河野 保博(非常勤講師)2026年9月卒業時の講評

年月 2026年9月
卒業研究のレポートを提出されたみなさん、お疲れさまでした。芸術教養学科での学びの集大成となる「文化資産評価報告書」の作成はいかがだったでしょうか。この卒業研究では、さまざまな場で実践されているデザイン・芸術活動や、地域に存在する文化資産について情報を収集し、それを分析・考察したうえで、「文化資産評価報告書」としてまとめることが求められています。対象は歴史的建造物や伝統工芸、祭礼、芸能、食文化、景観、地域活動など多岐にわたります。しかし、何を取り上げてもよいということは、対象を選べばそれで研究になるということではありません。何を対象とし、その対象について何を明らかにし、どのような価値を見いだすのか。研究の出発点となる問いの立て方が重要です。そのためには、自らの目で観察することのできる対象なのか、資料を集めることができるのか、関係者から話を聞くことができるのか、といった調査可能性も考えなければなりません。そして、対象に向き合うなかから、「これは何なのだろう」「なぜこの形になったのだろう」「何が他とは違うのだろう」「なぜこれを将来へ残す必要があるのだろう」という問いを見いだしていくことになります。芸術教養演習1・2をはじめ、これまでの科目で身につけてきた観察、調査、比較、分析、文章化の方法を、卒業研究という一つの成果に結実させることが、この科目の大きな目的であったと思います。
一つの対象に丹念に向き合い、その成り立ちを調べ、現在の姿を観察し、他の事例と比較し、さらに文献や資料、聞き取りなどから考えを深め、自分なりの答えを導き出していく。これは学問の基本的な営みであると同時に、その醍醐味でもあります。調べれば調べるほど新しい疑問が生まれ、思うように資料が集まらなかったり、自分の考えがなかなか文章にならなかったりした方もいたでしょう。しかし、そうした過程そのものが研究です。みなさんの卒業研究はすでに知られている知識を単に整理したものではありません。自ら対象を選び、問いを立て、資料を集め、考えたことによって生み出された、それぞれ固有の学修成果です。それぞれに成果と今後の課題はありますが、一人ひとりが対象を通して社会や文化に向けた問いを提示したことには大きな意味があります。まずは、そうした成果を最後まで形にされたことを言祝ぎたいと思います。

さて、今回、私が採点と講評を担当したのは以下の14点です(順不同)。
・「えびす宮総本社 西宮えびす神社の今・昔」
・「共にまじない安産を祈る―加賀の『ころころ餅』」
・「重陽の節句と菊文化に見る日本の伝統美―平安時代を中心に―」
・「歴史の重要証人 八重山古典民謡で当時を知る」
・「横浜中華街の文化資産と多文化共生―比較分析とインタビューから導く日中共生モデルの再評価―」
・「往復運動の軌跡を『育てる』デザイン―遠州織物におけるセルビッジ(耳)と産地OSの再設計―」
・「北海道小樽市に残る歴史的建造物と『小樽芸術村』の意義について」
・「川越まつりにおける観光化の影響―文化資産としての価値と持続的継承に関する考察―」
・「伝統工芸 上野焼―過去・現在・未来―」
・「生まれ育った南さつま市の南薩鉄道の歴史について」
・「再発見したまちの建築的価値・歴史からの再生―埼玉県行田市における足袋蔵の保存・活用にみる内発的まちづくり―」
・「東山道が育んだ地域文化―上神主・茂原官衙遺跡にみる時間と記憶の継承―」
・「津軽・こぎん刺しからみる手仕事の継承」
・「登録有形文化財(建造物)の保存と活用について―旧市川家住宅(愛知・日進)を事例として―」

今回、私が担当したレポートは神社祭礼、産育習俗、民謡、伝統工芸、染織、歴史的建造物、鉄道遺産、古代遺跡、中華街、まちづくりなど、多様な対象を扱ったものでした。全体として対象への関心は高く、現地調査、聞き取り、実物観察、写真・図表・統計資料などを積極的に用いた研究も多くみられました。既存文献を整理するだけでなく、自ら対象に接近して得た情報を考察につなげた研究には、とくに説得力がありました。

