「六ツ美悠紀斎田お田植えまつり」~創出と伝承のあり方~

榎並 博幸

はじめに
「六ツ美悠紀斎田お田植えまつり」[資料1]は、大正天皇即位時の大嘗祭における悠紀斎田の田植え儀礼を起源とする民俗芸能であり、現在は岡崎市の無形民俗文化財に指定されている。儀礼を模して創作された田植唄・田植踊り・装束・用具などは、今日に至るまで忠実に再現・継承されており、伝統的な農耕儀礼が「祭り」として再構築されることで[資料2]地域住民や来訪者が参加可能な芸術的・文化的体験へと昇華している。本稿では、農業文化が単なる生産活動を超えて「地域の文化資産」[資料3]として評価される過程に着目し、「六ツ美悠紀斎田お田植えまつり」がいかにして形成されてきたのか、そのプロセスを考察する。

1.基本データと歴史的背景
六ツ美地区は、かつて愛知県碧海郡に属していた「六ツ美町」(1)として存在していたが、1962年に岡崎市へ編入され、現在は同市南西部に位置づけられている。当時の六ツ美地域は、近代日本における農業近代化の先進地として位置づけられており、特にアメリカ式の耕地整理を全国に先駆けて導入した点が高く評価され、模範的農村として注目を集めた(2)。こうした背景のもと、六ツ美悠紀斎田では化学肥料の導入や気象観測機器の設置など、当時の先端的農業技術が実践されていた。また、田植式においては田植歌・田植踊り・倭舞・三河万歳といった芸能が披露されたが、これらは伝統的な要素を基盤としつつも、近代以降に改変(3)・創作されたものである(4)。これらの芸能は、地域の記憶や伝承をもとに再構成されたものであり、住民の参加と実践を通じて「伝統」としての正統性を獲得していった。このようなプロセスは、エリック・ホブズボウムが指摘する『創られた伝統』の概念(5)とも通じ、地域の文化的アイデンティティの形成に寄与している。

2.評価できる点
2-1 農耕儀礼の芸術的再構築と地域資産化
伝統的な農耕儀礼を「祭り」として再構築することで、地域住民や来訪者が参加可能な芸術的・文化的体験へと昇華されている。田んぼという生産空間は「舞台」として再編され、季節の循環や農耕のリズムが祝祭的に表現される中で、自然環境そのものが芸術的要素として取り込まれている。保存会運営部会長・加藤祐幸は、「地域住民や子どもたちが田植えに参加することで、農作業は共同体の芸術活動として体験化される」[資料4]と述べており、身体性を通じた文化継承の実践を可能にしている点で重要である。また、こうした実践は、地域の人々が世代や立場を超えて対話を交わす契機となり、その過程自体が地域資産化の一環として評価できる。
2-2 大嘗祭の始原的構造を継承する祝祭空間の創出
六ツ美地区における「悠紀斎田」の継承とその現代的演出は、天皇制と農耕儀礼の深層的な関係性を地域レベルで再解釈・体現する試みとして注目に値する。大嘗祭における「斎田」は、天皇の即位に際して国家的な稲作儀礼(6)を執り行う場であり、天皇が「稲作を司る存在」(7)として日本文化において象徴的に位置づけられてきたことを示す制度的装置である。柳田國男は大嘗祭の重層的な儀礼構造を「国家国民の精神の最も根深いところにその意味を持つてゐる。」(8)と述べ、日本人の精神文化や共同体意識の根幹に深く関わっていることを強調している。国家儀礼に関わった誇りと始原的構造を住民参加型の祝祭空間として再構築している点は、体験を共有する特別な場のデザインとして評価できる。

3.他の事例と比較して特筆されること
広島県北広島町の「壬生の花田植」[資料5]は、田の神への豊穣祈願を起源とし、時代とともにその役割や意味を変化させながら継承されてきた伝統行事である。農耕儀礼の再現を通じて地域文化を継承する民俗芸能であり、その文化的価値が評価され、2011年にはユネスコ無形文化遺産に登録された。壬生の花田植はこの登録により、地域文化が国際的に評価される契機となり、対外的な認知と誇りを高める結果となった。
一方、「六ツ美悠紀斎田お田植えまつり」は、大嘗祭に由来する歴史的背景を持ち、地域住民の手で再興・継承されてきた。地域文化資産としての価値を高めるべく、住民主体の働きかけによりその意義を広く発信してきた点が特徴である[図1]。特に、100周年に際しては、保存会が任意団体として初めて皇族の臨席を宮内庁に陳情し、実現に至ったプロセス(9)は特筆に値する。通常こうした陳情は自治体が担うが、保存会は2007年から粘り強く働きかけ、当初は関心の薄かった宮内庁の理解と信頼を獲得した。最終的に、「永きにわたりお田植え行事の保存と伝承に力を尽くされてきた方々をはじめ、この度の記念事業に携わった皆様に、深く敬意を表し、本式典に寄せる言葉といたします。」[資料6]との言葉とともに、秋篠宮ご夫妻の臨席が実現し、地域文化資産としての価値を一層高める結果となった。
このように、壬生の花田植がユネスコ登録によって外部からの評価を得たのに対し、六ツ美悠紀斎田お田植えまつりは、地域内部からの主体的な働きかけによって文化資産としての価値を高めた点で、両者は異なるアプローチを取りながらも、いずれも農耕文化の記憶を呼び起こし、地域の誇りや観光資源としての価値を高めている点で共通している。

