都市の表象 ー横浜赤レンガ倉庫を事例として

神澤 亜紀子

はじめに
歴史的建造物は景観に深みと個性や賑わいをもたらすとともに、地域を特徴付ける重要な役割を果たしている。横浜赤レンガ倉庫(以後、倉庫)は横浜のランドマークとして、ペリー上陸、開港とともに出現し、西洋文化を受容し発展した横浜の「迎賓」と「近代化」を表象する。本稿では、ケヴィン・リンチ『都市のイメージ』のランドマークの成立条件[1]から象徴性、場所性、視認性の3点を用い横浜三塔(以後、三塔)と比較し、都市デザインについて考察する。

1.基本データと歴史的背景
名称:横浜赤レンガ倉庫
所在地:神奈川県横浜市中区新港1丁目1
竣工:1911 年(2号倉庫)、1913年(1号倉庫)
構造:煉瓦造建築(碇聯鉄構法)
設計者:妻木頼黄
認定:「近代化産業遺産」、「ユネスコ文化遺産保全のためのアジア太平洋遺産賞」優秀賞

横浜が1859年(安政6)に開港し、倉庫は日本初の近代ふ頭として建設された新港ふ頭に立地する国の模範倉庫であった。関東大震災で横浜が大打撃を受けるなか[図1]、倉庫は1号倉庫の半損のみで稼働を続けた。第二次大戦後は約10年間接収され解除後に再稼働するが、高度経済成長期に時代に沿わなくなった倉庫は、1989年(平成元)に横浜港の物流拠点としての役割を終えた。その後建物の解体が検討されたものの、市民団体の活動にも後押されるかたちで保全が決まる。横浜市の都市デザイン[2]のなかで再生プランが決定され、1号倉庫は文化施設、2号倉庫は商業施設として2002年(平成14)に新たにオープンした。

2.ランドマークとしての評価
横浜は開港以来さまざまな絵や写真の題材[3]になったが、岸壁沿いの上屋に囲まれていた倉庫[図2]がメインの題材になるのは、戦後、新港ふ頭の接収解除後の頃からである[4]。周辺の倉庫群が徐々に消え唯一取り残された倉庫は一時は落書きなどで荒廃したが、都市デザインにより一変する。今では県・市の広報をはじめ、被写体として多くのメディアやSNSで取り上げられる、横浜を代表するランドマークになっている。

2.1象徴性
倉庫の再生は黒い瓦屋根と赤い煉瓦の外観、内装に至るまで当時の建材を生かし、 1号、2号倉庫に挟まれた広場は植栽をしない方針が取られ元の姿を尊重する形で進められた。再生時になされた倉庫が持つ ”気”を生かす努力[5]は、訪れた人にその価値と美しさを感じさせる[6]。この無関心的な美の判断は、日本の芸術理論において重要な気の概念、作者がもっている気が作品という形となって表われ人間の心を揺さぶるとする通りに、建設当時の佇まいを再現しているといえるだろう。特徴である赤レンガは1つ1つに色や形に違いがあり、煉瓦の風合いが時間の経過を感じさせる。ほぼ明治期に限られる煉瓦造りの建物[7]は、コンクリート造りの高層建築物や木造住宅と違い、自ずと明治期の西洋文化、近代化の象徴に映る。倉庫は創建以来ずっと港に佇み、その姿はほぼ変わらないが、倉庫と広場が媒介し歴史を感じる空間となっている。

2.2場所性
明治期に埋め立てによって作られた都心の”島”に立地する倉庫は、独自の領域性を持つ[図3]。陸と島とのノードにあたる桜木町駅は、日本ではじめて鉄道が開通した時の初代横浜駅である。島へのパスは4本あるが、メインは駅の先にある遊歩道として整備された線路跡”汽車道”である。この道を進むと建物のデザインが額縁となり、その先に街の突端のような場所に建っている倉庫が見えてくる[図4]。強い方向性を持つ眺望であり、日本の美意識と「借景」の後景となる西洋的建造物の倉庫とが強いコントラストを描く。倉庫横の赤レンガパークには震災で倒壊した煉瓦造りの旧税関事務所遺構や、生糸の輸出全盛時代に運搬用にあった横浜臨港線のプラットフォームが残る。これらは生糸の輸出によって外貨を獲得し、戦前の日本経済を支えたシルクロード[8]の終着地である横浜の歴史を物語る。また水際線は、石畳・コンクリートで整備されプロムナードと一体となり親水性が確保されている。都市部において広い空間を確保するのは難しく、視点場と視対象との物理的な距離が離れ、広く開放的な眺望は風景作りの大きな資質であり、倉庫の他にあまり例がない。水際がつくるエッジに、開放的なディスクリクトは、ランドマークとなる城を持たない横浜において、堀に等しいエッジ、城郭がもつ城と庭園とのオープンスペースからなる空間構成に似て、景観としての中心性を持っている。

2.3視認性
海を視点場にしてその眺望は、倉庫の全景が歴史の風格を与え、その背後に高層建築物が立体的、重層的に重なる現代的な街並みとがコントラストをなし奥行きを感じさせる。建築材料が多様化し自然発生的に蝟集した建築群にもかかわらず、空間的・時間的な連続性や視覚的に一体性が感じられるのは、高さを抑え海から都市部に向かって段々と高くなる、「山水」の風景に見立てたスカイラインの効果である。そして新港ふ頭はみなとみらい21の新港地区となり、新たな街づくり[9]が行われているこの地区には他に歴史的建造物がなく、倉庫が唯一無二であることも景観の認識に強い影響を与えている。

