディアリテラシーの必要性と〜今蘇る歴史的建築物〈永福寺(ようふくじ)〉〜から歴史を学びなおす
映像メディアリテラシーの必要性と〜今蘇る歴史的建築物〈永福寺(ようふくじ)〉〜から歴史を学びなおす
1、はじめに
鎌倉市と湘南工科大学が恊働で、文化財へのIT技術化に関する覚え書きを締結した(2004年3月)【1】。それに基づく最初のプロジェクトとして「3Dグラフィックによる国指定史跡である〈永福寺〉の復原〔「元」ではなく「原」と記載〕」が実行された。
報告書によれば、模型は既に造られているがリアルさに欠ける事や、修正の度に予算が取れない問題などが生じていた。そこで専門技術を求める鎌倉市と「永福寺跡」に着目しその資料を詳細に閲覧したい湘南工科大学との双方の要望が重なったため、恊働という形で現実化された。
鎌倉市では「永福寺跡」は1966年に国指定史跡されたものの、ユネスコの世界文化遺産に登録されたものはなく、「永福寺跡」をその対象候補として考えてはいるようだ。
ではなぜ登録に至らないのか、今回のレポートでは数々の歴史資料や発掘物等をもとに、永福寺建立の意図や現代のCGを駆使して制作された復原実現【a】画像を通し、崩落前の建造物の全貌を紐解いてみたい。
復原は、見事に美しくあたかも過去にタイムスリップしたかのように携帯画像【2】を通して蘇えった。IT技術から歴史的建造物であると同時に文化遺産として次世代へ残すという意味で、デザイン分野に新たな光を投げかけている。このことから平和の大切さと世界遺産になる基準を筆者とともに体験しつつ考えていくものとする。
対比として、広島の事例【3】であるCGにより復元【b】されたデザインにも触れ、史跡の痕跡を紐解きながら伝承の大切さやあり方について考察していく。
2、歴史的、逸話だらけの宝庫〈鎌倉「永福寺跡」〉と現代に語りかける史跡発掘
鎌倉市二階堂にある「永福寺跡」は、教育委員会配布のパンフレット【c】によると「源頼朝が文治5年(1189年)に奥州平泉を攻めた後、戦いで亡くなった数万の将兵の鎮魂のため」建立したとされている。しかし弟〈義経〉を殺した事に悔やんだ頼朝が、〈義経の魂を鎮める為に〉建立したとも『吾妻鏡』〔『東鑑』〕には記されており、他の資料のどれを見ても諸説あり等、逸話で終わっていることが多い。今回の資料である、鎌倉幕府が編纂したとされる『吾妻鏡』は武家という〈家〉の形成を初めて描き、後世に大きく影響を与えたものの、文書に〈花押(かおう)〉の所在がなく、これもまた信憑性に欠けたものである【4】。
また鎌倉は一時〔室町時代から明治時代初頭〕停滞してしまった都市でもあり、幾度も焼け落ち、また一般に勝った側からの書物が多いためなかなか真実は掴みづらい。
頼朝の弟〈義経〉という人物像は、幼名〈牛若丸〉の頃に荒くれ者〈弁慶〉と橋で闘う際、欄干にのぼるなどの身軽な風貌が絵本にも描かれている。またチンギス=ハン(位1206〜27)として蘇ったとされる逸話も語られている。
毎年「鎌倉まつり」4月第2日曜には、イベントとして八幡宮若宮の回廊で「静御前の舞」が行なわれる。その〈静御前〉とは、〈義経〉の妻でもあり、囚われの身でもありながら、〈義経〉を慕う今様(いまよう・歌)に合わせて悲しみの〈舞〉を踊ったとされる【4】【5】。
3、所在地とその環境
横須賀線鎌倉駅より散策しながら歩くこと30分、若宮大路を横切り、故平山郁夫氏〔元鎌倉ユネスコ協会会長〕の住居兼アトリエだった付近の小道を通り、テニスコート脇の敷地が「永福寺跡」である。
「永福寺」建立については前記したように真実はなかなか解らないが、二階堂の奥地、瑞泉寺に通ずる手前の広大な敷地内に、鎌倉市が昭和56年度の試堀調査から17年間にわたる発掘調査の末、寝殿造り風の建物と一体の建物群、その周りに大きなお堀、池などに架かる橋などが明らかにされた【1】。
今は地名としてだけ残っている〈二階堂〉の名前の由来は、『吾妻鏡』に「大長寿院と賞する二階建ての大堂があり、ただこれを模されたもので、別称として二階堂と号することになった。」と書かれており、地名だけが残されたと推測する【4】。
現地では広大な敷地の史跡で休憩をするお年寄りや、親子で遊ぶ姿も見られた。閑静な風景の中にかつてのお堀のようなものを再現するべく、今後池として水が張られる予定の場所に、水道のホースが置き去りにされた様はまだまだ関心度の低さを窺わせせている。