4.今後の展望
4-1.地域文化資産としての持続的発展と次世代への橋渡し
壬生の花田植のように、ユネスコ無形文化遺産への登録が観光資源化と国際的認知に寄与した事例を踏まえると、「六ツ美悠紀斎田お田植えまつり」においても、地域外からの来訪者を意識した情報発信や体験型プログラムの開発が期待される。ただし、観光化の進展に伴う商業主義化とのバランスをいかに保つかは、今後の重要な検討課題である。また、保存会運営部会長・加藤祐幸はインタビューの中で、「地域住民や子どもたちが田植えに参加することで、農作業は共同体の芸術活動として体験化される」と述べている。しかし一方で、祭り当日の人手確保に苦慮している現状もあり、次世代に向けた魅力的な演出や参加型の体験プログラムのさらなる工夫と充実が求められている。
4-2.地域間連携によるネットワーク形成と知見の共有
農耕儀礼を基盤とした祭礼は全国に広く分布しており、地域間の情報交換や共同企画によるネットワーク形成は、文化資産継承に関する実践知の共有と相互学習を促す。住民主体の運営や行政との協働のあり方をめぐる比較研究も有効な手法である。先駆的事例として六ツ美と香川県綾川町が挙げられる。両地域は大嘗祭にゆかりのある地として1995年に保存会同士が提携し、継続的な交流を通じて知見を共有してきた。また、六ツ美は皇室儀礼との歴史的つながりを重視した保存会主導の活動が展開されているのに対し、壬生町は戦後の商業振興を契機に、住民・行政・観光団体が協働して段階的に運営体制を構築してきた。これらの事例は、広域的視点からの連携と知見の共有が地域文化の価値を再構築するうえで有効である。

5.まとめ
「六ツ美悠紀斎田お田植えまつり」は、皇室儀礼に由来する農耕儀礼を地域住民の手によって再構築し、芸術的・文化的体験として継承してきた点において、地域文化資産の創出と継承の先駆的事例といえる。その形成過程には、近代農業の導入や地域の誇りとしての意識、住民主体の運営体制が密接に関わっており、祝祭空間の創出を通じて共同体の記憶と精神文化を体現している[図2]。このような再構築は、エリック・ボブズボウムが指摘する『創られた伝統』[4]の視点からも捉えられ、過去の儀礼的要素を再編しながら現代的な地域アイデンティティの形成に寄与している。また、壬生の花田植との比較や綾川町との交流に見られるように、地域間連携による知見の共有は、文化資産の持続的継承に向けた実践知の蓄積とネットワーク形成を促す。こうした取り組みは、野村朋弘の『伝統を読みなおす』(10)において、近世文化史の大家・西山松之助が示した「伝統と現代人のつながり」の視点とも響き合い、伝統を固定的なものではなく、時代ごとに再構成される動的な文化実践として捉える重要性を改めて浮かび上がらせている。
今後は、観光化とのバランスを図りつつ、次世代への橋渡しと広域的連携を通じて、地域文化の価値を再構築していく取り組みが求められる。本祭礼は、そうした展望を担う文化実践として機能し、地域への愛着を醸成するとともに、文化資産としての意義と交流の場としての社会的役割を併せ持つ点で注目に値する。

