横浜中華街 ― 賑わいを創出する街のデザイン ―
1.はじめに
2019年12月に新型コロナウィルス感染症が中国・武漢で発生すると日本では、2020年4月に第1回緊急事態宣言が発出される。その後「横浜中華街と中国人」に対するデマが広がり、中華街では人通りが途絶えてゴーストタウンのようになる。このコロナ禍で中華街は大打撃を被り、約40店舗が閉店した。
しかし、2023年5月に新型コロナウイルス感染症が「感染症法」の第5類に移行されると中華街に徐々に人出が戻り始め、7月頃になると以前と変わらぬ街の賑わいを取り戻した。本稿では、この中華街の劇的な復調を支える「賑わいを創出する街のデザイン 」について6つの評価点から元町ショッピングストリートと比較考察していく。
2.事例の基本データと歴史的背景(参照:資料1・2・3)
名 称:横浜中華街 (以下"中華街"とする)
所在地:横浜市中区山下町
店舗数:横浜中華街発展会協同組合加盟店 406店舗/非加盟 約200店舗
横浜が1859年に開港すると、多数の欧米諸国が上海や香港を経由して来日する。その欧米人と共に来日してきた買弁[註1]と呼ばれる中国人が日本と欧米との架け橋となる。彼らは英語が話せて西洋の文化・商習慣に精通し、かつ「漢字」を通じて日本人と筆談が出来ることから欧米人に雇われた。やがて、この買弁たちが外国人居留地で独立して商売を始める。その目的は、同郷の中国人たちが異国の地で生活が出来るように衣食住を賄うことにあった。これが中華街の始まりである。
3.比較対象の基本データと歴史的背景(参照:資料1・2・3)
名 称:横浜元町ショッピングストリート (以下"元町SS "とする)
所在地:横浜市中区元町
店舗数:協同組合元町SS会加盟店 209店舗/非加盟 不明
横浜が開港した直後の1860年、江戸幕府は山下外国人居留地[註2]を建設するために横浜村の居住民90戸を山手の麓にある「本村」に強制的に移住させる。その地は後に「元」横浜村であることから「元町」と呼ばれる。半農半漁の生活をしていた住民たちは、1868年に山手外国人居留地[註3]が開かれると徐々に外国人向け商品や輸入品を扱う商店街を形成していく。これが元町SSの始まりである。
4.積極的な評価点
4-1 空間のデザイン(参照:資料4・5)
中華街は、世界にあるチャイナタウンの中で最も多くの牌楼[註4]を設けている。東西南北及び主要な通りに9つの牌楼があるので、どの方向から訪れても中華街を認識しやすい空間デザインがなされている。
元町SSでは、東側と西側に2か所の「フェニックスアーチ」を設け、メインストリートである元町通りと交差する路地にもゲートを設けて外界との境界を明確化している。
4-2 時間のデザイン(参照:資料6・7・8・9・10)
中華街では、四季を通して数多くの祭事やイベントが行われている。これは、1862年から続く「関帝廟[註5]」と2006年に開廟した「媽祖廟[註6]」と呼ばれる道教寺院があること。横浜中華学院[註7]、横浜山手中華学校[註8]の生徒や卒業生により「関帝誕[註9]」をはじめとする伝統行事が脈々と受け継がれていることにある。その結果、街全体に中国の伝統行事を取り入れた時間のデザインが成立している。
元町SSでも年間を通して多くのイベントが開催されているが、いずれも商業主義的な催しが中心である。近隣には、1869年から鎮座する元町厳島神社[註10]があり各種祭事が行われているが、元町SSのイベントとは直接的な連携がなされていない。四季を感じる時間的デザインは中華街と比較すると希薄といえる。
4-3 コミュニティのデザイン(参照:資料11)
中華街では、横浜中華街「街づくり」団体連合協議会の傘下に「横浜中華街発展会協同組合」を始めとする24団体が加盟するコミュニティが形成され、一つの店舗が複数の団体に所属するケースも目立つ。これは、相互扶助的な人間関係組織である広州幇・福建幇・三江幇・潮州幇などのような出身地別の「郷幇[註11]」や同業者の職業的連帯集団「業幇[註12]」をつくる華僑独自の習慣が基盤となってことに拠る。
