こどもの国(横浜市)の歴史的・文化的価値について
こどもの国(横浜市)の歴史的・文化的価値について
■基本データ:
横浜市青葉区奈良町700番地にあるこどもの国は、1965年5月5日に開園した子ども向けの自然施設である。
園内は、自然の地形を活かし、広大な芝生広場と年代にあわせた遊具の設置、地形にあわせて園全体で四季折々の花が楽しめる他、プール・スケート場、キャンプ場、ボート乗り場、牧場、乗馬コーナーなどの施設があり、子どもたちが自然と親しみ、野外活動を学び、遊べる場所として活用されている。
元は旧日本軍の弾薬庫として造られた場所で、戦後、米軍の接収を経た後、当時の皇太子殿下ご成婚をきっかけに全国から多額の寄付金が集まったことで、活用法を検討した結果、「子どものためになる施設がよいのでは(※1)」という意見が皇太子殿下から出されたことで、造設された。
年間入場者数は、1980年代ごろは100万人ほどあったが、子どもの数の減少とあわせ2000年初頭までは70万人弱まで減り続けるも、その後は回復傾向にあり、2014年度は84万人となっている。
■評価すべき点:
こどもの国には、大きく分けて、下記3つの評価すべき点がある、と考える。
・元の地形を残し、自然に親しめる施設であること(多摩丘陵の地形を残し、かつての自然が保存されている)
・歴史的背景も残して運営していること(戦争遺構が保存されている)
・著名な彫刻家・建築家がプロジェクトに加わり、50年を経た現在も少数ながら残っていること(戦後を代表する建築家の作品が保存されている)
それぞれの詳細は、次の歴史的背景と過程の項目で説明する。
■歴史的背景と過程:
こどもの国がある地域は、多摩丘陵の一部である。多摩丘陵の定義としては、東京都が1989年に策定したガイドラインで「高尾山麓を西端、東は町田市の神奈川県境辺り」(※2)としているのを参考にすると、こどもの国はちょうど東の端の地域に位置している。多摩丘陵という名のとおり、起伏に富んだ地形が連なり、多くは雑木林などで構成されている。近年は都心のベッドタウンとして開発が進んでいるが、こどもの国は、かつての姿がほぼ保存された状態となっているので貴重な存在である。
こどもの国がある場所は、元は旧陸軍の弾薬庫として造られた。1938年に成立した国家総動員法により、政府が土地の所有などを強制的に実施できるようになったのを受けて、弾薬庫の確保を考えていた政府は、必要な面積や地質・地形などから横浜市の奈良地区が地下弾薬庫に最適と判断し、地主約100人に対し土地の買上げに応じるよう迫り、承諾させた。1941年には、正式名称を「東京陸軍兵器補給廠 田奈部隊填薬所」として、国内最大級の弾薬製造・貯蔵施設として使われた(※3、4)。
敗戦後は米軍に接収され、米軍田奈弾薬庫として引き続き使用されることになり、1950年に始まった朝鮮戦争時には活況を呈したが、朝鮮戦争終結後は閉鎖状態となり、1960年には、神奈川県逗子市の池子弾薬庫に機能が移動した。
一方、地元では返還運動が行われるようになった。返還運動の背景としては、1958年に皇太子殿下と美智子様の婚約が発表され、宮内庁宛に全国から多額のお祝い金が集まったことで活用法を検討していたところ、前述のとおり皇太子殿下の意向から、こども向け施設をつくる方向で検討されることになったことで、候補地の一つであったこの地域において、返還への機運は高まった。結果的に、1960年度の国家予算「子どものための施設経費」7000万円が計上され、これを受けて、厚生省(当時)で施設の原案作成が始まり、1960年に建設地として正式決定後、1961年に米軍からの返還が決定した。この時期、名称は、親しみやすさなどを考慮し、「子供の国」から「こどもの国」と表記が変わった。
設立が決まると、こどもの国建設推進委員会が設立され、1961年には委員会メンバーであった、建築家・浅田孝によってマスタープランが作成された。当初は、テーマパークや、オランダにある「マドゥローダム」などの案も出されたが、このマスタープランでは、自然環境を最大限に利用かつ積極的に保存して、子どもたちの健全なレクリエーションを啓発し、首都圏の将来を考え、自然の保存に最大の考慮を払うことを目標としている。具体的には、4つの地域に分け、それぞれに必要な施設を作り、それを中心に自然に親しめるような内容となっている。建設費用は概算で16億7060万円とされ、動物園や鉄道、駐車場などを別途整備する必要がある、としている。しかし、浅田自身の案では、「粗放な自然の30万坪(いわば弾薬庫あと地そのままのもの)を主張したが、そうはならなかった」というコメントを、自身の著書『天・地・人の諸相をたずねて』(1982年 浅田孝さんをかこむ会)で述べていたり、また、同じマスタープランに加わった建築家・氏家隆正のコメントとして、施設の話になると浅田は、施設は不要であることや、なにもない方がよい、という旨の回想を披露している。マスタープランを皇太子夫妻へ説明した際、このプランに加え、皇太子殿下から牧場案、美智子妃殿下から図書室の案が出され、これらを追加して実現に動き出した(※5)。
