双子の給水塔と地域の結びつき
双子の給水塔との出会い
東京都世田谷区にある桜新町は、「サザエさん」で知られた町である。住宅街の水道道路(多摩川の砧下浄水場からの水を給水塔に運ぶ水道管が通る道)を上っていくと、「双子の給水塔」が見え、大正13年に竣工された門柱の正門に辿り着いた。住宅地に囲まれた森の中、王冠を被り連絡橋でつながれた二つの塔が迎えてくれた。
開発や災害によって失われ断ち切られた景観は、同じ場所であっても見たことのない景色になる。住んでいる所の景色は日常の生活の一部であり、過去の景観は元に戻すことは出来ない。双子の給水塔は、地域の人に愛されシンボルとして街に溶け込んでいる風景である。
1 基本データと歴史的背景
世田谷区弦巻の水道局敷地に立つ通称「双子の給水塔」は、世田谷百景と土木学会選奨土木遺産でありコンクリートの胴体に王冠を被った二つの塔で少し小高い場所にあり、三軒茶屋までまっすぐに坂を下る水道道路があり、高低を利用して水が流れていった。大正期の渋谷町(現渋谷区)は井戸に頼っていたが人口が急増し水不足になり、衛生上、防火上、生活用水として水道施設が必要だった。
「駒沢給水所」は、日本の近代水道の父といわれる中島鋭治博士(1858~1925)による設計で、基本設計は西大條覚、構造設計は岩崎富久、工事は渋谷町の主任技師、仲田聡治郎と技手・吉田篤三が担当した。鉄筋コンクリート造で塔の高さは約30m、建造は大正12(1923)年の関東大震災を挟んで大正13(1924)年に完成し、東北の大震災のときも損壊がなかったという堅牢な塔である。給水所機能が停止したのは平成11(1999)年のことで、現在は非常時用の応急給水槽として活用される。二つの塔の上がトラス橋でつながれていて、お互いの給水量を融通できる機能もある。
2015年10月に敷地内を見学し、大正12年竣工の噴水台や昭和7年に建造された古典様式の装飾がモダンなポンプ室や、大正12年竣工の噴水台を備えた円形池や昭和2年竣工の上水道布設記念碑などの歴史的建造物を見た。双子の給水塔を見上げると、コンクリートの無機質な存在感の大きさに圧倒され、王冠とトラス橋のデザインの華麗さに目を奪われた。
夜のライトアップは現在のライトアップとは違い、王冠の薄紫色の装飾電球がぼんやり浮かぶ灯りで不思議な時間への誘いのようだ。2022年、施設内の見学は、老朽化とコロナ禍もあり生徒の社会科見学だけ行われている。
2 駒沢給水所とコミニュテイの評価点
駒沢給水所のある桜新町は、桜並木が美しく派手な看板や幟が見当たらない。建物の色もベージュ系や茶系やグレー系が多く、桜新町街づくり協議会運営委員会事務局の「桜新町街づくり協定」がまちの景観を美しく整えている。夏はねぶた祭が行われサザエさんの扇ねぶたが運行される。
コミニュテイとしての結びつきも高く地域への愛情が深い区民の投票で、1984年に駒沢給水塔は「せたがや百景」に選ばれている。何より、この地域の人に駒沢給水塔について聞くと、嬉しそうに眼を輝かせて話す。
風景づくり活動を行うボランティア団体「駒沢給水塔風景資産保存会」(愛称コマQ)は、2002年9月に給水塔に関心を持つ人が集まり発足した。B4版の「双塔」と「そうとう」いう冊子も発行している。
人間の社会に必要な施設を隠すのではなく見せて風景にする、この景観を守り保存や活用の仕方に取り組んでいる駒沢給水塔風景資産保存会の取り組みと、地域の人たちの景観への思いに対して評価している。
3 旧野方配水塔との比較
東京都中野区江古田にある「旧野方配水塔」にでかけ、幼稚園の横から「みずのとう公園」に入ると災害対策用応急給水施設の看板があり、公園の地下に100㎥の新鮮な水が用意されているとある。
木々が生い茂り近くでは全体がわからないので、見える場所を何人かに聞いたがわからないとのことで、たまたまかもしれないが駒沢給水塔のコミニュテイとの温度差を感じた。周辺を歩き住宅街の道からドーム屋根を載せた高さ33.6メートルで基部の直径18メートルの鉄筋コンクリート造りの外観を見た。頂部には換気塔があり屋根の下にはアーチ形の窓が配置されている。
東京 23 区北西部への水道水の分配を目的とし、設計は駒沢給水塔と同じ中島鋭治工学博士だが、着工は1927(昭和2)年で完成は1929年、着工の年に博士はおらず門下の工学士西大條覺が技師長として就任している。1966(昭和 41)年まで配水塔として利用され、2005(平成 17)年まで 中野区の災害用応急貯水槽となり、1973(昭和 48)年に都水道局用地の一部が旧野方配水塔とともに中野区に引き渡され、1975(昭和 50)年に区立みずのとう公園を開園し、2010(平成 22)年に国登録有形文化財に登録されている。