この中から、特に良かった研究を二つ紹介したいと思います。
一つ目は「横浜中華街の文化資産と多文化共生―比較分析とインタビューから導く日中共生モデルの再評価―」です。研究の問いが明確で、基本情報の整理、国内外の事例比較、関係者への聞き取り、自身の経験の位置づけが有機的に結びついていました。とくに、自身の立場を単なる感想ではなく分析の視点へと転換し、研究の成果だけでなく限界まで自覚的に示した点が優れています。問いから調査、比較、考察、結論までがよく対応した、完成度の高いレポートでした。
もう一つは「共にまじない安産を祈る―加賀の『ころころ餅』」です。身近な地域習俗を対象としながら、文献調査、他事例との比較、聞き取りを組み合わせ、そこから独自の評価軸を導き出した点がとくに優れていました。対象の紹介にとどまらず、その社会的意味を分析し、現在の課題から今後の展望まで論理的に展開しています。資料に基づく考察と筆者自身の見解とのバランスもよく、課題で求められた各項目が一つの論旨に収斂した、説得力のある研究でした。

それぞれの卒業研究については個別に講評していますので、ここからは全体を通して感じたことを述べます。今回の課題では、「1.基本データと歴史的背景」「2.事例のどんな点について積極的に評価しているのか」「3.国内外の他の同様の事例と比較して何が特筆されるのか」「4.今後の展望について」「5.まとめ」という五つの内容が求められました。また、「文章の表記の正確さと構成の明瞭性」「授業の趣旨および課題内容の理解」「受講生自身の見解の明示」「着眼点の独自性」という四つの観点から評価しました。
まず、基本データと歴史的背景については、多くの方がよく調べていました。対象が現在どのような姿をしているのかだけでなく、どのような歴史的・社会的条件のなかで成立し、変化してきたのかを把握することは、現在の価値や今後を考えるための重要な前提です。一方で、歴史説明に多くの字数を費やし、評価や考察が薄くなったものもありました。今回の課題は対象の歴史を紹介すること自体が目的ではありません。歴史を踏まえて、「現在の対象をどのように評価するのか」へ進む必要があります。 また、人物名、建造物名、年次、数値などの基本情報には十分な確認が必要です。今回も一部に、固有名詞や年代などの再確認を要するものがみられました。こうした誤りは小さな問題にみえても、研究全体の信頼性に関わります。基本情報の確認もまた調査の一部であり、その正確さがその後の分析や考察を支えます。自治体資料、調査報告書、学術文献など、信頼できる資料と照合する習慣を身につけてください。
「どのような点を積極的に評価するのか」については、出来の差が比較的大きく現れました。「歴史がある」「地域に愛されている」「美しい」「残したい」と述べるだけでは、十分な評価とはいえません。何が価値を生み出しているのか、どのような仕組みや特徴が他と異なるのかを分析し、具体的な言葉で示すことが必要です。対象を構成する要素を分解し、その意味を考えることによって、初めて評価が可能になります。比較についても同様です。二つの事例を並べて特徴を紹介するだけでは比較にはなりません。何を共通の比較軸とするのか、なぜその事例を比較対象として選ぶのかを明示し、共通点と相違点がなぜ生じるのかまで考える必要があります。歴史的背景、地域社会、制度、経済、担い手などを考慮することで、比較は自分の対象を相対化し、その特筆性を浮かび上がらせる有効な方法となります。今回は、とくに比較対象を選んだ理由が十分に示されていないレポートがみられました。
今後の展望についても、単なる希望ではなく、根拠を持った提案が求められます。「若者に知ってもらう」「SNSで発信する」「学校教育に取り入れる」「イベントを増やす」といった提案は、それ自体が悪いわけではありません。しかし、なぜそれが現在の課題を解決するのか、誰が担うのか、既存の取り組みと何が違うのか、継続可能なのかまで考える必要があります。「考察する」とは、資料、調査結果、先行研究、比較事例などを根拠として、自分なりの見通しを示すことです。
まとめは、本文で論じたことを収束させる場所です。感想を書く場所でも、新しい論点を突然提示する場所でもありません。冒頭の問いに対して、何を調べ、何が明らかとなり、最終的にどのように評価したのかを簡潔に示してください。問いと結論が対応していると、研究全体の構造が明瞭になります。
そして、今回とくに重視したのが「文章の表記の正確さと構成の明瞭性」です。学術的な文章を書く目的は、自分の考えを他者に正確に理解してもらうことにあります。レポートでは、一文が長すぎて主語と述語の対応が不明確であったり、助詞の重複や不足、内容の重複がみられたりするほか、固有名詞や数値の誤り、事実と推測の混同などもありました。どれほど興味深い調査をしていても研究成果そのものが十分に伝わりません。「自分には分かっている」ことと、「初めて読む人にも分かるように書かれている」ことは異なります。書き終えた後には、主語と述語が対応しているか、一文に内容を詰め込みすぎていないか、段落どうしが論理的につながっているか、固有名詞や数字に誤りがないかを確認してください。推敲とは文章を飾ることではなく、自分の考えを整理し、他者へ正確に伝えるための研究行為の一部です。
授業の趣旨については全体としてよく理解されていましたが、文化史・地域史としてはよく調べられていても、「デザイン」という視点が十分に生かされていないものもありました。ここでいうデザインは形や色だけではありません。文化資産と人をどうつなぐのか、どのような仕組みで継承するのか、過去の価値を現在の社会へどのように翻訳するのか、そうした人・もの・地域の関係を組み立てることもここで考えるべきデザインの重要な側面です。
「受講生自身の見解」についても、多くの方が自分の考えを示していました。ただし、「私はこう思う」というだけでは研究上の見解にはなりません。その前に「なぜそう考えるのか」という根拠が必要です。現地観察、聞き取り、文献、統計、比較事例などを積み重ね、その結果として自分の見解を提示してください。同時に、資料から確認できる事実、先行研究者の見解、自分自身の考察を区別することも重要です。
着眼点の独自性も単に新しい言葉や目新しい提案を示すことではありません。これまでの研究成果や事実を踏まえたうえで、自分なりの問いを立て、対象の新しい側面を明らかにするところに独自性は生まれます。思い付きは研究の大切な出発点ですが、それを資料によって検証し、論理的に説明して初めて研究成果となります。