元町SSは、元町まちづくり協議会の傘下にあり、他の商店街組合と元町自治会と共にコミュニティを構成する。ここでは、中華街に居住する人たちが中心になって作られたコミュニティと元町に居住していない人たちが中心となって作るコミュニティの対比がある。
4-4 アクセスのデザイン(参照:資料12・13)
中華街、元町SSともにJR京浜東北線「石川町」駅、みなとみらい線「元町・中華街」駅が最寄り駅であり、バスのアクセスも良好である。また自動車の利便性を見ると中華街には大きな駐車場が3か所整備されてる。特に中華街パーキングでは大型観光バスが8台も停まれる機能があり、団体客を積極的に受け入れる体制が整う。
一方の元町SSでは、元町通りで平日・休日午前中に利用できる路上駐車場、元町仲通り沿いにある小規模な平面駐車場が散見される。1971年に歩行者天国を導入、2004年には「協同配送システム」も導入しており、自動車より人間を優先する街づくりをしている点が中華街とは大きく異なる。
4-5 景観のデザイン(参照:資料5・14・15)
中華街には「中華街憲章」及び「中華街 街づくり協定」、元町SSでは「元町公式ルールブック」が制定されている。元町SSでは、建物の高さ制限・建物の色・壁面後退・看板の設置方法など景観デザインに係わる厳格な規則が明記される。また、ホスピタリティも前面に打ち出しており「ボンエルフ街路[註13]」導入、多数のベンチ、足元灯[註14]、ペットに水を飲ませる「ペットバー」などの改修工事が4期(1965年~2020年)に渡って行われた。
中華街では、中華街大通りの整備改修(2005年)が行われ、石畳化、電線地中化などのバリアフリー化を実施したが、協定には建物の用途に関する規制、「住宅専用建築物」の新築・増築・改築、「駐車場」の整備に関する規定が中心であり景観デザインに関する規制はみられない。
4-6 街づくりのデザイン(参照:資料14・15)
「中華街 街づくり協定」には、新たに中華料理店を出店する際の取り決めがあり「街づくり審査委員会」への届け出に関しても言及されおり、新店舗に対するチェック機能があることが判る。
一方で「元町公式ルールブック」には「元町商人スタイルの確立」が謳われているが、そのチェック機能は見当たらない。実際にどこにでもある大手飲食チェーン店や衣料品店などの進出を許しており元町ブランドへの影響が懸念される。
5.今後の展望及びまとめ(参照:資料10・12・16)
評価点をグラフ化すると街づくりのアプローチが根本的に異なっていることが判る。すなわち、「街のコンテンツ作り」に重点を置く中華街と「景観重視の街づくり」を推進する元町SSの対比である。街の様子を観察すると中華街では多数の若者たちが来場し、外国人観光客も加わり連日の賑わいをみせる。一方の元町SSでは、地元の買い物客が中心であり、若者の姿や外国人観光客の姿が少なく、その賑わい方には明確な差がある。
この差の要因は、出身地別の「郷幇」や同業者の職業的連帯集団「業幇」から発生した華僑独自のコミュニティの存在である。中華街の始まりは、異国の地で同郷の中国人たちが肩を寄せ合って発展させた街である。そこは横浜開港から代々引き継がれた土地であり、彼らが生まれ育った故郷でもある。それ故、住民たちの街に対する思い入れは半端ではなく郷土愛に溢れている。絶対に街を衰退させない覚悟を感じさせる街、それが中華街なのである。その気概を感じさせるのは、三度も焼失した「関帝廟」の再建やマンション建設の反対運動から建設に至った「媽祖廟」の事例や、多額の出費を伴う「春節」や「関帝誕」などの伝統行事を絶やさないという姿勢に表れる。
中華街は、老華僑[註15]による中華料理店を中心とした街づくりを進めてきた。一方で「関帝廟」「媽祖廟」などのパワースポット化、占い店やアミューズメント施設の導入などの「食文化」以外の要素も追加された。最近では、新華僑[註16]による食べ放題店の進出も目立っている。萬珍楼の社長であり、中華街の数々の問題を解決してきた林兼正氏[註17]は自身の著書で「街は生まれたときから衰退へ向かう。常に変化しなければ生き残れない。中華街はディズニーランドを手本とすべき」と述べており、常に変化を受容するのも中華街といえる。
今回のコロナ禍は、中華街にとって関東大震災や横浜大空襲にも匹敵する災害といえる。横浜開港以来、繰り返される荒波に翻弄されながらも常に発展してきた中華街は、衰退をみせる街が参考にすべき街だといえる。
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表紙:中央写真「善隣門」 (2023.12.23 筆者撮影)
周辺写真「関帝廟」 (2023.8.6 筆者撮影) -
資料 1. 横浜中華街と横浜元町ショッピングストリートの所在地
参考文献*1・*2を流用:筆者作成
資料 2. 横浜中華街と横浜元町ショッピングストリートの基本データー
参考文献*16・*17を流用:筆者作成
資料 3. 横浜中華街と横浜元町ショッピングストリートの加盟店内訳
参考文献*3・*6より抜粋:筆者作成 -
資料 4. 横浜中華街の「牌楼」
参考文献*28より抜粋:筆者作成/写真:2023.12.21 筆者撮影
資料 5. 横浜元町ショッピングストリートの整備過程と付帯設備
参考文献*6・*17より抜粋:筆者作成/写真:2023.12.27 筆者撮影 -
資料 6. 横浜中華街を象徴する建築物
写真:2023.12.23 筆者撮影
資料 7. 元町厳島神社
参考文献*11より抜粋:筆者作成/写真:2023.12.19 筆者撮影
資料 8. 横浜関帝廟・横浜媽祖廟・元町厳島神社の歴史
参考文献*11および*23より抜粋:筆者作成 -
資料 9. 2023年 横浜中華街と横浜元町ショッピングストリートの祭事・行事・イベント
参考文献*3・*6・*11より抜粋:筆者作成
資料10. 横浜中華街の代表的祭事「関帝誕」
参考文献*13・*14を参照:筆者作成/写真:2023.8.6~2023.8.10 筆者撮影
第一日=8月 6日(日)「神殿内厄払い神事」@関帝廟神殿内(一般非公開)
「七星橋渡り厄払い神事」@関帝廟境内
第二日=8月 7日(月)「祈福消災解厄祈安第法會」@中華街
第三日=8月10日(木)「拝神儀式」@横浜中華学院校庭(一般非公開)
「新生児祈願の儀式」@関帝廟神殿内(一般非公開)
「神輿の巡業」@中華街及び元町ショッピングストリート -
資料11. 横浜中華街・元町ショッピングストリートの加盟団体
参考文献*6・*28より抜粋:筆者作成 -
資料12. 横浜中華街の施設
写真:2023.12.24 筆者撮影
資料13. 横浜元町ショッピングストリートの共同配送システム
参考文献*12より抜粋:筆者作成 -
資料14. 横浜中華街憲章・横浜中華街 街づくり協定 (2011年3月発行)
参考文献*9より抜粋:筆者作成
資料15. 元町公式ルールブック Ver.4 (2022年4月発行)
参考文献*10より抜粋:筆者作成
資料16. 横浜中華街・横浜元町ショッピングストリートの総合評価と現状
レーザーチャート:筆者作成/写真:2023.12.23 筆者撮影
参考文献
【註釈】
註1:買弁(ばいべん)
元来は中国で官庁の必要品を調達する者をいう。清時代のアヘン戦争前には広東で外人商館や外国船に食料をはじめ必需品を供給する特定の商人を買弁といった。南京条約 (1842) 以後は中国に進出してきた外国商社のために,中国国内での商取引を請負い手数料を得ていた中国人商人を称した。ここでは、後者の方を指す。欧米資本主義社会から見れば異質な中国社会において、取引を有利に運ぶためにイギリス貿易商が考え出した制度である。
彼らは、日本の売込商(輸出業者)には「手あわせ(売買契約)」を取次ぎ、引取商(輸入業者)に対しては「拝見(品質検査)」「看貫(秤量)」を行う。その際に南京口銭・拝見料・看貫料と呼ばれる手数料を支払う商習慣が存在したが、日本人商人が成長すると自由貿易を阻害する不公平な商習慣に対して批判が高まり、1879年ころから商権回復運動が始まる。1894年の日清戦争および日清修好条約破棄を契機に「対等取引」を実現する機運が高まり、1920年前後に買弁制度がようやく廃止された。
