小田原「江之浦測候所」-景観と一体となった美術空間-

福井 香織

はじめに
2017年に神奈川県・小田原市に開設された「江之浦測候所」は、現代美術家の杉本博司氏によって構想・設計された、杉本氏設立の小田原文化財団の活動拠点と位置付けられる文化施設である。当施設は相模湾を望む広大な蜜柑畑の斜面に造られており、小田原駅から2駅離れた根府川駅という辺鄙な場所にある。(図1)しかしながら開設以来、国内外から人が訪れる施設として多くのメディアで取り上げられ、現地を訪れると幅広い層の来館客を見ることができる。本稿では、当施設の優れた性質とその可能性について考察する。

【1】施設概要
開館:2017年10月9日
住所:神奈川県小田原市江之浦362-1
敷地面積:2,877坪
江之浦測候所は、広大な庭園と、日本の伝統的な建築様式・工法により造られた建築施設で構成される。各建築物は、そこから見える小田原の海景を借景とし、冬至と夏至、春分と秋分の朝日が昇る軸線に沿って建設されている。(図2.3)「測候所」、英訳でOBSERVATORYと名付けられたのは、「意識が芽生えた古代人が自らの存在を確認する場を天空との関係のなかから測った」(註1)ことに倣ったと同時に、景観と建築が一体となった空間であることを端的に表す。
庭園や建築施設の各所には、杉本氏の作品や、彼が収集した歴史遺産・古美術・化石などが展示されている。入口にある名月門は、鎌倉・臨済宗建長寺派の正門として室町時代に建てられたが、歴史の変遷と共に移築を繰り返し、2006年の根津美術館建て替え時に小田原文化財団へ寄贈されたものだ。造園計画は、平安時代に記された『作庭記』の再検証を試みており、庭の古石材一つにまでその美意識が貫かれている。現代人が古代の遺跡を見て歴史に思いを馳せるように、何千年か先に廃墟となっても人の心を打つもの、古代から受け継がれ未来の遺跡となり得る空間を、杉本氏は自身の集大成として創り出した。

【2】施設設立の背景
設立者の杉本氏は、世界の名だたる美術館に作品が収蔵される、日本を代表する現代美術家である。彼の最も著名な作品の一つは、『海景』という世界各地の水平線をモノクロの同じ構図で撮影したシリーズだ。(図4)杉本氏がニューヨークで活動を始めた1970年代当時、写真はまだ現代美術の領域と見なされていなかった。杉本氏は写真から色を排除し、そこに写された対象から流れる時間や過去の記憶、生と死などを想起させるコンセプチュアルな作品を発表、写真を現代美術の表現手法の一つに昇華させた。
彼が『海景』を撮影し始めた経緯は、江之浦測候所の開設とも深く結びついている。杉本氏は東京出身だが、「子供の頃、旧東海道線を走る湘南電車から見た海景が、私の人としての最初の記憶だからだ。熱海から小田原へ向かう列車が眼鏡トンネルを抜けると、目の醒めるような鋭利な水平線を持って、大海原が広がっていた。その時私は気がついたのだ、「私がいる」ということを。」(註2)と語る。小田原の水平線は、自身の人間としての自意識が芽生えた原点であり、また現代人は古代人と同じ情景を見ることはできるのだろうか、という根幹的な問いが、『海景』の制作、そして施設開設の起源となっている。

【3】江之浦測候所の積極的に評価される点
当施設の特筆すべき点は、「小田原の水平線」があってはじめて成立する施設であることだ。杉本作品の『海景』シリーズの原点となった、この場所ありきのサイトスペシフィックな施設であり、施設および作品を完成させるために、小田原の海景は必須の要素として存在している。(図5)豊かな自然景観を美術作品に取り込んだ事例は他にもあるが、江之浦測候所は、この場所でしか成立し得ない唯一無二性がある。
江之浦という日本人にさえ全く知られていない土地に、世界各地から人が訪れる場所として光を当てた功績も大きい。地方の過疎地域に集客装置としてただ文化施設を作るのとは違い、世界的評価が確立された『海景』シリーズのコンテクストが背景にあることで、他の場所では成し得ない文化的価値や意義を創造している。
また名月門をはじめとした、現代の日本では建築基準法や相続税の問題から受け継ぐことが困難になった歴史・文化遺産を、杉本氏個人が積極的に収集し施設で一般公開している点において、文化保護的観点からも優れた施設であると言えるだろう。