  • 81191_011_32081100_1_1_P1040892お田植え [資料1]「六ツ美悠紀斎田お田植えまつり」の様子
    (資料提供:六ッ美悠紀斎田保存会、写真:2025年6月1日六ッ美悠紀斎田保存会撮影)
  • 81191_011_32081100_1_2_資料2_page-0001 [資料2]伝統的な農耕儀礼が「祭り」として再構築されている
    (資料:筆者作成、写真:2025年6月1日六ッ美悠紀斎田保存会撮影①~⑦・2025年10月19日筆者撮影⑧)
  • 81191_011_32081100_1_3_資料3_page-0001 [資料3]悠紀の里館内にある歴史民俗資料室には大嘗祭悠紀斎田で使用された用具・装束・記録などを中心に歴史や文化財などが展示紹介されている
    (資料:筆者作成、写真:2025年12月27日筆者撮影①~⑧)
  • 81191_011_32081100_1_4_[資料4] _page-0001 [資料4] 加藤祐幸氏へのインタビュー記録
    (資料:筆者作成、写真:2025年12月7日筆者撮影)
  • 81191_011_32081100_1_5_[資料5]  「壬生の花田植」_page-0001 [資料5] 「壬生の花田植」の様子(資料:筆者作成)
    資料・写真提供:北広島町教育委員会事務局教育課ふるさと夢プロジェクト係
  • 81191_011_32081100_1_6_資料6_page-0001 [資料6] 六ッ美悠紀斎田100周年記念式典において秋篠宮殿下のお言葉
     出典:記念誌編集委員編『大嘗祭六ッ美悠紀斎田100周年記念事業記念誌』、六ッ美悠紀斎田           
        100周年記念事業実行委員会、2016年、43項 (資料提供:六ッ美悠紀斎田保存会)
  • 81191_011_32081100_1_7_[図1]:「六ツ美悠紀斎田お田植えまつり」の形成プロセス_page-0001 [図1]「六ツ美悠紀斎田お田植えまつり」の形成プロセス
       参考文献: 櫻田潤著『図で考える。シンプルになる。』を基に筆者作成
  • 81191_011_32081100_1_8_図2_page-0001 [図2]地域文化資産の創出と継承の相関図
    参考文献: 村井瑞枝著『図で考えるとすべてまとまる』を基に筆者作成

参考文献

【註釈】
(1) 地元から出版されている関係書物には、「六ツ美」ではなく「六ッ美」と記されている。

(2)参考文献[1]99項より引用。愛知県は篤農家懇談会によって篤農家たちが訓練され、事業や施設はかなり進んでいた。耕地整理も全国にさきがけ、産業組合も堅実に発達し、農村青年たちもめざましい活動をしていたので、全国各地では、農村視察というと、まず愛知県をめざしてきた。

(3)参考文献[2]120項より引用。6月5日に田植え式が行われるに当たり、お田植え歌の応募と選定がありました。その結果は、熱田神宮宮司岡部譲・六ッ美村長早川龍介・安城農林学校長山崎延吉の3人の作品が採用となり、曲は「五万石でも岡崎様は、城の下まで船が着く」の民謡を基調にしました。
①岡部譲作詞
・今日のよい日のお田植えはじめ 稲の萬歳御代のかず やがて世界の六ッ美の種も悠紀の御田より出るように
②早川龍介作詞
・菅の小笠に揃いの着物 笛もそろへば気もそろふ 三河萬歳萬歳稲の 穂に穂出るよに祈らんしょ
③山崎延吉作詞
・早苗うゑましょ眞すぐに植ゑう すぐは神様およろこび

(4)参考文献[3]20~21項より引用。田植踊りが、大正四年(1915)以降にどのような形で継承されてきたかは資料がないため不確かである。ただ地元の野々山克彦は、高松宮御成りを契機にお田植祭りの機運が高まり、斎田跡地を借用して田植踊りが毎年おこなわれるようになったのではないか。それ以前の昭和初期までは地域の祭事などに合わせて不定期に行われていたのではないかと、推測している[野々山 2014  141]。昭和八年(1933)には、八幡社境内には大正天皇・皇太后を祭神とした大正宮が建立された。八幡社は大正悠紀斎田を顕彰する空間として整備され、田植踊りも順調におこなわれていたと思われるが、昭和十六年(1941)以降、戦争の影響で一時中断することとなった。田植歌は、お田植祭りの時だけでなく様々な機会に歌われていたらしい。昭和五年(1930)には、『大正悠紀斎田田植歌』というパンフレットが作られて村内配られた。そこには村長早川柳治の言葉として「地方俚謡として、男女青年團の諸會合其他に歌唱して名誉を永久に記念すると共に民風の作興に資しつゝあり」とあり、会合の度ごと歌われていたことが分かる[六ッ美村 1930]。このように俚謡としての田植え歌はある程度定着していたようだ。大正十五年(1926)の『六ッ美村詩』[六ッ美村 1926 756]では「俚歌俗謡」の項に収録されているし、それから半世紀以上経った昭和五六年(1981)発行の郷土史『私達のふるさと中之郷』([私達の中之郷編集委員会 1981 68]でも「俚歌・俚諺」として紹介されていたことからも確認される。

