古から現代へ、四国遍路「現代道しるべ札」の公共性あるデザインについて

藤田 賀子

はじめに
四国遍路とは、弘法大師 空海が歩いた道のりをたどる巡礼のことである。この道には古来より石の道しるべが設置されている。最古の石は、徳島県阿南市の「かも道」にある、貞治22年(1365)のもので平安時代から存在していたことがわかる。古くは一部の修行者のための巡礼が、一般庶民に開かれた巡礼文化になったのは江戸時代のことである。当時、庶民の旅は禁じられていたが農閑期の寺社仏閣参詣は認められていた時代背景がある。性善寺柴谷宗叔住職の『江戸初期の四国遍路』によると承応2年(1653)に京都の澄禅(1613-80)の『四国遍路日記』が最古の詳細な遍路記録とされている。また書籍には著名な巡礼者の道順の記録も掲載があるが現在の札所だけではなかった。(註1)
四国遍路が1番から88番順番に巡るものになったのは貞亨4年(1687)に大阪の真念(出生不明-1692)による『四国遍路指南』である。真念が無償で宿泊ができる善根宿や宿泊可能な民家の情報、巡拝すべき札所を88ヶ所に固定して指南したことがわかりやすく民衆に広まった。現代では真念は遍路の父と言われている。
明治期に入り、明治16年(1883)『四国霊場略縁起道中記大成』を刊行し、明治から大正期に279回目の歩き巡礼を達成した、山口の中務茂兵衛(1847-1922)は、243基の道しるべ石を建てている。行く先の地名、距離、が石に記され、識字率の低い時代背景から手の形で指で方角を指示している。また、巡拝回数と出身地と名前、石を提供した人の出身と名前、建立年度なども東西南北4面に記載されている形式が一般的で、これらは、近年建立の現代の平成遍路石や令和遍路石でも見受けられる。(写真1)道しるべ石により人が歩く遍路道の道筋が明確になっていった。
しかし昭和期には車での団体ツアーが中心となり、歩き遍路は減少。この時代に入っても昭和60年代以降まで現在出版されているような歩き遍路の地図は存在せず、いまだ真念や中務の指南書ぐらいで、年月のなか道しるべ石の読み取りにくい部分や、石の現存の少ない箇所などもあり難易度が高く、歩き遍路は消滅の危機をむかえていた。
そこに現れたのが、現代に多く見られる遍路道につけられた白い札の「道しるべ札」であった。(写真2)いつ頃、どのようにして始められたのか、白と赤のデザインの理由などを調査し考察をしたものである。

1.道しるべ札の歴史的背景
現代の道しるべ札はどのようにして始まったのか。正確な時期を記載した文献はほぼ存在していない。四国別格霊場 第四番札所 鯖大師の柳本住職に話を聞く。岡山の愛宕山大師教会の柚木さんという方が始めたもので、鉄板に白のペンキで赤文字のもので現在も数枚現存している。柳本住職自身も歩き遍路で道に迷った経験からそれに倣い取り付けたという。岡山の現住職に確認をしたところ昭和30年代に祖父らが取り付けていたとの証言から、現在の道しるべ札の前身である確認がとれた。同時に、この頃、緑の道しるべ札や黄色の道しるべ札も幾枚か存在していた。
その後、多くの人々が認識しているのは、「一般社団法人へんろみち保存協会」の宮崎建樹(1935-2010)の道しるべ札である。警察官を退官後、自身が2巡目の歩き遍路で迷い苦労した経験から、ひとりで「へんろみち保存協力会」を立ち上げ、昭和62年より、四国4県の遍路道分岐点などに約2000ヶ所設置されている(註2)「遠くからでも目に付く」ということで白地に赤文字で、何回かの試行錯誤を経て現在の白のアクリル板になっている。当初はベニヤ板に便箋の裏表紙の厚紙を切り抜きだったという記載が、現在、一般社団法人へんろみち保存会を引き継いでいる福井俊之氏のブログに記録が残されている。
「遠くからでも目に付く」というのは、こうしたこれまでの遍路道に残されていた、黄色や緑の札と比較しての自身の歩きながら目についた観点からだったのではないかと考察する。実際に100メートル先、500メートル先、と歩いて見比べてみると、草に覆われない限りとても目に付くことが体感できる(写真3)

2.事例の積極的評価点
しるべ札の評価すべき点は、道しるべ石が主の頃は石の置けるところに限られた目印であったが、現代の道路での分岐点や迷いやすいわかりにくい山中にも、木につるされた白い遍路の道しるべ札や木柱に取り付けられた札の増加により道順が明確になったことで、大勢の人が安心して歩けるようになりより大衆に遍路の窓口が開かれたことである。
森春美氏の『女へんろ元気旅』にも「見つけては安心して歩く」という一文がある。(註3)多くの人を導く存在として認知された「現代の道しるべ札」になっていたことは歩き遍路文化の後継に大きく貢献しているものと評価される点である。

3.同様事例との比較からの特筆点
四国遍路には同様に、「へんろ」の文字で道しるべ札を個人で継続し吊り下げている人物もいる。公認先達の田辺恵司氏に話を聞くと、宮崎氏同様に自身の道に迷った経験から、次の誰かのためという。遍路は感謝を引き継ぎ後世に残そうと行う精神が根付いている。が、あくまでも個人での継続のため同じ札が同じ場所にあるかを確認し、定期的に日時を書きこんでおり、へんろ道保存協会のような数ではなく、少数の札である。(写真4)
海外の巡礼者への対応で、2008年より作られたのがNPO法人遍路とおもてなしのネットワークによる英語版の遍路道しるべのシールである。こちらもある程度の数は見つけられるが山中や古道では少なく、宮崎氏の札のように地図なしで歩けるほどの数ではない。(写真5)
これまで英語、韓国語など、多言語も現代の道しるべ札には、発生したが、結局は、色褪せ淘汰され、日本語平仮名表記の「へんろ」と漢字の「遍路道」が最後まで残されている。考察としては、巡礼において万国共通の言葉「へんろ」が分からない人は、歩き遍路を試みる人においては世界から来る人も含めていないということである。励ましや勇気づける数々の札がへんろ道にはある。(写真6)だが、道を示す光になるものは、遍路の服と同じ白の札、そこに遠くからも目に付く赤の文字が、古来に札所を1番から88番にある時に真念が定めたように、宮崎氏がきっかけで公共のデザインとして定まったという点である。

4.今後の展望と課題
今、遍路には再び維持継承の危機が訪れている。今年7月には、主だった3団体での連携による危機打開へ向けた取り組みが発表された。また世界遺産へ向けた動きで経済活性とともに四国遍路を次世代へ継承の動きもある。四国遍路友の会を中心に毎年四国から学生の視察団が赴き四国遍路を発信し、四国の石材で道しるべ石が建立、四国遍路の道しるべ札について世界に発信と説明をしている。四国遍路とスペインサンティアゴ巡礼の道の姉妹連携は来年10周年を迎える。(写真7)
途絶えない札と石は、共に全ての巡礼者を見守り続けている。関係者の遍路文化を消滅させないという情熱の中、道しるべ札は自然のままに朽ち果てるが良しとの認識もある。だが札の維持継続への取り組む事は未来の歩き遍路を支えていく地域課題でもある。

5.まとめ
古来の手指の形で示された頃からへんろの道しるべ石は、究極の公共デザインであった。(写真8)建立者の名前の記載は、側面に裏側にとあくまで表にはなっていない。同じく遍路の道しるべ札も、「へんろ」の記載は文字が読めずとも記号のように公共のサインとなり道を示し、表に名前の記載はない。設置にあたり責任の所在から会の名前の記載や設置者の名前が書かれている物も、あくまで「黒子」の精神をつらぬいている。公共道路の看板も名もなきが普通ではある。それに自然な日常にある姿を目指した結果なのである。以上の点から、非日常の世界であるへんろ世界で、「究極の日常的存在」を目指した形である現代の道しるべ札は、公共性の高いデザインだと考察をまとめるものである。

