神戸外国人旧居留地

宇山 幸子

1.はじめに
神戸の観光地といえば異人館が有名であるが、その中で観光ガイドなどを見ると「旧居留地」がある。今ではおしゃれなカフェがあったり、高級ブランドの店舗があったりとショッピングなどを楽しむ地域になっている。「旧居留地」という名前と神戸が港町であることから、昔外国人が住んでいた地域である、という想像はつく。しかし、どのような経緯でこの場所にできたか、どのような人々がどのような生活をしていたか、そしてなぜ地名として残っているのかは、案外知られていない。
2.基本データと歴史的背景
現在の神戸三宮と元町の間、12月にルミナリエが開催されるあたり、東西は神戸市役所西側の東町筋と、大丸西側の鯉川筋(メリケンロード)から、南北は大丸北側の旧西国街道(花時計線)と海岸通の一帯を「居留地」とした。
その背景として、1858年日米修好通商条約で決定された開港場のうち、横浜・長崎は条約の規定通り開港された。しかし国内の経済の混乱により、幕府は兵庫の開港は延期の提議をしたが、フランス、イギリスに拒否され、提議は難航していた。しかし1862年6月6日に「ロンドン覚書」の調印を行い、開港が五カ年延期することができた。しかしその代償として貿易上における日本の立場は大きく後退することになった。
1867年1月徳川慶喜が第15代将軍に就任し、幕府の新たな体制ができ、外国代表団も積極的に対幕府外交を展開し、フランスのロッシュ公使は、兵庫開港から幕政改革の具体案まで示し、兵庫開港を決心させた。一方イギリスは、薩摩、長州と連携して、イギリス公使館の書記官のアーネスト・サトウが、兵庫にいた西郷隆盛と会い、イギリスの主導権で兵庫開港を実現させようとし、3月慶喜は開港の約束をし、実務交渉が始まった。そして5月16日には「兵庫港并大坂に於て外国人居留地を定むる取極」が幕府と外国公使団との間で結ばれ建設される事になった。
1868年1月1日(慶応3年12月7日)神戸港が開港され、日米修好通商条約により開港場に居留地を設け、自由な居住ができるようになり、田畑17町・湿地も含めて約26町(約78,000坪257,000㎡)約500m四方に居留地を造成した。
その後1894年7月日英通商航海条約の締結により、治外法権の撤廃、内地解放、税率の一部引き上げが行われ、外国人居留地が撤廃されることになる。1899年7月17日に居留地が返還され、東遊園地や墓地、消防用具、ガス燈などは神戸市に引き継がれ、さらに1937年3月に「永代借地制度解消に関する交換公文」が成立し、1942年4月1日に永代借地権が解消され、外国人居留地は完全に消滅することになった。当時のフランス領事de Lucy Fossarieu(ド・ルシイ・フォサリュウ)は「居留地であった30年間、大きな変動や紛争は一つもなく、広く美しい並木道、夜間ガス燈が明るく照らし出す見事な煉瓦造りの歩道、石畳の十字路、今後さらに美化され利用度が高められている遊園地、この整然として清潔な神戸居留地の佇まいがいたるところで話題を呼び、「極東のモデル居留地」という賞賛をもらっている。しかし絶えず、下水道を点検し、街路や建物の清掃を心掛け、常に衛生に留意を怠らず、能率的に警察を維持し、留置場や墓地の保全に努力した。居留地の歴史はそのまま神戸の歴史を述べることになるし、神戸の歴史を抜きにして居留地の歴史も語れない」と述べ、維持発展に努めてきた自信と誇りを感じさせた。
返還以後、大正から昭和にかけて多くの日本人が入り込み、ビジネスの中心地として発展し、特に1914年(大正3年)に始まった第一次世界大戦では、世界的な船舶不足を背景に造船ラッシュとなり、港神戸は好景気になった。さらに1923年(大正12年)の関東大震災で横浜港が壊滅的な打撃を受けると、生糸をはじめとする横浜の輸出入品が神戸へ運ばれ、ますます発展した。しかし居留地は戦争の打撃によって外国商館が衰退し、新たに近代洋風建築の中層オフィスビルが次々と建てられていった。
第二次世界大戦が始まると、外国人の活動は大きく後退し、外国人の多くは祖国へ追われた。そして1945年6月5日の神戸大空襲は神戸の港や市街地を壊滅し、居留地の建物は126区画の約70%が破壊された。
戦後、戦災復興事業が開始されたが、当時の社会情勢の中復興は遅れていた。1950年の朝鮮戦争によって、日本の経済が活発化し、ビルが建ち始め、1960年代には日本は高度経済成長時代へ突入し、神戸も繁栄するようになったが、東京本社への機能流出傾向が高まり、ビルの空室が増えていった。