(5)参考文献[4]10項より引用。「通常、顕在と潜在とを問わず容認された規則によって統括される一連の慣習および、反復によってある特定の行為の価値や規範を(中略)伝統というものは常に歴史的につじつまのあう過去と連続性を築こうとするものである。」と述べており、『創られた伝統』の概念は、比較的新しい慣習や儀礼が、あたかも古くからの伝統であるかのように装い、正統性や一体感を演出する文化的実践を指す。彼は、伝統が自然発生的に継承されるものではなく、意図的に再構成されることもあるとし、こうした伝統が国家や地域のアイデンティティ形成に寄与すると述べている。

(6)参考文献[5]127項より引用。「天武天皇が、弥生時代から続いていた稲作儀礼としての新嘗祭を、即位した天皇が神格を得る天皇位継承儀礼として、大嘗祭という特殊な呪術的儀礼に構成したとされている。そして、天皇即位の際の即位礼とは別に、民としての稲作農耕民に知らしめ、賛意を得る手段として、神話的、呪術的祭礼である大嘗祭が必須の儀礼とされるようになった。」

(7)参考文献[6]188~189項より引用。天皇権力といえども、すべての祭祀の中枢に、「稲を中心に農業全体の順調を祈るもの」(中略)稲の豊かな稔りを保証する最高の現人神という擬装なしには、権力の維持はできなかったのである。

(8)参考文献[7]604項より引用。「国家国民の精神の最も根深いところにその意味を持つてゐる。」

(9)参考文献[3]23~24項より引用。「八十周年の時に『100周年では皇族の臨席を』という声が上がり、平成十九年(2007)から陳情をおこなった。保存会員からは、臨席にあたっては非常な苦労があったという話を聞く。最初に陳情したときには、宮内庁側の関心は薄かったという。その理由としては、宮内庁長官の認識として一世一代の大嘗祭の関連儀式をこのように毎年恒例の行事として残されていることを把握していなかったことや、こうした皇族臨席の陳情は、普通は自治体が取りまとめて出すものなので、任意団体が本当にできるのだろうかと不安視していたためではなかったろうかと推測されている。しかし陳情を繰り返し出していくうちに保存会の熱意に打たれてか、宮内庁側の態度も変わり、最終的には『100年間守り伝えてきたことを感謝する』という言葉をもらったとうれしそうに保存会員は語っていた。六月七日の『悠紀斎田100周年記念お田植えまつり』には秋篠宮及び秋篠宮妃の臨席が実現し、盛大な事業として執りおこなわれた。

(10)参考文献[11]50~51項より引用。

【参考文献】
[1]稲垣喜代志著『山崎延吉伝(伝記・山崎延吉)』、大空社、2000年
[2]記念誌編集委員編『大嘗祭六ッ美悠紀斎田100周年記念事業記念誌』、六ッ美悠紀斎田100周年記念事業実行委員会、2016年
[3]矢嶋 正幸著『大正天皇悠紀斎田の一〇〇年―近代国家儀礼と「民俗芸能」の関係性―』、日本民俗学297巻、2019年、https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonminzokugaku/297/0/297_1/_pdf/-char/ja(2025年12月16日最終閲覧)
[4]エリック・ボブズボウム他編前川啓治他訳『創られた伝統』、文化人類学叢書、1992年
[5]森田勇造著『大嘗祭の起こりと神社信仰』、三和書籍、2019年
[6]工藤隆著『大嘗祭の始原: 日本文化にとって天皇とはなにか』、三一書房、1990年
[7]柳田國男著伊藤幹治編『柳田國男全集24』、筑摩書房、1999年
[8]川嶋麗華著『農業変化の中の「壬生の花田植」の伝承』、日本民俗学295 巻、2018 年、
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonminzokugaku/295/0/295_1/_pdf/-char/ja
(2025年12月18日最終閲覧)
[9]髙野 宏著『無形文化遺産「壬生の花田植」の運営組織とその構築過程』、人文地理学会、2019年、
https://www.jstage.jst.go.jp/article/hgeog/2019/0/2019_56/_pdf/-char/ja
(2025年12月20日最終閲覧)
[10]櫻田潤著『図で考える。シンプルになる。』、ダイヤモンド社、2017年
[11]野村朋弘編『伝統を読みなおす1 日本文化の源流を探る』、藝術学舎、2014年
[12]村井瑞枝著『図で考えるとすべてまとまる』、クロスメディア・パブリッシング(インプレス)2016年

〈参考サイト〉
北広島町ホームページhttps://www.town.kitahiroshima.lg.jp/site/hanadaue/2969.html
(2026年1月20日最終閲覧)

【聞き取り取材】
悠紀斎田保存会運営部会長兼悠紀斎田保存会副会長・加藤祐幸氏
日時:2025年12月7日(日)14:00〜16:00実施
取材場所:岡崎市地域交流センター六ツ美分館 悠紀の里館内
話し手:加藤祐幸(かとうゆうこう)
聞き手:筆者
取材記録抜粋(筆者編集)

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