〈事実〉として、1984年から12年間の発掘調査では当時の品々である瓦の部分や、堂内を飾る装飾品の品々等と、柱を支えた礎石や雨落ちの位置や大きな池に掛かる橋ども明らかになった【1】。しかし、隣接するテニスコート内にも池が広がっていたと予想され、敷地内にも2件民家がある為に、〈市民ファースト〉的見地からはこのまま静かに保存される事も頭に入れておかなければならないと考える。
4、比較として
広島には、厳島神社と原爆ドームが1996年12月にメキシコで開催された世界遺産実行委員会においてユネスコの世界文化遺産に認定されてから、昨年2016年に登録20周年を迎えた【6】。その一つである原爆ドーム〔広島県産業奨励館〕が世界文化遺産に登録された事について考えてみた。
広島県内の工業高校でも、生徒達が映像会社と協力してその一部である旧広島県庁の再現CGづくりに参加し、上映会も試みられていた。原爆投下前の静かな町並みをCGにより蘇らせ、多くの人々が感じていた〈何気ない毎日の生活を送っていた事の幸せ〉を現代の若者達が追想できる視覚的イメージで再現する事は大切な表現方法であり、世界遺産登録になる必要な活動として参考にしなければならいと考える【3】【b】。但し2016年暮れ、原爆ドーム周辺の華美なイルミネーションイベントの反対から、鎮魂のための静かなLED電灯と低めの位置の点灯で行なわれたが、常に地域住民への配慮を怠らない事も現代デザインに一つの問題を投げかけた事例でもある【7】。
5、おわりに
比較から、鎌倉市の国指定史跡「永福寺跡」が世界文化遺産に登録されるには何が必要か以下に述べる。
日本でも観光客の多い地域として〈鎌倉〉は知名度があり、アメリカ前大統領オバマ氏も大仏へ幼い頃と就任中にも足を運んでいる。そのオバマ氏が2009年4月5日チェコの首都プラハで非核演説を行なった事は、歴史的にも素晴らしい事であった。また、その演説や現職時に広島訪問を果たしたオバマ氏を評価した元トルーマン大統領〔原爆投下を指示〕の孫クリフトン・トルーマン・ダニエル氏も、息子が学校から持ちかえった実話本【8】をきっかけに、核の恐ろしさを訴え続けている。同時にダニエル氏はアメリカの社会科教師を集め、〈事実〉を子ども達に伝える大切さを訴える活動も行っている【9】。
我々人類が初めて体験した悲痛な出来事である原子爆弾の投下が、我が日本で起こってしまった事への懐疑の念を怠る事はできない。そして真実と向き合わなければ、技術の進化優先ばかりで多くの人々に〈真の心〉を伝えられる芸術作品は作られないと考える。
鎌倉市も〈平和都市宣言の碑〉が市役所前にあり、その宣言を揮ごうした故平山郁夫氏も鎌倉市民でもあり、被爆者でもあった。また偶然にも故平山邸は「永福寺跡」近くにあり、このことからも鎌倉市や市民が、広島市の行動を手本に、世界的規模で平和の大切さを宣言し、メディアを駆使して〈平和〉を伝える事が世界遺産登録の糸口に繋がるのではないかと考える。
人類は高い技術力と芸術性の高い能力を日々向上させてきた。
だからこそ「永福寺跡」CG復原においても様々なメディアを使い最新のデザイン技術を充分理解した上で、現代的な発想から的確に、戦火に於いて消え去った〈物質的なもの〉を蘇らせる事が大切である。
また一層「永福寺跡」に光をあてるためには、偏った歴史感や一部の情報に基づいて建物をそのまま復原するのではなく、ネットの発達による〈映像上でのメディアリテラシー〉の必要性を改めて念頭に置きながら、復原作業に取り組むことが必須である。
そして自然に優しく、地域住民や次世代の子ども達を集め、楽しみながら巻き込んで行く〈ワークショップ〉等の取り組みは、地域に根ざした文化意識を高める伝承方法として、大切な作業のひとつと考える。
引き続き鎌倉の市民としても、「永福寺跡」が世界へ文化遺産として残せるものになるのか、芸術のあり方と共に関わって行けたらと考える。
- AとB:国指定史跡 永福寺跡備え付けパンフレット (鎌倉市教育委員会 2016年4月発行) ①:永福寺跡 入口奥に設置の看板 復原CGイメージ画像を見るスマホアプリ(AR永福寺)をここでダウンロードする。(映像提供協力:湘南工科大学と鎌倉市役所恊働) ②:永福寺 〈左〉舊(旧)蹟碑 〈右〉左手にテニスコートの見える入口 (2017年1月2日、29日 筆者撮影)
- 資料本:【4】五味文彦、本郷和人編『現代語訳 吾妻鏡』4巻5巻 吉川弘文館 (表1画像)(2016年12月 筆者撮影)(非公開)