【4】国内外の他の同様の事例と比較して何が特筆されるのか
美術家が自然景観を施設および作品に取り入れた事例としては、北海道・札幌市に2005年に開設された、モエレ沼公園が挙げられる。モエレ沼公園は、彫刻家イサム・ノグチによる「公園全体をひとつの彫刻作品」とするコンセプトのもと、マスタープランが構想された。モエレ沼はもともとゴミ埋め立て地で、ノグチは「人間が傷つけた土地をアートで再生する。」(註3)との思いから1988年に計画に参画、しかしプラン構想後すぐにノグチは亡くなり、結果彼の遺作となった。公園最大の造形物であるモエレ山は、不燃ゴミと建設残土を積み上げた人工山で、山頂からは札幌市内が見渡せる展望台となっている。(図6)負の歴史を持つ土地を、アートの概念を取り入れた自然公園として再生させた稀有な事例だ。
その開設背景は文化的意義において非常に優れている一方で、「公園完成後の発展性」については、残された課題となっているようだ。例えば札幌中心地から公園まで交通機関を利用する場合、電車とバスを乗り継ぎ約1時間を要する。(図7)札幌市民は車利用が多いにしろ、観光客にとってはアクセスが非常に悪い。ノグチほど著名な美術家が手掛けた公園となれば、本来世界中から人が訪れる場所になり得るはずだが、現状中心地や近隣駅からの送迎バスなどは無い。
また周辺には飲食店や他に立ち寄る観光スポット等に乏しく、地域一体の活性化に繋がっているとは言い難い状況だ。特定非営利活動法人「モエレ沼公園の活用を考える会」による活用推進や、公共イベントの定期的な開催は行われているものの、その文化的価値を生かし地域を発展させる主導者が不在のように見受けられる。
その点で、江之浦測候所は杉本氏が存命のうちに完成した意義は大きい。世界的な発信力のある杉本氏が、周辺地域再生のキーマンとしてその影響力を行使することができるからだ。例えば杉本氏は、以前広大な蜜柑畑であった施設周辺一帯の12,000坪に渡る土地を購入し、農業法人・植物と人間を設立、無農薬柑橘類の栽培や加工品販売を行っている。(図8)その経緯については以下のように語る。
「大きく開けた相模湾に面した片浦地区の岬の丘陵地は、昔から蜜柑をはじめとする柑橘類の栽培で栄えてきました。しかし、近年は後継者不足で耕作放棄地が広がりつつあります。私はこの岬を「甘橘山」と名付け、「江之浦測候所」を作り、隣接する農地で柑橘類の栽培を続け、維持していくことを決心しました。ブルーノ・タウトが東洋のリビエラと呼んだこの景勝の地が荒れてしまうのは忍びえないのです。」(註4)

【5】今後の展望とまとめ
財団設立を機に、杉本氏は小田原の魅力を広報する「小田原ふるさと大使」に選任され、2021年オープンの「小田原三の丸ホール」(図9)開館記念事業では、杉本氏が手掛ける古典舞台・三番叟「神秘域」が公演された。小田原市もこうした文化振興の取り組みを街の活性化の基盤とするべく、「小田原市文化によるまちづくり条例」を2020年に制定した。
歴史的建造物が多く残る小田原では、民間企業と組んでこれらの資源を利活用する「歴史的建造物利活用計画策定業務」のプロジェクトも進行している。明治時代に黒田長成の別邸として建てられた、国登録有形文化財の清閑亭は、これまで行政により一般公開とカフェ運営がされてきたが、今後は小田原の食文化や地域観光の拠点となるべく、「小田原別邸料理 清閑亭」として民間企業によって運営されることが決定している。
今後、これら地域の文化施設との回遊性を高める取り組みが成されれば、施設周辺の活性化は更に進み、国内外から新たな観光客を呼び込むことも期待できる。(図10)江之浦測候所を起点とし、地域の文化・歴史・食・自然の拠点がゆるやかに繋がれば、世界に誇るクリエイティブシティとして飛躍的な発展を遂げることも可能だろう。

  • (添付資料非公開)
  • (添付資料非公開)
  • (添付資料非公開)

参考文献

【註】
註1:新素材研究所HP、江之浦測候所、2022年11月22日閲覧
   https://shinsoken.jp/works/enoura-observatory/
註2:小田原文化財団HP、江之浦測候所 小田原考、2022年11月21日閲覧
   http://www.odawara-af.com/ja/enoura/
註3:モエレ沼公園HP、イサム・ノグチ、2022年2月22日閲覧    
   https://moerenumapark.jp/isamu_noguchi/
註4:植物と人間HP、2023年7月23日閲覧
   https://syoku-nin.com/#p-lead

【参考文献】
・杉本博司著、『江之浦奇譚』、岩波書店、2020年発行
・小田原文化財団 江之浦測候所 パンフレット
・農業法人 株式会社植物と人間 パンフレット
・広報小田原 広がる つながる ともに感じる NO.1186、小田原市発行
・Odawara Guide、小田原市発行、2018年10月 25000

【参考WEBサイト】
・小田原文化財団 HP、2022年11月22日閲覧
 http://www.odawara-af.com/ja/
・美術手帖 HP、杉本博司の集大成。「小田原文化財団 江之浦測候所」が10月に開館、2023年7月22日閲覧
 https://bijutsutecho.com/magazine/news/report/4594
・DISCOVERJAPAN HP、杉本博司の超大作!小田原「江之浦測候所」で日本文化を身体で感じる、2022年11月22日閲覧
 https://discoverjapan-web.com/article/14218
・VOGUE JAPAN HP、杉本博司が語る、モノクロの魅力とは。、2022年11月22日閲覧
 https://www.vogue.co.jp/lifestyle/article/2019-09-20-hiroshi-sugimoto
・小田原市 HP、小田原ふるさと大使、2022年11月22日閲覧
https://www.city.odawara.kanagawa.jp/municipality/introduction/kyoju/ambassador/sugimoto.html
・公共R不動産 HP、[前編]公民連携で再生。別邸文化を未来につなげる小田原ブランド、2022年11月23日閲覧
 https://www.realpublicestate.jp/post/odawara-01/
・小田原三の丸ホール HP、小田原三の丸ホールについて、2022年11月23日閲覧
 https://ooo-hall.jp/about/
・小田原市 HP、「小田原市文化によるまちづくり条例」制定について、2022年11月23日閲覧
 https://www.city.odawara.kanagawa.jp/field/lifelong/culture/culture_c-planning/p29274.html
・モエレ沼公園 HP、2023年7月22日閲覧
 https://moerenumapark.jp/
・特定非営利活動法人 「モエレ沼公園の活用を考える会」 団体概要書、2023年7月22日閲覧
 https://www.city.sapporo.jp/shimin/support/kikin/tourokudantai/documents/164_prof.pdf

年月と地域
タグ: