世田谷のボロ市-なぜ人を魅了するのか-
世田谷のボロ市-なぜ人を魅了するのか-
はじめに
「世田谷のボロ市」(以下、ボロ市に略)は、東京都世田谷区で開催される冬の風物詩だ。歳事の開催日は固定、平日である年も多い。にもかかわらず毎年、約60万~80万人が訪れ、市を楽しむ。そこで当稿は、ボロ市はなぜ人を魅了するのかを歴史的背景やインタビューより考察する。
1:基本データ
正式名称:世田谷のボロ市
概要:骨董品、古着、洋服、農機具、植木、食料品、玩具等の売買が行われる路上市場
開催地:東京都世田谷区世田谷1丁目にある通称「ボロ市通り」とその周辺(地図1)
開催日:12月15日16日・1月15日16日
時間:午前9時~午後8時(2016年現在)
運営:せたがやボロ市保存会
出店数:約700店
来場者数:4日間合計 約60万~80万人(註1)
特記:1994年世田谷区無形文化財に指定 2007年東京都指定無形民族文化財に指定
2:歴史的背景
まずは歴史を辿る。
2-1:六斎市から歳の市へ
1578年、北条氏政が、現稲荷森稲荷神社(東京都世田谷区桜丘2-29-3)の市を、世田谷新宿に移したのが始まりだ。領国経営にあたり、小田原城と江戸城の中間、農村世田谷を交通の要として重要視。保護振興策に、楽市を開くことにしたのである。
掟書から、この市が六斎市だったと分かる(写真1)。
1590年、北条氏が滅亡。徳川氏が関東を支配。五街道を整備し、農商分離政策を進めた。賑わいは世田谷から離れ、六斎市は、12月15日開催の歳の市へと衰退した。
2-2:歳の市からボロ市へ
歳の市は、江戸時代になると、年に1度しかない「市町」としてかえって賑わう。場所は毎年、上町と下町を交代した。明治時代、太陽暦が採用されると、1874年より旧暦12月15日と新暦1月15日に開催。1865年より、雨天等で商品が売れ残った場合、翌16日に「残市」が開かれるようになる。1887年頃「ボロ市」の俗称が一般化。1891年、4日間の開催が定番化した。戦後は上町が開催場所となる。こうして今のボロ市が出来た。
3:ボロの変遷
では、どんな物が売られていたのだろうか。物の変遷に着目する。
1600年頃~1800年代初期は、正月用品、日用品、そして農具の比重が大きかった。農間渡世店でも滅多に買えなかっただけに、市町で揃える家が多く、さながら農具市といえた。
1887年頃になると、古着やボロが増え、6割を占めた。当時、衣類は高価だった。農家では古着を普段着として再利用。ボロを草鞋の補強や野良着の繕いに利用した。
足袋、股引、手拭、単物、襦袢、湯巻といったボロは大層売れた。ボロ市の由来である。
鳥娘等の見世物を見せる「たか店」、濁酒やおでん等を売る「居店」も、集客に一役を担った。ボロ市は、農民の、年末年始の楽しみだったのだ。
1907年、玉川線開通。1913年、関東大震災。交通網の発達や震災により、住宅を郊外に求めるムードが高まり、サラリーマンが住むようになる。繊維工業が発達し、ボロの需要は激減。新客層を対象に品揃えは変わった。庭木用植木、洋服、雑貨、食料品が増えた。ボロは意を変え、古道具、骨董品となる。1990年12月の市で洋画家、高橋由一氏「墨水桜花輝耀の景」(註2)が発掘されたことも手伝い、以来は掘り出し物市といった印象が強い。
4:特筆すべき点
4-1:場に漂う雰囲気
実際に行くと、ボロ市は、驚くほど雑多で、ちぐはぐだ(写真2)。
通りの左右に並ぶ、店の種別に規則性はない。古着物屋の横に沖縄ソーキそばが売られ、その横に女性用下着、陶器、シフォンケーキ、盆栽、まな板と並ぶ。例えば古美術店だけが1エリアにまとまっていることはない。
使いかけの香水を売る店があり(写真3)、一体誰が買うのだろうか?とさえ考える。通りには人がごった返す(写真4)。音楽は流れていない。聞こえるのは、足音、通りに詰まった人々のアウターがこすれる音。そして「あの器は安い」や「古銭だ!珍しい」といった沢山のつぶやきだ。
個人的な意見だが、ボロ市は見て周るだけでなく、何かを買おうと決めて参加した方が楽しい。予算を決めて(2500~3000円を推奨)、「お金を使おう」と意識する。冬の歳事ゆえ、お勧めは手袋やニット帽子等だ。1アイテム1500~2000円でいい物が買える(写真5)。余った金額で飲食をする。
これは根底に、農民の歳の市、当時の住人が江戸で作物を売って換金した銭を持ち、年末年始の準備品を買い揃えた「物を買う恍惚感」が場に漂うからだと考える。
4-2:存在の稀有さ
東京には、区の指定無形文化財になっているボロ市がふたつある。練馬区「関のボロ市」(註3)と「世田谷のボロ市」だ。共に280年以上の歴史があり、農民のボロ需要が由来である。しかし、ふたつの今の在り方は異なる。関のボロ市について記す。