註2:山下外国人居留地(やましたがいこくじんきょりゅうち)
横浜村のあった砂州、横浜新田(1796完成)、太田屋新田(1856完成)を大岡川・派大岡川・堀川で分割、独立させた地域で「外国人街」「公用地」「日本人街」で構成され、通称「関内」と呼ばれる。現在の山下町が「外国人街」、日本大通・横浜公園付近が「公用地」、元浜町・北仲通・本町・南仲通・弁天通・太田通・相生町・住吉町・常盤町・尾上町・真砂町・港町あたりが「日本人街」にあたる。
註3:山手外国人居留地(やまてがいこくじんきょりゅうち)
1866年の起こった豚屋火事により太田屋新田にあった港崎遊郭(みよざきゆうかく)が全焼、日本人街や外国人街にも延焼する。通称「慶応の大火」と呼ばれるこの火事を契機に山下外国人居留地では防火対策として日本大通りを中心に再整備され、1868年には山手地区に欧米人の住居区域である外国人居留地を編入する。現在の山手本通り沿いの洋館が立ち並ぶ地域を指す。
註4:牌楼(ぱいろう)
装飾用の中国建造物。市街の要衝や名勝地に建てられ、2本または4本の並立する柱を持ち屋根や軒がついている。祝賀用のものは,臨時に竹や木で組み立てて飾り付けをする。風水の方位学に基づいて東・南・西・北に牌楼が建てられる。これらは守護神としての役割を持ち、陰陽五行に基づいたといわれる。
・東 =「朝陽門」(ちょうようもん) 守護神は青竜神(青)日の出を迎え、繁栄 を願う。
・南 =「朱雀門」(すざくもん) 守護神は朱雀神(赤)厄災をはらい、福を招く。
・西 =「延平門」(えんぺいもん) 守護神は白虎神(白)平和が末永く続くことを 願う。
・北 =「玄武門」(げんぶもん) 守護神は玄武神(黒)子孫繁栄の願う。
註5:関帝廟(かんていびょう)
中国の三国蜀の武将「関羽」を祀った廟。西暦160年頃に実在した中国の名武将「関羽」を神格化したもので、信義を重んじた人柄から商売繁盛の神様として世界中で祀られている。その初期は軍神として各地で祀られるようになり文廟の孔子に対して,武廟の主神となる。また関老爺と呼ばれ財神としての属性を持ち,民間における仏教・道教の信仰と習合しながら宋代には広く祭られ、護符神像を門に張り肌身離さず持ち秘密結社の紐帯ともなる。清代には,朝廷が崇敬したために各県に一つの官廟のほか地方の寒村にさえも小廟が建つ状況となる。北京や湖北省当陽,山西省解州のものが代表的なものであり,日本では古くは足利尊氏が崇拝者として知られ,今日では京都,長崎,横浜,神戸などに置かれ華僑の崇拝を集めている。
尚、現在の第四代 横浜関帝廟は、1952年に勃発した「学校事件」以降、中華街を分断して激しく対立していた「台湾派」と「大陸派」の融和の象徴であることも記憶に留めておきたい。
【横浜関帝廟に祀られる神々】
①関聖帝君(かんせいていくん)=ご利益:交通安全・商売繁盛・入試合格・学問
②玉皇上帝(ぎょくこうじょうてい)=ご利益:国奉平安
③地母娘娘(じぼにゃんにゃん)=ご利益:除災・健康
④観音菩薩(かんのんぼさつ)=ご利益:解難・健康・縁談・安産
⑤福徳正神(ふくとくせいじん)=ご利益:金運・財産安全
註6:媽祖廟(まそびょう)
海の守り神・媽祖を祭る廟で、天后宮・天后祠・天后寺・天后廟・聖母寺などとも呼ばれ、日本では天后神社として知られる。中国大陸や台湾の海岸沿い、香港・マカオ・日本・ベトナムなどの東南アジア、および東アジア人(主に中国人)の海外居住地によく見られる。台湾は、媽祖が中国本土以外で最も崇拝している土地である。四川盆地の天后宮は、湖広填四川の時に客家の先祖によって建てられたもので、海の神から水上輸送の神、さらには全能の神へと進化したものである。中国南部、中国東部、そして中国全土には媽祖を崇拝する信心があり、安全な航海が保証されると信じられ天后宮の正面玄関のほとんどは海に面している。
【横浜媽祖廟の建設経緯】
2003年秋にマンション大手の大京がマンション建設計画を発表、地元の店主らで構成する「横浜中華街発展会協同組合」が中華街の街づくりの観点から建設に反対し、土地を購入し媽祖廟を建てることを提案。大京と協議の上、土地を買い取ることで合意し、2006年3月17日に建立に至る。