3.旧居留地の評価と、他との違い
全体が22のブロック(街区)に分け、1つの平均が200~300坪(約660~990㎡)にして中央に幅90フィート(約27m)のメイン道路(京町筋)が南北に貫通させた。
全体の126区画をイギリス人測量技師Cブロックが設計(明治新政府初代知事、伊藤博文と協議の上、イギリス人J.Wハートが設計しなおす)し、歩道と車道が区別され、海岸通には緑地帯(グリーンベルト)、排水を海に流す下水道が南北に通ずる道路に埋没され、各通りには街路樹やガス灯を配置し、公園の一角には鉄製の火の見櫓が建てられている。そして、レクリエーショングラウンドが設けられ、外国人と日本人の共同利用地にした。
この旧居留地が、その範囲や区画が最初の設定から返還に至るまで、一貫して変わらず、現在も町並みの区画や地番もほぼ居留地時代のものがそのまま使われており、神戸の都市形成の核となっている。
居留地の運営にしても、各国の領事、兵庫県知事、登録外国人の中から互選された「居留地会議」の常任委員会が運営にあたり、土地の借地権の競売から得られた収入と、土地に対して1年ごとに徴収した地租による財源で、独自に道路、下水、街灯などを整備し、運営、管理まで行った。その他、警察税を徴収して警察隊を組織し、居留地内の犯罪を取り締まっていた。この自治組織の優秀さは素晴らしいものであったとされる。当時の英字新聞 “The Far East”には「東洋における居留地として最も良く設計された美しい街である」と高く評価された。
海港都市神戸は横浜、長崎は実質的には治外法権の一部を放棄したものといえるのに反し、返還まで自治権を維持し、運営、管理に最後まで責任を持っていた。
4.今後の展望
1980年頃から旧居留地の残された近代洋風建築物と、歴史的景観が見直され、これらを活用して、ブティックやカフェレストランが進出し、オフィスも増加しはじめた。1983年旧居留地は神戸都市景観条例に基ずく「都市景観形成地域」に指定された。
1988年の旧神戸商工会議所ビルの保存運動では、解体されたが居留地の一角を占める大丸が、所有していたヴォーリズ設計の近代建築をLive Lab West(現旧居留地38番館)として店舗化し、さらに周辺の近代西洋建築へブティックを積極的に出店していった。それにより近代建築が点在するのではなく「街並み」として「面」で存在することの価値を認識し、今では「最も神戸らしい洗練された街」に」なっていった。これは市民運動と商業資本のコラボの成功例であるとされる。
神戸は開港が遅れたために、開港当時から日本人と外国人が混在する雑居地が居留地周辺に形成され、日本の文化や伝統と外国人のそれぞれの国の文化や慣習がお互い入り交じって発展してきた。その点で雑居地は人々が雑居しているだけでなく文化や慣習も雑居していたといえる。居留地の直接海外からもたらされる最新の文化や情報を雑居地で育まれた「雑居文化」がうまく融合して神戸独特のハイカラな多文化共生が形成されたものである。
旧居留地は当時から残っているものは数少ないが、その史跡と現代のオフィスビルが当たり前のように同じ空間に存在している。世界の最先端のブランドのショップのビルに、旧居留地時代の区画番号が刻まれたプレートが掲げてあったり、区画番号そのものを店名や、ビルの名称に使ったりと、単に昔あった居留地の名前をつけているだけではなく、居留地そのものを現代の流れと融合させて、街づくりをしている。旧居留地を歩くと、当時の面影はほとんどないが、時折残っている当時の門柱や碑がある。この不思議とも思える空気感をこれからもずっと、この旧居留地では感じることができるように保存していくことが必要であると考える。

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  • 添付資料「旧居留地の区画番号が入ったプレートと、当時の再現(神戸市立博物館)」非掲載

参考文献

『神戸と居留地 多文化共生都市の原像』、神戸外国人居留地研究会、神戸新聞総合出版センター、2005年
『神戸まちかど散歩』、神戸新聞総合出版センター、2003年
神戸旧居留地ホームページ kobe-kyoryuchi.com

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