清澄庭園・清澄公園 ~時代とともに姿を変える名石の庭~
1.概要と歴史
清澄庭園は、東京都江東区の清澄白河駅周辺に位置する日本庭園で、現在は都立庭園の一つとなっている。三菱の創始者である岩崎弥太郎が明治期に完成させた庭園だが、大名庭園の形式を取り入れており、泉水・築山・枯山水を主体とする回遊式林泉庭園に分類される。
清澄庭園があった土地は、元々は豪商の紀伊國屋文左衛門の屋敷跡と伝えられ、江戸時代後期の享保年間には下総国関宿城主の久世大和守の下屋敷になる。この時代にある程度庭園が形作られたがその後は荒廃していたところ、明治11年(1878年)に岩崎弥太郎が土地を購入し、本格的な庭園として整備する。こうして明治13年(1880年)、賓客の接待や社員の慰安に利用する「深川親睦園」として、現在の清澄庭園が完成することとなった。「深川親睦園」はその後も岩崎家のもとで管理され、明治24年(1891年)には賓客の接待の建物として、ジョサイア・コンドル設計の洋館、大規模な日本建築の日本館が建設される。明治42年(1909年)には、英国陸軍総帥のキッチナーの接遇のため茶亭(現在の涼亭、写真1)が建てられるなど、庭園の整備が続けられた。
だが、大正12年(1923年)の関東大震災でこの庭園は大きな被害を受け、洋館・日本館や多くの樹木が焼失してしまう。この時に被災者の避難場所としての役割を果たし多くの人命を救ったことから、この防災機能を重視した岩崎家は、比較的被害が少なかった庭園の東側の半分(37434.32平方km)を公園用地として東京市に寄付することにした。その後整備を経て、昭和7年(1932年)に現在の都立庭園としての清澄庭園が開園した。したがって、現在の清澄庭園は当初の式の半分の広さしかないということになる。残された西側半分(43656.95平方km)の敷地は、昭和48年(1973年)に東京都によって買収され、1977年(昭和52年)に清澄公園として開園した。清澄公園は日本庭園ではなく、芝生や遊具がある無料の公園として一般開放されている(写真2)。
2.景観において評価・特筆すべき点
清澄庭園の景観においては、園地の大半を占める大泉水が非常に重要な役割を果たしている。清澄庭園のある土地は元々仙台堀を通じて隅田川につながっていたので、深川親睦園の造成にあたって、隅田川の水を庭に引き入れることで潮の干満で推移が変わる潮入の池として大泉水が作られた。現在は敷地の半分を失うのに伴って大泉水も小さくなっており、潮入の池としての機能も失われて雨水の池になっている。それでも、庭園内でも他の敷地から区切られている自由広場と花菖蒲田を除けば、清澄庭園の園路はそのほとんどすべてが大泉水のそばを通る形となる。大泉水に浮かぶ島のうち2つは園路に組み込まれている他、池に置いた石を歩ける磯渡り、池に突き出すように建てられた涼亭など(写真1)、庭園内には水辺の景観を楽しむ仕掛けが随所に施されている。
ただ、池を中心として回遊する構造は江戸時代の大名庭園において一般的なものであり、清澄庭園に限定されるものではない。例えば、柳澤吉和が完成させ清澄庭園と同様に岩崎家が修復した六義園(東京都文京区)でも、大泉水は景観の中心として機能している。明治期を代表する復古的な庭園である清澄庭園が江戸時代の大名庭園と異なるのは、水運を生業とする岩崎家が自社の汽船と隅田川から引いた水路を利用して全国から名石を集めたために、膨大な数の庭石が園内に設置されている点だ。清澄庭園の園内には至る所に様々な形や大きさの庭石が設置され、現在その側には石の種類を示す看板が立てられている(写真3)。その中には単独でおかれた景石もあるが、井筒や灯篭、水鉢などにも様々な石が使われている。加えて、前述の磯渡や石橋など、水の上を歩くための仕掛けにも石が用いられている。さらに園内最大の築山である富士山(写真4)では、頂上近くに実際の富士山の溶岩があしらわれているほか、ふもとには大泉水のすぐそばで枯滝の石組みが設置され大泉水に流れ込むように見えるなど、石が情景を表すための手段として効果的に用いられている。
3. 社会的機能において評価・特筆すべき点
