靖國神社にある大村益次郎銅像の存在意義

佐藤 恒希

はじめに
「なぜ世界的に有名な靖國神社に堂々とたる存在感で大村益次郎銅像があるのか?」その銅像は大鳥居、石製の石鳥居、青銅製の第二鳥居に囲まれた参道中央の広場にある。巨大で写実的、今にも動き出しそうな迫力、表情は険しく遠くを睨んでいるその姿は、靖國神社の訪問者には興味がなさそうで、実はこちらも今までは興味がなかった。銅像下の解説に目を落し「軍事関連の偉い人」と知り靖國神社とリンクするが「大村益次郎について知らない」という事象が起り、この名高い靖國神社とのギャップに私はとても強く魅かれたのであった。その存在意義を知るために調査報告をする。

1.基本データ
名称:兵部大輔大村益次郎銅像
設立日:1893年2月5日
所在地:靖國神社 外苑 参道 東京都千代田区九段北3-1-1
像のスペック:高さ12m 日本初の西洋式銅像
銅像作者:大熊氏広
銅像台座文章:三條實美

2.歴史的背景
2-1 銅像除幕式当日
1893年2月5日、大村益次郎の銅像設置除幕式が挙行された(1)。当日は雨の中での落成式(2)。小説家の樋口一葉は『よもぎふ日記』で「此雪故延になし」と、本来1月29日に予定していた落成式は雪の影響で延期になっていた(3)。

2-2 軍事家「大村益次郎」と彫刻家「大熊氏広」が生きた明治維新、文明開花という時代
銅像の主は「日本陸軍の父」(4)、幕末維新期の「軍事官僚」「洋学者」「医師」(5)と引用され、大村益次郎銅像銘文によると、陸海軍制の基礎を定む(6)とあり、今の日本の軍政になくてはならない存在であった。1824年長州藩の藩領山口県山口市生まれ、若き頃は需学、蘭学、適塾にて近代洋学、西洋の兵学を学ぶ(7)。その頃世界では1851年世界初の工業産業を披露する万博博覧会、ロンドン万博がイギリスで開幕する(8)など交易が活発化する中、1853年に黒船来航で日本は世界に脅威を感じる。大村は宇和島藩からの依頼で日本初の西洋式軍艦を完成させた後、長州藩士として西洋兵学を講ずる。1866年に四境戦争で軍事創設を行い(9)、1867年に大政奉還や王政復古の大号令が起こる。その頃1867年 パリ万国博覧会に日本は初出展し産業や文化を発表し開国を一層進めた(10)。1868年戊辰戦争で大村は軍防事務局判事加勢に任官、上野戦争で指揮官となる(11)(12)。大村は西洋兵学の知識を持った稀な人材で江戸時代から明治時代へと重宝され政治的軍事能力を発揮していた。戊辰戦争後は明治政府へ出仕し兵部大輔に就任(13)、藩兵の解体や帯刀の禁止、徴兵制度採用を提案(14)。木戸孝允により戊辰戦争の死者を慰める靖国神社の前身となる東京招魂社建設が発案、大村はその候補地選定に関わった(15)。1869年創建直後、反感を持つ士族らに京都で襲われて重傷を負いその後没した(16)。1882年大村13回忌の時に篤志から発案(17)、靖國神社は戦前陸軍省の管轄であり(18)、陸軍卿の山形有朋(19)が候補地選定に関わったことを顕彰し(20)、岩倉使節団で渡航経験のある内務卿の山田顕義が西洋式銅像や記念碑をイメージし(21)、大熊氏広(資料1〈1〉)に大村の銅像を依頼した(22)。1876年に大熊は、日本が目指した近代化政策のひとつ、伊藤博文らが設立した西洋色の強い工部美術学校の開設と同時に彫刻科へ入学(23)、1882年首席卒業した。1885年工部省で皇居造営に従事していた(24)が辞め、文明開花に伴い多くの日本人芸術家のフランス留学と同様に(25)、1888年大熊は大村銅像のため西洋彫刻を極めるべく印象派のロダンやモネが活動するヨーロッパへ渡欧した(26)。帰国後1893年日本最初の西洋式銅像を完成させた(27)。