- 阿弥陀堂 跡 現在の風景と「AR永福寺」より見る復原CG画像との対比 ①〜④:現在風景 A〜D:アプリ内の画像(筆者携帯内スクリーンショット撮影)(映像提供協力;湘南工科大学と鎌倉市役所恊働) (2017年1月2日 筆者撮影)
- 二階堂 跡 現在の風景と「AR永福寺」より見る復原CG画像との対比 ⑤〜⑨:現在風景 E〜I:アプリ内の画像(筆者携帯内スクリーンショット撮影)(映像提供協力:湘南工科大学と鎌倉市役所恊働) (2017年1月2日 筆者撮影)
- 薬師寺 跡 現在の風景と「AR永福寺」より見る復原CG画像との対比 ⑩〜⑫:現在風景 J〜L:アプリ内の画像(筆者携帯内スクリーンショット撮影にて)(映像提供協力:湘南工科大学と鎌倉市役所恊働) (2017年1月2日 筆者撮影)
- 広島の町の復元CG画像:(映像提供協力:記録映画、ヒロシマ爆心地復元プロジェクト提供)
- 「永福寺跡」入口奥正面にある案内図 (2017年1月2日 筆者撮影)
- 鎌倉駅から「永福寺跡」への案内地図 鎌倉市教育委員会 2016年4月発行 (国指定史跡 永福寺跡備え付けパンフレットより抜粋)
参考文献
〈参考文献〉
【1】:財団法人情報処理学会研究報告「コンピュータグラフィックによる 永福寺の復原」(2005年3月16日Web PDFより )
鎌倉市教育委員会制作「鎌倉市二階堂 国指定史跡 『永福寺跡』〜国指定史跡永福寺跡史跡整備事業に関わる発掘調査報告書ー平成19年ー」鎌倉市教育委員会
鎌倉市教育委員会制作「鎌倉市二階堂 国指定史跡 『永福寺跡』〜発掘調査の成果と整備の状況〜チラシ 平成28年(2016)4月」鎌倉市教育委員会
【2】:復原CGイメージ画像を見るスマホアプリ(AR永福寺)をここでダウンロードする。(湘南工科大学と鎌倉市役所恊働)
【3】:2015年12月10日毎日新聞 地方版に掲載(Webより閲覧)
【4】:五味文彦、本郷和人 編『現代語訳 吾妻鏡 3・4』吉川弘文館 五味文彦、本郷和人、西田友広、遠藤珠紀、杉山巌 編『現代語訳 吾妻鏡 鎌倉時代を探る』吉川弘文館(語源資料:日本大百科全書、世界大百科事典、デジタル大辞泉)
【5】:鎌倉観光協会「静の舞 解説」ホームページより
森本繁 著『白拍子静御前』新人物往来社2005年12月15日第1刷発行
【6】:厳島神社(広島県ホームページ)、原爆ドーム(市民局 国際平和推進課ホームページ)
『日本の女性の歴史4 源平悲劇の女性 静御前』 〜義経を慕う薄幸の女〜(P74〜P77)暁教育図書株式会社
【7】:2016年12月4日(朝日新聞DIGITAL記事 朝日新聞DIGITAL記事 WEBより)「原爆ドームでのイルミネーション」、2016年12月14日(朝日新聞記事 京都「被爆2世・3世の会PDF会報No.50 2016年12月25日発行WEBより抜粋)「原爆ドームにイルミネーション、あり?被爆者ら疑問視」
【8】:広島記念公園にある原爆の子の像の、モデルとなった被爆者少女佐々木貞子氏の実話本
【9】:2016年8月6日小暮聡子(ニューヨーク支局)著「【原爆投下】トルーマンの孫が語る謝罪と責任の意味(前編、後編)」Newsweek WEBより
ロサンジェルス平山亜理記者、ニューヨーク中井大助記者「心うたれた2人 原爆投下決断したトルーマン氏の孫ら」朝日新聞DIGITAL記事 WEBより
〈その他の参考資料とその詳細〉
五味文彦、本郷和人、西田友広、遠藤珠紀、杉山巌 編『現代語訳 吾妻鏡 鎌倉時代を探る』吉川弘文館(P3、7、9、11、17参照)
木下康彦、木村靖二、吉田寅 編『改訂版 詳説 世界史研究』山川出版社
玉井幸助、石田吉貞 註『日本古典選 海道記 十六夜日記』朝日新聞出版
河出書房社編集部『図説源義経 その生涯と伝説』河出書房新社
阿部光子一部著
貴志正造 訳注『全 吾妻鏡2〜吾妻鏡第6〜』P54〜P55、P72〜P73、P76〜P77、P152〜P153新人物往来社1984年8月出版
鎌倉日記(五)P118〜P119(永福寺についての解説)
武田孝 著『海道記 全釈』有限会社笠間書院 平成2年3月31日初版発行 P31〜P444〔一の四 東国、鎌倉の地について〕、P224 「承久3年の説明」その他参照
野呂匡 著『海道記 新註』原版発行昭和10年11月28日、復刻版発行昭和52年3月15日 P11〜P14参照
江口正弘 著『海道記の研究 本文編 研究編』昭和54年12月15日初版発行 鴨長明海道記
〈映像資料提供協力〉
【a】湘南工科大学提供
【b】記録映画、ヒロシマ爆心地復元プロジェクト提供
【c】鎌倉市教育委員会