各地区ごとに整備をすすめる中、個々の設備は専門家へ依頼することとなり、マスタープランをつくった浅田を中心に人選し、設計集団が集められた。その中には、浅田や大高正人、菊竹清訓、黒川紀章、粟津潔が名を連ねた。浅田は元々、メタボリズムグループの生みの親と言うべき存在で、世界デザイン会議の事務局長を努めた人物である。集められた専門家の多くは、このグループのメンバーで、園内の建造物には、メタボリズムの思想を背景に設計されたものもあった。しかし中には、資金難で建設が頓挫したり、建設されても老朽化によって取り壊されるものも多く、現在では辛うじて黒川の「フラワーシェルター」が残っているのみである。また、開園時から現存するものの別の例として、特別参加という形で途中から設計に加わった彫刻家・イサム・ノグチの「アーチ型エントランス」「丸山」「オクテトラ」がある。ノグチは、設計集団に入っていた建築家・大谷幸夫と共に児童遊園を設計したが、こちらも老朽化のため取り壊され、残っているのは前述の3点のみである(※7)。
これらのとおり、マスタープランによって高尚な思想は打ち出されたものの資金の問題で建設されなかったり、取り壊しても再建できなかったものがある一方で、必要以上に費用をかけられないため、元の地形を活かしたり、元からある建造物に手を入れなかったことで、結果として自然や戦争遺構が残ることにつながった。
■国内の他の事例:
開園後、「豊かな自然の中の遊び場」というコンセプトで、全国各地の自治体にもこどもの国の類似施設が造られるようになり、2014年現在、全国20ヶ所存在する。相互協力や情報交換のため「全国こどもの国連絡協議会」が設立され、11施設が加盟している。横浜のこどもの国は、それらの先駆けとして存在し、皇室とのつながりが深いことで常に注目されている。このため、運営や経営などの面でモデルケースとなっているが、他の施設含め、概ね入場者数減や収入の確保に苦労しており、経費削減や民間経営に転換するなど、様々な工夫をしている(※8)。
■今後の展望:
戦後の高度成長とともに子どもの数も増え続けた時代には、入場者数は順調に伸び、また、企業や団体からの寄付金もあり、収入も安定していた。子どもの数が減り続ける状況の中でも、来園者数が上向きはじめていることは、マスタープランに描かれた「自然環境を最大限に利用」するという、設立時のコンセプトへの再評価につながっている、と考えられる。宅地開発などが進む中で、このような自然空間は貴重である。
高度成長時代から、家族の在り方や世帯収入の変化があったり、来園する人々の人種や国籍が変わったとしても、子どもの成長に必要な「空間」というのは普遍的である。自然環境やちょっとした遊具があれば、子どもは自然と動き出し、遊びの中で様々なことを学ぶものである。大人が様々なことを考えて造ったとしても、どのように感じ、遊ぶのかは、子どもが決めることである。だから、こどもの国のような施設は、浅田孝が個人的に考えたように、「何もなく、ただ自然があればよい」というのは、実は正しいことである。
今後もコンセプトを維持し、次世代に残すべきものは保存しつつ、ここでしか出来ない体験を提供できる施設であり続けることを期待したい。
参考文献
※1:三国治 編『こどもの国50年史』, p.41, 社会福祉法人こどもの国協会,(2015年)
※2:東京都環境保全局自然保護部 編『みどりのフィンガープラン』, 東京都環境保全局自然保護部(1989年)
※3:三国治 編『こどもの国50年史』, p.159, 社会福祉法人こどもの国協会(2015年)
※4:創立50周年記念事業実行委員会 編『わたしたちのふるさと奈良 -まち・人・自然-』, p69, 横浜市立奈良小学校(2003年)
※5:三国治 編『こどもの国50年史』, p.55〜60, 社会福祉法人こどもの国協会(2015年)
※6:伴典次郎「施設紹介 中央児童厚生施設 こどもの国」, 『造園雑誌』27号, p.26~29, 社団法人日本造園学会(1964年)
※7:三国治 編『こどもの国50年史』, p.253~264, 社会福祉法人こどもの国協会(2015年)
※8:三国治 編『こどもの国50年史』, p.275~277, 社会福祉法人こどもの国協会(2015年)