3.大村益次郎銅像の評価
3-1 銅像設置時の構想
大村益次郎銅像の構想は招魂社(現:靖國神社)建設の構想とともに語ることができる。靖國神社が発案され(28)、大村の建設地選定の功績が顕彰されこの銅像建立が実現する。1943年までは銅像の周辺に弓矢風の鉄柵と大砲八門が配置され(29 資料1〈2〉)、台座銅像銘文には当時内大臣(30)で公爵(31)でもあった三條實美の大村に対する漢文で、明治維新やその後の軍政化の功名の顕彰文が打たれており(32)、当時、時代に即した軍事精神を象徴した構想の銅像であったと考える。

3-2 銅像の象徴としての概念変化
設置当時は日本最初の西洋式銅像が故に東京の名所となり、錦絵や写真(33)からも分かる。1877年西南戦争以降は内戦が起こらず、近代文学作品にも銅像についての明記通り軍事的な象徴を感じていないと考える(34)。しかし日本は銅像設置の1年後、1945年まで戦争大国となり、靖国神社を含め(35)大村銅像自体も軍事精神の象徴が次第に強くなって行ったのであろう。しかし敗戦後は日本は高度経済成長に突入、世界で戦争が続くも徐々に反戦意識が高まったことで、この大村銅像の建立時の象徴的解釈は人々にとって理解し難くなったと考える。ちなみに戦後アメリカは、靖國神社の存在が宗教的ではないことから容認することで国家人道な戦意発情を抑えられると判断し靖國神社解体計画を中止した(36)。この令和の現在、戦意発情を感じることはなく、大村銅像も同様である。

3-3 西洋彫刻の影響
日本で最初の実在した人物の西洋式銅像(37)で高さ12メートルの巨大な写実的で動きのある銅像。袴姿で刀を携え草鞋を履いた左足は前へと乗り出し、険しい表情で左の上野方面を向き(38)、双眼鏡を覗き込んだ直後左手を下ろした動作を感じ、まさに大熊の最高傑作と考える。というのも、工部美術学校、留学先のパリ美術学校やローマ美術学校で師匠らの作品を継承し、当時ヨーロッパの写実的で物語性と動きのある印象派芸術の特徴が全面に出ているからだ。ラグーザ(39)の仕草が特徴的な「日本婦人」(40)や、ファルギエル(41)の巨大で高さのある作品「パスツール記念碑」(42)、アレグレッティ(43)の内面を感じる「罪の前夜」(44)や、モンテベルデ(45)の「天使像」(46)の表情や滑らかな形、左手に持つトランペットを吹く準備をしている様子や、特に「3本の手のピアニスト」タールベルク(47)の像(48)は立ち姿や細部まで大村銅像に共通している。

3-4 大村益次郎銅像の評価。写実性、デザインの独創性
西洋彫刻の影響を受けながらも銅像の台座周囲一面に打たれた漢文は、大熊の西洋彫刻の先駆者(49)としての和洋折衷な独創性を感じる。軍事精神の象徴として「明治維新」や西洋を意識した芸術「文明開花」その両方を融合させた革新的銅像と言える。大村の功績は時代に翻弄され象徴の意味合いが変化していた。それは建立時のメッセージを肖像彫刻で忠実に再現した大熊の写実性に富んだ徹底した銅像制作姿勢(50 資料2)により、銅像そのものの役割を全うした(51)、伝達能力のある評価すべきものである。

4.比較
数々の大熊氏広の作品の中で瓜生岩子の写実性高い銅像がある。渋沢栄一ら篤志家らによって1901年完成し浅草寺建立された(52)。岩子は、あの戊辰戦争時に会津で看護活動し、その後教育所や産婆看護婦養成所、私立病院を設立する(53)。渋沢は自身の運営する病院養育院で岩子の協力もあった(54)ことで、社会福祉や慈善事業に捧げた生涯の功績を称えた。どの時代でも必要な慈善活動の精神をこの銅像の存在が訴え続けていると考える。1893年制作した大村益次郎銅像から瓜生岩子銅像制作までわずか8年。その期間からも大熊の肖像銅像制作の表現力の幅を感じる。前者は、銅像のサイズや高さやポーズから戦意感が象徴的となっているのに対し、岩子銅像は小さく、正座で奥ゆかしく表情からもやさしさの象徴となっている。共通の彫刻家と同時期の作品であるが非常に対比的な銅像である。大村は戊辰戦争で軍政の実務を行い(55)、一方瓜生は戊辰戦争時の敵方の会津での戦況中活動が慈善活動のはじまりとされ(56)、岩子の銅像制作にあたり、大村銅像とを繋げたストーリーを演じた作品と考える。

5.まとめ
大村益次郎の銅像は象徴として、今、何を伝えているのか。軍事的象徴として建立され、戦時中はそう認識されたものの、反戦意識がある現在の平和な日本では完全に解釈は変わった。一方瓜生岩子の銅像は、制作当初から戦前、戦後、高度経済成長から今に至るまで、不変な慈善活動の精神を訴え続けていると考える。写実性に徹しその瞬間をリアルに切り取る大熊の制作魂と技術(資料2)こそが、建立時の訴えを正確に発信しているからこそ、現時点の時代状況の相違によってその解釈が変わるのであろう。つまり、軍事的戦意を象徴とした軍事家の大村益次郎の銅像に対して「何も感じなかった」ということは、日本は今、平和であること伝えてくれている。今後も時代の経過とともに、大村益次郎銅像に限らず、全国にある像が何を伝えてくれるのかを注視していきたい。

参考文献

(1)『大村益次郎 竹本知行著 ミネルヴァ日本評伝選 P i』 「日本初の西洋式銅像が屹立しお披露目となった」と明記
(2)『新ようこそ靖國神社へ 所功 近代出版社 P105』「延期された2月5日も晴天とはならず雨の中の式典となってしまった」と明記
(3)『新ようこそ靖國神社へ 所功 近代出版社 P105』「暁より雪ふる。 今日はさきの日のにも増さりて、勢ひよく降りに降る。 芦沢来る。」 「今日は九段に大村卿の銅像落成式あるべきながら、此雪故延に成し」など、樋口一葉が『よもぎふ日記』と明記。
(4)『靖国神社 公式ウェブサイト 大村益次郎銅像』 https://www.yasukuni.or.jp/mobile-guide//jp/keidai/mapgaien/10.html 閲覧日2024/1/6
(5)「大村益次郎 竹本知行著 ミネルヴァ日本評伝選 表紙裏」
(6) 『銅像銘文解説書 プリント』
(7)『鳩ヶ谷の文化財 第十二集・大熊氏広 作品集 P16 七、大村益次郎像』
(8)『芸術教養講義6  4章 日本文化の再評価と博物館の設立・・・万国博覧会と内国勧業博覧会』
   1851 年、世界初ロンドン万博 ウィーンに出展,日本の統一国家としての世界へアピール。交易が盛んになるといった内容
(9)『刀剣の専門サイト・バーチャル刀剣博物館 大村益次郎』 https://www.touken-world.jp/tips/72620/ 閲覧日2024/1/6
 ・西洋式軍艦「宇和島丸」について。
 ・四境戦争とは、長州藩と幕府との争いのこと

(10)『芸術教養講義9 12章 博物館・美術館の登場 ・・・博覧会と殖産興業』
  1851年のロンドン万国博覧会。先進国がパリ万国博覧会1867。産業や文化を競い合うといった内容

(11)「大村益次郎 竹本知行著 ミネルヴァ日本評伝選 P i」
(12)『刀剣の専門サイト・バーチャル刀剣博物館 大村益次郎』 https://www.touken-world.jp/tips/72620/ 閲覧日2024/1/6
(13)『刀剣の専門サイト・バーチャル刀剣博物館 大村益次郎』 https://www.touken-world.jp/tips/72620/ 閲覧日2024/1/6
(14)『刀剣の専門サイト・バーチャル刀剣博物館 大村益次郎』 https://www.touken-world.jp/tips/72620/ 閲覧日2024/1/6
(15)『大村益次郎 竹本知行著 ミネルヴァ日本評伝選 P358 4東京招魂社の建設』
(16) 『靖國神社、大村益次郎銅像解説パネル』
(17) 『特別展 鳩ヶ谷が生んだ巨匠「大熊氏広・人と作品」近代彫刻の先駆者 P7大村益次郎像』
(18)『NHKスペシャル』戦前靖国神社は陸軍省の管轄といった内容
https://www.nhk.or.jp/special/detail/20050813.html#:~:text=%E6%88%A6%E5%89%8D%E3%80%81%E9%99%B8%E6%B5%B7%E8%BB%8D%E7%9C%81%E3%81%8C,%E3%81%AE%E6%88%A6%E7%95%A5%E3%81%8C%E3%81%82%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%82 閲覧日2024/1/6