旧野方配水塔が、昭和4年に竣工、昭和41年まで使用されたのに対し、駒沢給水塔は、1924(大正13年)に完成し、第二ポンプの給水所機能が停止したのは、1999(平成11)年のことで驚くほど長く水を供給してきた。
旧野方配水塔は中野区所有であり、老朽化の心配を住民が直接することも無いが、駒沢給水塔は水道局用地であり、老朽化もあり地域の有志が集まって駒沢給水塔風景資産保存会を立ち上げ、風景資産として世田谷の名所にしようと活動している。
4 今後の展望、風景とすいどう遺産
歴史のある配水塔は老朽化していて、近代的な外観・素材を使った新しい配水塔が作られ、機械式のポンプに置き換えられ、古いものは解体が進められるか単に歴史を物語る建造物として残されている。
谷口吉生デザインのよる広島市環境局中工場は、今までは隠す施設だったゴミ焼却施設が美術館のような建物で、環境に配慮され周囲の自然と調和するように建てられている。海や山が記憶の中に残るように、景色としての建築物が地域の誇りとしてある。構造物を誇りにし周辺の風景も守り保存する、それは地域を愛する気持ちを育てることにもなる。
駒沢給水塔風景資産保存会は、主に各種見学会の実施や講演会やセミナー、地元の様々なイベントに参加し駒沢給水所や給水塔のPRをおこなっている。「そうとう」という冊子を読み進めていくと、双子の給水塔と給水所から始まり「水のみち」探訪になっていき、多摩川の取水地からスタートし、砧下浄水場、岡本隧道の入口と出口を見て、水道道路を歩き桜新町から駒沢給水塔がゴールだ。地図には岡本民家園や武家屋敷門などの世田谷風景資産が紹介され、観光案内にもなっている。給水塔という点から「すいどう」を辿るという線に変わってきている。「水のみち」を歩き歴史を知り、世田谷という地域も知る楽しみがある。
5 まとめ
住んでいたまちや通っていた地域を思い出すとき、浮かび上がるのは海や山、あるいはゴミ焼却炉の煙突だったり、自分にとってのランドマークである。日本は不思議な場所や妖しい場所、少しでも危ないと感じられるものを排除し整然とすることが綺麗な町づくりとなっていて、過去の歴史も同時に失われてきた。
世田谷区の土木遺産である給水所は環境と一体になっていて、見る角度から景色が変わって行く。給水塔を含めた風景に魅了された友人は、駒沢給水塔風景資産保存会の会員になり、見学会で駒沢給水塔風景資産保存会(コマQ)の案内役をしているが、2022年は塔の周りのモルタルが剥げ落ちロープが張ってあり、塔と塔を結ぶ鉄骨造りの連絡橋も錆や老朽化がすすんでいるという。
1924年に完成した塔は2024年には百歳を迎える、廃墟と化さないため、あるいは取り壊されないために、双子の給水所と周辺の多摩川の取水地や砧下浄水場や岡本隧道などの「水のみち」がシンボルとして残ることを願って、駒沢給水塔風景資産保存会も地域の人と一緒に取り組んでいる。人間の社会に必要な施設を隠すのではなく見せて風景にする、駒沢給水塔と一緒に「すいどう」の歴史を知らせる未来がある。
参考文献
『日本の近代化遺産』伊東 孝 岩波書店 2000年10月
『水と生きる建築土木遺産』後藤 治+二村 悟 彰国社 2016年6月
『都市のデザイン〈きわだつ〉から〈おさまる〉へ』都市美研究会 学芸出版社 2009年
『そうとう』1~12 駒沢給水塔風景資産保存会 2005~2020年
『駒沢給水塔周辺を巡る小さな旅の栞』駒沢給水塔風景資産保存会作成
『駒沢給水塔と中島鋭治生誕150年』駒沢給水塔風景資産保存会2008年
理事の方にお借りしました。
中野区ホームページ 中野区あれこれ 「旧野方配水塔が国の有形文化財として登録されました」 2022年1月12日閲覧
https://www.city.tokyo-nakano.lg.jp/dept/504000/d010248.html
中野区ホームページ 中野区あれこれ みずのとう公園 2022年1月7日閲覧
野方配水塔 みずのとう公園
国指定文化財等データベース(文化庁)旧野方配水塔 2022年1月7日閲覧
https://www.city.tokyo-nakano.lg.jp/dept/504000/d002724.html
文化遺産オンライン 旧野方配水塔
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/218819
2020年12月10日4閲覧
駒沢給水塔風景資産保存会ホームページ
http://setagaya.kir.jp/koma-q/
2020年11月28日閲覧