【横浜媽祖廟に祀られる神々】
①天上聖母(てんじょうせいぼ)=ご利益:航海安全・除災
②註生娘娘(ちゅうせいにゃんにゃん)=ご利益:子授け
③文昌帝君(ぶんしょうていくん)=ご利益:合格祈願・学問
④月下老人(げっかろうじん)=ご利益:縁結び
⑤福徳正神(ふくとくせいじん)=ご利益:金運・財産安全
註7:横浜中華学院(よこはまちゅうかがくいん)
1898年2月、訪日していた孫文によって横浜市に設立された大同学校が前身である。同校は横浜中華街の華僑に広東語で教育を受けさせるという目的で設立した日本最初の中華学校である。関東大震災で施設が大損害を受けた翌年の1924年、横浜市に存在した二校の中華学校と合併し、中華公立学校として再組織される。1937年に日中戦争が勃発すると文部省の介入や生徒の帰国によって、事実上の閉鎖に追い込まれる。終戦後、1946年9月に再建され北京語での教育が導入され1947年に横浜中華学校と改称する。1952年、冷戦中に中華民国を支持する「台湾派」と中華人民共和国を支持する「大陸派」との間で対立が深まり「学校事件」が勃発する。紛争の末、中華人民共和国を支持する者は独立して新たに横浜山手中華学校を設立する。その結果、本校は中華民国を支持する者が優勢となり、中華民国教育部から認定を受ける。1968年に横浜中華学院と改称して現在に至る。
所在地:横浜市中区山下町142番地
構 成:小学部・中学部・高等部
生徒数:約470人
代表者:理事長 羅鴻健 / 校長 杜文劍
註8:横浜山手中華学校(よこはまやまてちゅうかがっこう)
源流は横浜中華学院と同じく孫文らによって設立した大同学校である。1949年に中華人民共和国が成立すると中華街は「大陸派」と「台湾派」に分裂し、1952年に「台湾派」が中華学院を占拠、「大陸派」の教師・生徒を駆逐する「学校事件」が勃発する。その影響を受けて分散教育を余儀なくされた「大陸派」は1953年9月に山手に校舎を建設、1957年に校名を「横浜山手中華学校」とする。2010年に現在の吉浜町に移転、新校舎を建設し現在に至る。
所在地:神奈川県横浜市中区吉浜町2−66
構 成:小学部・中学部
生徒数:中国籍=261名 / 華人=337名 / 日本人=31名
(小学部441名、中学部188名) 計629名
代表者:横浜山手中華学園理事長 曽德深 / 横浜山手中華学校校長 張岩松
註9:関帝誕(かんんていたん)
「関帝誕」は、関帝廟の主神「関聖帝君」の誕生日(中国の旧暦6月24日)に毎年行われる恒例行事で、中華街では街をあげて年に一度の祭事を行っている。1876年(明治9年)に行われていたという記録が『横浜毎日新聞』にあり、1910年(明治43年)には関帝廟改修25周年の関帝誕が盛大に行われ壮麗な神輿や龍舞の行列が山下町界隈を練り歩き、その様子を伝える記念絵葉書が販売された。関東大震災・横浜大空襲・1986年の不審火により横浜関帝廟は三度焼失するも人々の関帝廟によせる厚い信仰心によって三度の復活を果たし、現在の四代目の関帝廟が建立すると1991年に「関帝誕」が復活する。それ以降は、一度も途絶えることなく2023年には33回目の「関帝誕」を挙行した。
【祭事日程】第一日目 「神殿内厄払い神事」@関帝廟神殿内(一般非公開)
「七星橋渡り厄払い神事」@関帝廟境内
第二日目 「祈福消災解厄祈安第法會」@中華街
第三日目 「拝神儀式」@横浜中華学院校庭(一般非公開)
「新生児祈願の儀式」@関帝廟神殿内(一般非公開)
「神輿の巡業」@中華街
註10:元町厳島神社(もとまちいつくしまじんじゃ)
その起源は古く鎌倉時代初期に遡る。1180年(治承4年)、源頼朝は挙兵にあたり西伊豆土肥の杉山に鎮座していた弁財天に戦勝を祈願する。その願いが成就した後、頼朝は、茗荷島劔ヶ淵に神殿を造営し伊豆より弁財天を勧請したとが伝えられる。この地は、後に横濱村となり清水の湧水があったところから清水弁天、また洲干弁天と呼ばれるようになる。その名称は、桜木町から関内へと渡る弁天橋に名残りを留める。