注)レポートにあたり遍路の表記は平仮名のへんろを、道標も道しるべの表記を現地や団体表記から優先して使用し書いている。

  • 81191_011_32286147_1_1_平成遍路石 写真1 平成遍路石 森春美氏建立の裏面 2019年(写真撮影公認先達 加藤弘昭氏)
  • 81191_011_32286147_1_2_2022年調査写真 写真2 遍路道に実際にあるへんろ札。2022年著者撮影、宮崎氏逝去後のであるため棒は白ではない。場所は徳島県21番札所太龍寺への道の途中
  • 81191_011_32286147_1_3_LINE_ALBUM_御礼参り_240629_22 写真3 遍路札の比較写真 草木の中で白いものは視界に入る違いが明確であった。2024年著者撮影 場所は香川県東かがわと徳島県の県境エリア
  • 81191_011_32286147_1_4_S__98304017 写真4 公認先達田辺恵司氏の道しるべ札の裏側(2024年7月本人提供)場所は徳島県12番札所焼山寺への山中のへんろ道
  • DSC_2139 写真5 英語版のへんろ道の道しるべ札(シールになっている)(2023年著者撮影)場所は、高知県室戸方面からの国道沿い
  • 81191_011_32286147_1_6_S__98304019 写真6 地元の子供たちによる励ましのへんろ札 (2013年著者撮影)場所は高知県大月町の大月遍路道(史跡指定箇所)
  • 81191_011_32286147_1_7_o1080081015463440607 写真7 2023年の交流活動の新聞記事 記事提供 四国遍路友の会松岡氏 2024年著者撮影
  • 81191_011_32286147_1_8_2023年調査写真 写真8 指で指し示すへんろ石 2023年著者撮影 場所は徳島県4番札所へ向かう遍路道

参考文献

註1)柴谷宗叔著『四国遍路こころの旅路』慶友社、2017年 p.3 表はp.200。
註2)一般社団法人へんろみち保存協会のHPでは3年かけて約2000本となっているが、福井俊之氏のブログに梶川伸・元毎日新聞記者の2005年の取材メモが掲載されており、そこには8~9年かけて2000くらいとなっている。どちらも数はおおよそとのこと。
註3)森春美著『女へんろ元気旅』株式会社JDC、1998年 p.35。

【参考ホームページ】
一般社団法人へんろみち保存協力会
https://blog.iyohenro.jp/
NPO法人遍路とおもてなしのネットワーク
https://www.omotenashi88.net/
四国遍路友の会
http://www.shikokuhenro-tomonokai.jp/index_jp.html

【参考文献】
大野正義著『これがほんまの四国遍路』講談社現代新書、2007年
柴谷宗叔著『四国遍路こころの旅路』慶友社、2017年
柴谷宗叔著『江戸初期の四国遍路』法蔵館、2014年
森春美著『女へんろ元気旅』株式会社JDC、1998年

【聞き取り取材】
公認先達田辺恵司氏(電話にて)2024年7月19日
一般社団法人へんろみち保存協力会 福井俊之氏 (メールにて) 2024年7月22日
四国別格霊場 第四番札所 鯖大師の柳本住職(電話にて)2024年7月23日
岡山愛宕山大師協会 現ご住職(電話にて)2024年7月25日

【資料URL】
愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)
https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/52/view/6901
共同通信「四国遍路文化の継承へ、民間3団体が連携 巡礼者のデータ収集、SNS発信強化」
https://news.yahoo.co.jp/articles/db5f301614aa5b83a33f25b5cd6dd1fffbcf3fa7
ES JAPON「サンティアゴ巡礼路と四国遍路が協力協定を締結」
https://www.esjapon.com/ja/hermanamiento-de-dos-caminos-10055
福井俊之氏のブログ四国の風「宮崎建樹と私」シリーズより
http://ayumu1240.blog.fc2.com/blog-entry-373.html
http://ayumu1240.blog.fc2.com/blog-entry-387.html
http://ayumu1240.blog.fc2.com/blog-entry-372.html

補足 岡山愛宕山大師教会はHPがなくお電話のみ
別の支部のHPを発見
https://www.daisikyoukaimoonlight.com/

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