再考「横浜写真」

佐藤和彦

再考「横浜写真」

1.はじめに
「横浜写真は、かつて外国人に媚びた「演出写真」として日本写真史の枠組みでは、取るに足りないものとされてきた。」(註1)
「“横浜写真”という言葉がある。前記の写真史家たちが使った蔑称だ。」(註2)
「フジヤマ・ゲイシャといった低俗な写真であり、徹底した演出でそれらしく写すというやり方であった。写真の買手である外国人に媚びた卑屈な撮影態度であった。」(註2)

これらは、幕末・明治の横浜で製作された横浜写真に対する評価である。現在では、日本写真の黎明期のトピックスとして、また、当時の風俗を知る視覚的資料として一定の評価がされているが、果たしてその評価は適正と言えるのだろうか。
これについて、日本の視覚文化との関係性、現代写真との比較の観点から以下に見ていく。

2.横浜写真とは
日本の写真史は銀板写真と呼ばれた写真術が、オランダ船により渡来した1848年から始まるが、実用的な写真は、長崎、横浜、函館の開港場からの湿板写真の導入からであり、1863年に写真を最初に職業としたのが、横浜の下岡蓮杖、長崎の上野彦馬である。
その蓮杖が開業した横浜には、同時期に「横浜写真」が生まれている。これは、日本の名所風景や風俗習慣を撮影して、手彩色した外国人向け土産用写真で、1862~63年頃に蓮杖や外国人によってその端緒が開かれたとされ、横浜が製作の中心であったことからこの名称で呼ばれるようになったものである。
この彩色写真は、鶏卵紙焼付写真とガラス板に焼き付けて彩色した幻灯写真の二つの形態があり、多くは写真帳として四切の鶏卵紙焼付に手彩色を施して、約50枚(稀に100枚)を台紙に貼って一冊として販売された。被写体は、日光、箱根、富士などの観光地や、江戸や横浜、大阪等の都市風景、芸者、人力車等の様々な職業や日本人の生活習慣、風俗といったもので構成されている。中でも、生活習慣や風俗については、写場での書き割りを背景とした演出写真が中心で、冒頭記述のような評価を生み出す理由のひとつとなっているものである。
これらは、世界旅行時代と言われる当時において、来日する外国人が増加する中では、日本固有のエキゾティシズムを情報化して、持ち帰ることができることから、外国人向けの土産物として盛んに販売されることとなり、その彩色技術の見事さとも相俟って、明治中期には横浜の一大地場産業へと発展した。また、当初は革表紙であったものが、最盛期には螺鈿細工の蒔絵を表紙とするものが製作され、外国人の目線を意識した商品化が進んだものである。
『大日本外国貿易年表』によると、1880年代から輸出統計にも計上され、1890年代には輸出額が急速に増加(1892年:6366円(註3))しており、最盛期には旅行者が土産物として購入するだけでなく、諸外国から関心を寄せられる状況であったことが想像される。

3.日本の視覚文化と横浜写真
写真術は19世紀のヨーロッパで発明されているが、その原理となるカメラ・オブスキュラという技術は画家が対象物を正確に描くための手法としては15世紀~16世紀において実用されていたものである。従って、その延長線上にある写真術は絵画に起源を持つと言える。
このような観点から、写真と絵画の関係性については、表現方法としての対立関係や技術的な相互補完関係等を多くの先人達が諸説を展開してきたものであるが、ここでは、写真術が渡来した当時の日本の視覚文化と写真の関係性を以下に見ていく。

「江戸までの日本画文化は、三次元を二次元にそのまま再構築することを良しとしない伝統を持っていた。二次元に三次元を単に構築するのではなく、象徴化の巧みさを競ったり、「描かない」表現や従積遠近図法など三次元を一度分解し、二次元に再構築して二次元特有の世界を構築する歴史である」(註4)これは、司馬江漢の『西洋画談』にある「画は毎々云ふ如く、写真に非ざれば妙と為るにたらず。又画とするにたらず。」に通じるものである。つまり、「真」とは形似を超えた真理の把握を求め、対象物の中の「気」を写しとることを言い、日本画が西洋画の追求する写実性とは異なる思想を有していたことがわかる。
一方、同じ日本において、記録や報道の手段として事実に従って表現する絵が存在している。浮世絵である。その中でも「浮世絵画家が横浜を舞台として画題から内容まで異国風俗を紹介することに重点をおいた幕末明治開化期における錦絵の一分野」(註5)として、横浜絵がある。
つまり、日本においては、対象物の本質を描こうとする日本画の思想と事件や事実を素早く、正確に表現しようとする浮世絵とが併存する中で、開国によって、西洋文化が一気に流れ込み、写真術と写実的な西洋画が同時期に輸入されるという状況が発生した。そして、日本の視覚文化においてそれらと最も親和性の高いものが浮世絵だったのである。
その結果、日本最大の外国人居留地を要する横浜において、横浜絵の持つ絢爛なる色彩と短時間に被写体の像を定着させる写真術とが結びついて、手彩色写真である横浜写真が生み出されたことは、自然なことと考えるべきであろう。
また、浮世絵が版画により製作されていたことも、複製が大きな特徴である写真との共通点であり、浮世絵と写真との双方向の技術移転を容易にしている理由のひとつである。

このような浮世絵と横浜写真との関係性に基づいて考えると、冒頭の横浜写真に対する侮蔑的な評価は極めて断片的な観点から行われたものと言わざるを得ない。それは、日本の生活習慣や風俗を写場にて演出して撮影していることは事実であるが、これは、浮世絵の手法のひとつであり、外国人に媚びた演出というよりは浮世絵と写真が相互に技術的補完を行う中で発生したものと考えるべきである。
この点についてヨーロッパに目を転じると、19世紀後半から20世紀初頭にかけてのピクトリアリズムにおいて、ヘンリー・ピーチ・ロビンソンが写真を「芸術」として認めさせたいという思いから、衣装や照明などに過剰な演出が加えられた「芸術写真」を創り、芸術に追従して写真独自の科学的機能を軽視していると議論を巻き起こしたという出来事がある。これに対して、ピーター・ヘンリー・エマソンは、自然主義こそが至上の芸術であると考えて、写真にとっての芸術は目に映るままになぞることにあると主張した。
横浜写真に対する過去の侮蔑的な評価をこのピクトリアリズムの議論に重ね合わせると、当時の日本においても、写真の科学的機能を尊重するとともに、そこに映し出されたものこそ真であるとの固定観念が強かったものと考えられる。

4.現代写真と横浜写真
写真術はその発明から180年が経過しようとしている。その間、機材の軽量化やロールフィルムの開発、カラー化、高感度化という急速な進歩を繰り返して、現代においては、デジタル技術によりフィルムを不要とする画期的な技術革新が行われている。
これにより、写真の概念は大きく変わり、写真は像を印画紙に「固定」するものから、像を情報として「流動化」するものへと変化したと言えるのではないだろうか。つまり、像を印画紙に固定して映像化し、それをさらに複写や印刷することで複製する時代から、像を信号として記録して、その信号を基礎的な情報としながら、様々な形態・内容でアウトプットできる時代へ変化したのである。
従って、写真は、それを写真として評価するよりも、像の編集行為のひとつとして評価する必要がある。この観点から横浜写真を評価すると、そこには、印画紙に焼き付けられた写真を所与のものとせずに、その被写体の持つ像に立ち返って、手彩色を施している点は、デジタル化の現代に通じる行為と言えるだろう。また、写真が絵画から発展したものと考えると、モノクロでのみ表現されることは不自然であり、彩色によって情報を補完して像に忠実な表現を狙うことは自然な行為である。

5.まとめ
長年の写真技術の進化により、現代では横浜写真は過去の文化遺産と言わざるを得ない。しかし、写真=モノクロという既成概念に囚われずに、写真術の願望である色彩を記録する行為を手彩色で実現したことは、写真の原点である「像」を基準とした情報編集を具現化したものであり、デジタル化された現代の視覚文化にも通じる行為と言える。
かつて、マン・レイは「私は絵に描きたくないものを写真に撮り、写真に撮れないものを絵に描く」(註6)と語っているが、横浜写真は1890年代という時代において、その区別の無い表現方法を実現した一例として記されるべきものと考える。

  • 横浜写真(アルバム)(非公開)

    横浜写真(横浜風景)(非公開)

    横浜写真(日光)(非公開)

    横浜写真(風俗)(非公開)

参考文献

(註1)佐藤守弘著 『トポグラフィの日本近代 江戸泥絵・横浜写真・芸術写真』 青弓社
(註2)中村啓信著 『明治時代カラー写真の巨人 日下部金兵衛』 図書刊行会
(註3)横浜開港資料館編 『彩色アルバム 明治の日本《横浜写真》の世界』 有隣堂
(註4)東京都写真美術館編 『「夜明け前」知られざる日本写真開拓史 四国・九州・沖縄編 研究報告書』
(註5)丹羽恒夫著 『横浜浮世絵』 朝日新聞社
(註6)スーザン・ソンタグ著 近藤耕人訳 『写真論』 晶文社

その他
東京都美術館編 『特別展図録第4号 写真と絵画 -その相似と異相-』
『朝日美術館 テーマ編2 写真と絵画』 朝日新聞社
『日本写真全集 1 写真の幕あけ』 小学館
ゲルハルト・リヒター他 『写真論/絵画論』 淡交社
ヴァルター・ベンヤミン著 久保哲司編訳 『図説 写真小史』 筑摩書房
多木浩二著 『ベンヤミン 複製技術時代の芸術作品 精読』 岩波書店

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