元禄年間(1680年~1703年)になって増徳院境内(現在の元町プラザ一帯)に仮殿を作り、上之宮杉山弁天と称した。御神体は平日は上之宮、祭日は下之宮清水弁天にお祀りすることになる。
幕末・開港期には、この弁天社は横濱湊惣鎮守として多くの崇敬を集める。1860年(万延元年)、横濱村の住民は居留地確保のため幕府が出した命令により、堀川東岸へ移転することになり移転先を横浜元村と名乗り「元町」の礎を築く。この時、現在の山下町にあった浅間神社も元町百段上(現百段公園)へ移り、1909年(明治42年)には合祀される。
1868年(明治元年)、清水弁天は羽衣町へと遷座。翌年に杉山弁天は神仏分離令により増徳院から分離・独立し嚴島神社として祀られる。
1923年(大正12年)の関東大震災により社殿は倒壊焼失。現在の社地へ移転・復興する。1933年(昭和8年)の竣工を待って正式遷座となる。しかし、1945年(昭和20年)5月の横浜大空襲で再び焼失。1951年(昭和26年)に本殿、1961年(昭和36年)に拝殿を再建し現在に至る。
2023年(令和5年) に厳島神社御動座90周年記念事業を開始、2024年(令和6年)より本殿の建て替え、および幣殿・拝殿の改修を行う予定。
【御祭神】厳島神社 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)
多紀理姫命(たぎりひめのみこと)
多岐都姫命(たぎつひめのきこと)
紀花開耶毘賣命(このはなさくやひめのみこと)
皇大神宮 天照大御神(あまてらすおおみかみ)
金刀比羅宮 大物主神(おおものぬしのかみ)
崇徳天皇(すとくてんのう)
註11:郷幇(ごうぱん)
出身地に基づく地縁的・血縁的集団。つまり、同じ地方出身の、同姓の一族や、同じ風俗、習慣、言語をもつ人々の集団。会館(同業・同郷・同族者らが集会用に異郷に建てた施設、「潮州会館」とか「廈門(アモイ)会館」などと呼ばれるものが各地にある)、共同墓地、学校、病院などを建て相互扶助を行うのが目的である。主な郷幇には、広東幇、福建幇、潮州幇、海南幇、客家幇などがある。
①広東幇 広東省の省都広州か ら南に広がる珠江デルタと呼ばれる地域=広東語
②福建幇 廈門(アモイ)や泉州ならびにその近在=福建語
③潮州幇 広東省東部の潮州や汕頭(スワトー)等=潮州語
④海南幇 海南島=海南語
⑤客家幇 4世紀~19世紀頃に黄河流域中原から南進して他の漢族と融合することなく独自のの風俗・
習慣・言語を維持、広東省・福建省・江西省等の山間部に居住=客家語
幇の組織を支える最重要な要素は、密度の濃い人間関係をベースにした構成員相互の信頼と信用である。信用は最重要事項であり、幇内部で信用を得たものは、幇のさまざまな組織を通じて無担保や口約束の金融の供与や、事業を行う上で必要・有用な知識・情報・人脈などの便宜を享受しうる。しかし、幇の会員からの信用を失えば、事業の遂行は困難になり、当該ネットワークから追放され社会的地位を失うことになる。中華街にある「信用組合横浜華銀」は、この制度の名残として実在する金融機関である。
註12:業幇(ぎょうぱん)
同業者で作る職業的連帯集団。仕事上の便宜を与え合う機能を有する。華僑の伝統的職業に「三把刀業(さんばとうぎょう)」がある。これは三つの刃物という意味であり菜刀(包丁)、剪刀(はさみ)、剃刀(かみそり)を指しており、料理飲食業・洋服仕立業・理髪業のことを意味する。1899年(明治32年)に外国人居留地が撤廃されると西洋の技術を身につけた日本の商人や職人たちが旧居留地内に進出する。その一方で旧居留地外へと進出する中国人には、職業制限が設けられた。これが三把刀業が中国人の代表的職業となった要因である。これに関して曽徳深(横浜山手中華学園 理事長)は「料理包丁を操るのは広東人、洋服を裁断するのは上海人、頭の毛を刈るのは揚州・鎮江人である」と記している。伝統的な華僑社会では、生業も居住地も方言集団ごとに「すみ分け」が行われていたので同じ地域出身者が同業につくケースが多く、郷幇と重なる場合が多くなる。