前述の通り、現在の清澄庭園は一般開放された公園である清澄公園と隣接しており、もともとは一つの庭園だったという歴史的背景がある。もともと庭園だった敷地の一部が公園として開放されている例は他にもあり、岩崎家の別邸から東京都に買収された殿ヶ谷戸庭園、同じ都立庭園の向島百花園なども敷地の一部が児童公園になっているし、もともと日本庭園だった場所が公園になっている例は枚挙にいとまがないが、有料の庭園と無料の公園がほぼ同じ大きさで共存しているという点で清澄庭園・公園は特徴的だ。
清澄公園は無料で開放された公園であり、基本的には普通の公園と変わらない景観だが、広々とした芝生や池、遊具がある他、木々の間を散歩することもできるなど、近隣の運動・憩いの場として機能している。また庭園の遺構とは特に関係ないのだが、江戸時代の火の見櫓をモチーフにした時計台(写真5)も設置されており、地域の歴史を感じさせる。清澄公園は震災で壊滅しそのまま復興に至らなかった場所だが、公園として地域に貢献しているという点は、社会的機能として特筆すべき点だということができる。
他にも清澄庭園内には前述の涼亭や旧日本館の跡地にある大正記念館(もとは大正天皇の葬儀場、現在の建物は貞明皇后の葬場殿の材料を使って昭和28年(1953年)に再建)など、歴史的価値を持つ建造物が集会施設として一般に貸し出されており、市民の様々な活動の場として利用されている。これらの建物や庭園の敷地は、伝統文化を体験できるプログラムを実施するなど、東京都が伝統文化を発信する基地としても機能している。また、関東大震災の避難所となった歴史的背景もあり、清澄庭園・公園は現在でも近隣住民の避難所としての役割を持っている。このように、清澄庭園・公園は単に庭としての景色を楽しむだけでなく、近隣住民にとっても様々な社会的機能を持っている。
4.まとめと今後に向けた提言
これまで述べてきた通り、清澄庭園は明治期の和風庭園を代表する存在として、その美しい景観や数々の名石を現在に伝えている。また、現在は一般の公園となっている清澄公園も、近隣住民の憩いの場としての役割を果たしている。だが、今後さらに発展する余地もあるのではないかと考える。
なぜなら、清澄公園は元々庭園の一部であったにも関わらず、その名残がほとんど残っていないからだ。庭園だけでなく、ジョサイア・コンドルの前期邸宅建築を代表する建築だった洋館も元々現在の清澄公園の敷地内にあったのだが、そのことも公園を訪れるだけでは分からない。文京区立の肥後細川庭園は、もともと細川家の本邸を東京都が買収して昭和36年に「新江戸川公園」という公園として開園し、その後文京区に移管されたのだが、整備工事を経て平成29年(2017年)に「肥後細川庭園」に名称変更し、より本格的な庭園としての姿を整えた。清澄公園も同様に、現在よりも庭園らしい姿に整備しながら、公園として一般開放を続けることが可能ではないか。
また、清澄公園だけでなく清澄庭園にも共通する欠点として、歴史的価値を伝えるための場所に乏しいという点が挙げられる。清澄庭園・公園は明治~大正期の岩崎家の隆盛を表す場であり、関東大震災でも避難所としての役割を果たしたが、清澄庭園・公園内には歴史を伝える説明が看板やパネル程度しかなく、資料室などは存在しない。東京都文京区の小石川後楽園では庭園に隣接する敷地外に無料の展示室があり、庭園内の屋敷跡から出土した史料などが展示されているが、このような施設があれば庭園の歴史をより詳しく来園者に伝えることができる。
清澄庭園にはこれ以上新たな建物を建てる土地が乏しいと思われるが、前述の通り清澄公園には芝生が広がっている。公園内のかつて洋館があった場所に庭園の歴史を伝える施設を建てるなど、清澄庭園・公園の歴史を伝える仕掛けを設置すれば、料金を払って庭園に入場する来園者に加え、それ以外の近隣住民にとってもこの地の歴史に触れる機会になるのではないか。このような取り組みが実現すれば、日本の明治・大正期の歴史を伝える場としてその価値を一層高めることができるだろう。
参考文献
公益財団法人東京都公園協会発行『清澄庭園 財閥が築いた名石の庭』、2011年
公益財団法人東京都公園協会発行『都立庭園になった岩崎家本邸・別邸』、2018年
公益財団法人東京都公園協会発行、有限会社龍居庭園研究所監修『清澄庭園景石・石造物めぐり』、2020年
宮本健次著『日本庭園のひみつ 見かた・楽しみかたがわかる本 鑑賞のコツ超入門』、株式会社メイツユニバーサルコンテンツ、2020年