「今は本立寺(東京都練馬区関町北4-16-3)の、日蓮宗宗祖命日に営まれる『お会式』に合わせた、お祭りといった要素が強いですね」。「発祥は練馬区も農家が多かったからと伝わっています。ボロ布の売買や、年の瀬に、物々交換を行っていたのが背景だと。でも今はボロも物々交換も必要がない」。
本立寺では、お会式が主軸だから、市の形式は時代で変わっていいと言う。今の出店の主は食べ物。神仏との有縁という意味では縁日といえよう。
その点、世田谷のボロ市だけが、昔も今もボロ市のままなのだ。
4-3:不動性と変化
ボロ市は不思議だ。飽きない。なぜ、毎年、行きたくなるのだろうか。
運営を仕切る「せたがやボロ市保存会」(以下、保存会へ略 註4)事務局長、村石圭樹氏に話を聞いてみた。
「保存会は、ボロ市の継承に重きをおいています。出店者もできれば継続してほしい。1都1府28県から700店以上が集まっていますが、なかには100年以上も出店している煙草屋がいたり、親子2代に渡る業者もいます。
店の並びを不思議に思うかもしれません。ルールはあります。ボロ市通り桜栄会商店会の方々が出展する場合は店前が当然。その合間を、我々が、間口2m奥行き1mで線をひき、区画化し番号を振る。継続する限り、毎年、同じ位置を貸します。№1出店者は、ずっと№1区画。目当ての店がどこかわかった方が、お客様も毎年、楽しいでしょう。」
それでは活性化されず、来場者の飽きも懸念できる。
「それでも必ず、商売や家庭の事情で参加しない者がいて、平均すると毎年30~40店、新規が入る。新規参入は必ず抽選。また、保存会で隠し区画のような予備スペースを持っています。保存会の者も人間だから。番号の振り間違え、つまり1区画を2出店者へ指示してしまう時がある。『すまないね』だけでは申し訳ないから、元よりも良い場所を提供します。あとは出店者同士の並びの相性をみます。喧嘩があったら位置は変える。」
「また、保存会はよく勉強しています。歴史を学んだり、他県の市を見に行ったり。いい地物店があったら名刺を渡して、出店してもらいます。」
つまり、来場者は毎年、変化のないボロ市と、変化したボロ市を同時に体験しているのだ。
4-4:保存会の工夫
楽市を起源とすることから、保存会は、出店者が業者か否かを問わない。日頃、会社勤めや他の仕事をしている個人が、ボロ市の時だけ物を売っているケースもある。
名前、住所、電話番号等。保存会は、出店者の管理を個人名で行う。会社名は関係ない。信頼関係を築くために、出店者へ3項目の承諾を徹底している。
①不備不具合品等、何かあった際は、保存会は購入者へ連絡先を開示する。
②開催前に、世田谷警察署へ顔写真付きの同意書を提出する。
③毎年10月にある開催説明会には、必ず来場する。
開催説明会は数日間あり、日付は指定。案内は封書で届く。毎年1月16日、最終日になると、出店者それぞれが翌年用の封筒の宛名を書く。怪しい不明な住所を書けば、説明会の案内は届かない仕組みだ。
個人出店者がいるからこそ、一般流通品に偏らず、商品はバラエティに富む。保存会の工夫があるからこそ、来場者は、安心してボロ市で買い物ができるのだ。
まとめ
東京都世田谷区といえば、どんなイメージがあるだろうか。都会の住宅区と答える人は少なくないだろう。しかし明治時代まで、農村地域だったというから驚く。その名残が、ボロ市だ。ボロ市には、約430年の歴史、人々の生活用品の変遷、当時の農民の恍惚感、今もボロ市のままである稀有さ、不動性と変化、保存会の工夫といった多重な魅力があった。だからこそ、多くの人を魅了するのである。
参考文献
せたがやボロ市保存会発行『ボロ市のあゆみ』(2015年 金融タイムス社)
世田谷区郷土資料館編集『ボロ市の歴史』(1998年 世田谷区郷土資料館)
世田谷区生活文化部文化・交流課編集『ふるさと世田谷を語る-経堂・宮坂・梅丘・豪徳寺-』(1998年 世田谷区生活文化部文化・交流課)
新谷尚紀監修『日本人なら知っておきたい暮らしの歳時記-伝えていきたい、和の心-』(2007年 宝島社)
芳野宗春著『日本の歳事としきたりを楽しむ-茶の湯の宗匠が教える和暮らしの手引き-』(2014年 PHP研究所)
窪寺紘一著『民俗行事歳時記』(1985年 世界聖典刊行協会)
岡田芳朗・松井吉昭著『年中行事読本-日本の四季を愉しむ歳時ごよみ-』(2013年 創元社)
◆インタビュー
2016年1月8日 練馬区商工観光課
2016年1月8日 本立寺
2016年1月21日 せたがやボロ市保存会 村石圭樹様