註13:ボンエルフ街路(ぼんえるふがいろ)
街づくりにおける街路整備手法のひとつで、歩行者と自動車が共存できる歩車融合型の道路のこと。語源は、オランダ語で「生活の庭(woonerf)」=「woon」が「居住」、「erf」が「中庭」という意味である。街路を蛇行(クランクやスラローム)させたり、ハンプ(路上の起伏)を付けたりして、通行する車のスピードを抑える工夫をしている。歩道を設けずに、生活者の快適性や子どもが遊べる安全性の確保と景観形成が重視されている。
註14:足元灯(あしもととう)
快適な照明デザインを実現するための指標には、①眩しさ(グレア)の除去、②色温度、③演色性、④光源の高さ、⑤調光制御がある。これまでの日本の都市照明は、効率優先、明るさの均一化、自動車の交通事故を防ぐ交通機能を優先して導入されてきた。すなわち蛍光灯の採用、昼間のような明るさの追究、頭上からの照明がこれにあたる。しかし、これらは人間にとって快適な照明デザインとはいえない。一般的に屋内外に係わらず床や地面からの視点が高くなるほど、人間は心理的な緊張が増す性質を有している。立っている時より椅子に座っている時、さらには伏臥姿勢の方がリラックスできる。人の眼の位置と緊張感との関係は、光源の高さにも関係する。緊張感を保つ必要がある場合は、光源や明るさの重心を高くする。逆にリラックスしたい場合には、その重心を低くする必要がある。この原則を踏まえて「足元灯」を設置した元町SSでは、ホスピタリティに溢れた街づくりを実践した。
註15:老華僑(ろうかきょう)
日本に統治されていた台湾出身の日本在留者は、第二次大戦後に中国国籍を回復する。そこで中国大陸出身者の「旧架橋」に対して、台湾出身者は「新華僑」と呼ばれた。また、戦後に台湾から来日した者も「新華僑」とされたが、ここでは以下の定義がなされる。
中国では1966年頃から約10年間続いた「文化大革命」が1976年9月の毛沢東の死去、並びに江青(毛沢東の夫人)ら四人組の逮捕により終了する。その後、中国の実権を握った鄧小平体制は1978年12月の中国共産党第11期中央委員会第3回全体会議において海外資本の積極的導入、市場経済への移行など改革開放政策を推進する。そして、深圳・珠海・汕頭・厦門・海南島に経済特区が指定されると中国政府は私的な出国も容認するようになる。中国出身の経済ジャーナリストである莫邦富が『新華僑』(河出書房新社 1993年)を出版すると「新華僑」という呼び名が日本において定着する。これに対して改革開放前に出国していた中国人及びその子孫を「老華僑」と呼ぶようになる。
日本では1972年の日中国交正常化を境に「老華僑」と「新華僑」とする場合もある。
註16:新華僑(しんかきょう)
上記「老華僑」を参照。「老華僑」も「新華僑」も経済的な理由で海外に進出しているがその実態は大きく異なる。「老華僑」は欧州列強の植民地におけるプランテーションや鉱山などの低賃金労働力として海外に進出したが、「新華僑」は出国する多額な資金を有する者で貧困者ではない。また「老華僑」は、地縁・血縁・業縁を重視して「郷幇」や「業幇」を形成したが、「新華僑」は、どこの大学の卒業生なのかを重視する「学縁」を新たにネットワークに加えた。
横浜の「新華僑」たちは、最初に中華街の外で商売を行い資金を貯め、中華街に空き店舗が出ると進出してくる。しかし、彼らは、中華街のどこのコミュニティにも参加しないことが多く、今後の中華街の課題となっている。
註17:林兼正(はやしけんせい)=帰化以前の氏名:龐國忠
横浜中華街「街づくり」団体連合協議会会長で、老舗「萬珍樓」社長。1941年生まれ。インターナショナル・スクールを卒業後、跡継ぎとして萬珍樓入社。75年から同社社長を務める傍ら、横浜中華街発展会協同組合理事長を19年間務め、2012年退任した。同年の横浜文化賞を受賞。現在は24団体で構成する横浜中華街「街づくり」団体連合協議会を率いて、中華街の街づくりにまい進している。
【参考文献】
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