(19) 『近代日本人の肖像』 https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/208/ 閲覧日2024/1/6 山形有朋は年陸軍卿という最上級の位
(20)『公益財団法人 偕行社 FACEBOOK』 https://www.facebook.com/kaikoshajp/posts/596475983840397/ 閲覧日2024/1/6
(21) 『特別展 鳩ヶ谷が生んだ巨匠「大熊氏広・人と作品」近代彫刻の先駆者 P7大村益次郎像』「銅像建立委員には、岩倉使節団の一員として渡欧経験がある山田顕義が加わっており、銅像建立の発想の根底には西洋の銅像や記念碑のイメージがあったと推察」と引用
(22) 『靖國神社、大村益次郎銅像解説パネル』
(23) 『鳩ヶ谷の文化財 第十二集・大熊氏広 作品集 P5 二、工部美術学校時代』 「明治政府は西洋美術奨励のため」と引用
(24)『鳩ヶ谷の文化財 第十二集・大熊氏広 作品集 P5 二、工部美術学校時代』
(25)『近代日本とフランス』 https://www.ndl.go.jp/france/jp/part2/s2_1.html 閲覧日2024/1/6
(26)『埼玉県公式ウェブサイト 埼玉ゆかりの偉人/大熊氏広』 https://www.pref.saitama.lg.jp/a0305/ijindatabase/syosai-47.html 閲覧日2024/1/6
(27)『靖国神社 公式ウェブサイト 大村益次郎銅像』閲覧日2024/1/13 https://www.yasukuni.or.jp/mobile-guide//jp/keidai/mapgaien/10.html 閲覧日2024/1/6
(28)『大村益次郎 竹本知行著 ミネルヴァ日本評伝選 P358 4東京招魂社の建設』 上野の焼け野原を見てその戦死者を祀るために発案しといった内容
(29)『新ようこそ靖國神社へ 所功 近代出版社 写真P38 』または、資料2
(30)『国立国会図書館 日本国憲法の誕生』内大臣について
https://www.ndl.go.jp/constitution/etc/yogo.html#:~:text=%E5%86%85%E5%A4%A7%E8%87%A3%E3%81%AF%E3%80%81%E5%86%85%E5%BA%9C%E3%81%A8%E3%82%82,%E4%BA%8B%E5%8B%99%E3%81%AA%E3%81%A9%E3%82%92%E3%81%A4%E3%81%8B%E3%81%95%E3%81%A9%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%82 閲覧日2024/1/6

(31)『コトバンク』
https://kotobank.jp/word/公爵-495521#:~:text=こう%E2%80%90しゃく【公爵】,の訳語としても用いる%E3%80%82 閲覧日2024/1/6 公爵について
(32)『銅像銘文解説書 プリント』
(33)『新ようこそ靖國神社へ 所功 近代出版社 P39 』また靖國神社が観光スポットにもなっていたことがわかる錦絵
(34)「新ようこそ靖國神社へ 所功 近代出版社 P104〜P106」 訪問者にベンチとして利用されているといった内容
(35)『日本共産党ホームページ』戦争の支柱だった?といった内容 https://www.jcp.or.jp/akahata/aik/2002-04-27/12_1201faq.html
(36)『近代の神々と建築 P64 』「宗教問題の戦後処理を計画した1944年のアメリカの国務省文書で次の興味深い見解が記されていた。靖國神社、明治神宮、乃木神社、東郷神社などの国家的英雄を祀る施設は、「宗教」というよりは戦意発揚のために国家主義的神社であるし、日本政府も国家陣神道は宗教ではない主張していいるから、信仰を強める傾向となるおそれがあり得るから」、容認しておいた方が迅速に国家神道の影響力を弱められるのではないかというのだ」と引用
(37)『名古屋刀剣ワールド 銅像とは?』https://www.meihaku.jp/photo-statue2/about-bronze-statue 閲覧日2024/1/6
「実在した人物の西洋式銅像で日本最古とされている。日本初の西洋式銅像は、兼六園(けんろくえん:石川県金沢市)の「明治紀念之標」(めいじきねんのひょう)に置かれた「日本武尊」(やまとたけるのみこと)の像です。この銅像は1880年(明治13年)、西南戦争による戦死者の慰霊を目的に建立されたと伝えられています。」と引用