みなさんは、この卒業研究をもって一つの研究を完成させました。しかし、それは対象について考えることの終わりではなく、一つの出発点でもあります。調査を終えて初めて見えてきた疑問もあるでしょう。個別の講評や各教員の総評を読み、自分の研究をもう一度振り返ってみてください。「ここはもっと調べられた」「この比較は別の方法もあった」「この考えをもう少し深めたい」と思うことがあれば、それこそが次の学びへの入口です。
いろいろなことを申してきましたが、みなさんがそれぞれの対象に向き合い、調査し、考え、一つの文章としてまとめ上げたことは、芸術教養学科で積み重ねてきた学修の確かな成果です。出来上がったレポートだけではなく、そこに至るまでに資料を探し、現地へ足を運び、人に話を聞き、考え、書き直した時間そのものにも大きな意味があります。
この卒業研究で経験した「一つのことをよく見る」「疑問を持つ」「調べる」「比べる」「自分の考えを言葉にして他者へ伝える」という営みは、卒業後の生活のなかでもきっと役立つはずです。これからもそれぞれの場所で学び続け、身の回りのものごとを少し立ち止まって眺め、新しい価値を見いだしていただきたいと思います。
みなさんのこれからの学びと歩みが、さらに豊かなものとなることを願っています。

改めまして、ご卒業おめでとうございます!