『刀剣ワールド東京 東京の三大銅像』https://www.tokyo-touken-world.jp/tokyo-history/tokyo-sandai-bronzestatu 閲覧日2024/1/6
「それまで、日本で仏像は数多く造られましたが、宗教とかかわりのない実在の人物をモデルに銅像を造ることは一般的ではありませんでした。」と引用

(38)『歴史群像present デジタル歴史観 ONE PUBLISHING』https://rekigun.net/original/travel/statue/statue-02.html#:~:text=明治15年、大村の,が行われました%E3%80%82 閲覧日2024/1/6 「なお、大村益次郎像の顔は上野公園の方を向いており、西郷隆盛像と視線を合わせているともいわれています。」と引用

(39)『靖國神社、大村益次郎銅像解説パネル』 工部美術学校での師匠「ヴィンチェンツォ・ラグーザ」
(40)『文化遺産オンライン ヴィンチェンツォ・ラグーザ』 https://bunka.nii.ac.jp/heritages/search?page=1&artist=%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%81%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%83%84%E3%82%A9%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%B0%E3%83%BC%E3%82%B6 閲覧日2024/1/6

(41)『靖國神社、大村益次郎銅像解説パネル』 パリ美術学校での師匠「アレクサンドル・ファルギエル」
(42)『Paris plan du site』https://paris1900.lartnouveau.com/paris07/rues/avenue_de_breteuil/monument_pasteur.htm 閲覧日2024/1/6
(43)『靖國神社、大村益次郎銅像解説パネル』 ローマ美術学校での師匠「アレグレッティ・アントニオ」
(44)『conoscifirenze.it 』https://www.conoscifirenze.it/biografie/625-allegretti-antonio-scultore.html 閲覧日2024/1/6
(45)『靖國神社、大村益次郎銅像解説パネル』 入門した巨匠「ジュリオ・モンテベルデ」
(46)『EUROPEAN CEMETERIES ROUTE』https://symbolsproject.eu/explore/symbol/location.aspx?id=1243&pID=9182 閲覧日2024/1/6
(47)『PTNA』https://www.piano.or.jp/report/02soc/ued_chpn/2010/05/17_10730.html 閲覧日2024/1/6 タールベルクについて
(48)『Naples Life.Death & Miracles』http://www.naplesldm.com/Thalberg.php 閲覧日2024/1/6
(49)『特別展 鳩ヶ谷が生んだ巨匠「大熊氏広・人と作品」近代彫刻の先駆者 P9日本近代美術史の中の大熊氏広』
(50)『特別展 鳩ヶ谷が生んだ巨匠「大熊氏広・人と作品」近代彫刻の先駆者 P9日本近代美術史の中の大熊氏広』
(51)『彫刻家上床利秋』 https://douzou.jp/column/professional-bronze-image-work/ 閲覧日2024/1/6 ブロンズ像の歴史、「ブロンズの耐久性は非常に高く、過去の歴史を見ても、戦争などで故意に破壊されない限り、ほぼ永久的にその姿を残せます。」と引用
(52)『歴史群像present デジタル歴史観 ONE PUBLISHING』https://rekigun.net/original/travel/statue/statue-24.html 閲覧日2024/1/6 瓜生岩子銅像について
(53)鳩ヶ谷市立郷土資料館展示図録-大熊氏広展示室-P28 27.瓜生岩子像
(54)『白河市 ウェブサイト 渋沢栄一と養育院』https://www.city.shirakawa.fukushima.jp/page/page006994.html 閲覧日2024/1/6
(55)『刀剣の専門サイト・バーチャル刀剣博物館』https://www.touken-world.jp/tips/72620/ 閲覧日2024/1/6 大村益次郎
(56)『喜多方市 ウェブサイト』 https://www.city.kitakata.fukushima.jp/uploaded/attachment/16334.pdf 閲覧日2024/1/6

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