3.三塔との比較
一方海外の船乗りたちが目印にして入港したとされる三塔、赤煉瓦の横浜市開港記念会館[10]、寺院風の神奈川県庁[11]、イスラム風の横浜税関[12]は、ぞれぞれジャック、キング、クイーンと名付けられた陸標としてのランドマークである[13]。いずれも日本の表玄関たる横浜に整えられた公共施設であり、現在の建物は大正~昭和初期に建てられ、改修を重ねながらほぼ創建当時の機能のまま今も使われている。国内において歴史豊かといえない横浜において、新港地区と違い三塔が立地する日本大通り周辺[14]には、歴史的建造物や開港当時の町割りが残り横浜に依拠する面的なストックが多い。三塔が歴史的街並みの建造物同士の関係性を再構成し、互いに強化し合いシーケンスとなり景観の主体となっている。また日本大通りの広い幅員は植樹帯になっており、その街路空間を活かしオープンカフェが並らび、人々が憩い賑わう場を創造している。しかし周辺の開発が進み海側から三塔を同時に見られるのは、現在はごく限られた場所である[図5]。象徴性と場所性に対し、原質的な迎賓の風景という視認性が発揮されなくなった三塔に比べ、海を視点場として全景が見える倉庫の景観は横浜の表象として優れ、この変遷が都市形成の歴史をも表している。

4.今後の展望
イメージアビリティが高くなった倉庫の課題は、市民のためと志向したものの「現実的には想像していた以上に、ここは観光地だった」[15]とあるように、地域住民の利用の不在である。都市デザインにおいて回遊性を意図したプロムナードに散歩する地域住民はいても、倉庫が地域の居場所にはなっていない。そもそも新港ふ頭は国指定の保税地区であったため、一般の人には踏み込めない特殊な場所であった。倉庫として機能していた当時は港で働く人には郷愁を感じられる場所であったが、現在でもほとんど住民がいない[16]島であり、三塔のような公共性を有していない。市民活動などの「生活景」 を加え、この地域で暮らす人々に地域への愛着や誇りをもたらすことも必要である。これからは人間中心の機能的デザイン、住民同士の交流が発生するような「場」づくりや、協働によるコミュニティの活性化を図る工夫も必要だろう。

5.まとめ
このように歴史的建造物の保全と、景観にいわば和洋折衷の文化的アイデンティティを反映した都市デザインの結果、倉庫は横浜を表象するに至った。倉庫が現在のように利活用されることなく新港地区から消えていたならば、開港都市として一つのまとまりを形成し、強力なシンボルとして横浜をイメージさせる歴史的建造物が存在しえなかったことは明らかである。戦後の復興と高度経済成長期の都市問題の解決を目指した横浜の都市デザインは、2021年(令和3)に50周年を迎え転換点にある。親水性に主眼が置かれていた水際にはサスティナブルな景観とは何か、整えられ過ぎた景観には自然と人間の関係性という新たな問いもある。景観法のもとで倉庫、三塔の景観が守られると決められているが、複雑に生長発展し続ける都市開発、環境変化や価値観の変容で状況は変わりうる。それでも高密で窮屈な街のなかで何にも変えがたい海からの眺望を守り、地域に賑わいをもたらし、重ねた歴史で横浜を表象する存在であり続けて欲しいと考える。

  • 1 横浜港大さん橋から見た横浜赤レンガ倉庫の全景(2021年12月10日、筆者撮影)
  • 4 [図3] 横浜赤れんが倉庫と横浜三塔の視点場マップ(筆者作成)
  • 5 [図4] 横浜赤れんが倉庫の中景(筆者作成)
  • 6-1
  • 6-2 [図5] 横浜三塔への視点場からの眺望と目印(筆者作成)

参考文献

参考文献・註
【註釈】
註[1] ケヴィン・リンチは『都市のイメージ』のなかで、イメージアビリティという新しい基準と、都市のイメージを5つのエレメントに分類し、そのエレメントであるパス(道路)、エッジ(縁)、ディスクリクト(地域)、ノード(接合点)、ランドマーク(目印)の特質と相互関係で都市を分析している。
註[2] 1971年に横浜市に「都市デザイン担当」が設置された。都市デザイン室では、個性と魅力あふれる都市空間を形成していくため、各地域の自然的・歴史的特色を生かし、歩行者空間、広場、オープンスペースの確保や街並みづくりなどを進める「都市デザイン」の企画及び調整を行っている。横浜市 都市デザイン50周年、https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/machizukuri-kankyo/toshiseibi/design/ud50th.html(2022年1月29日閲覧)
註[3] 開港後の様子を伝える横浜絵の第一人者といわれる歌川貞秀に始まり、都市空間を分かりやすく伝える鳥瞰図では横浜の当時の観光地や名所が分かる。《横浜名所案内図絵・市街電車案内》(1921年(大正10)、横浜都市発展記念館所蔵)、《神奈川県鳥瞰図》最初期の写真誌である下岡蓮杖が横浜を中心に撮影を残した。
註[4] 現代具象洋画壇を代表する画家のひとりである國領經郎(1919~1999年)は、出身地横浜で赤レンガ倉庫を主題として何点か作品を描いた。《横浜風景》(1958年(昭和33))、《船のある風景》(1962年(昭和37))
註[5] 担当した建築家・新居千秋は「妻木がこの建築物に託した ”気”を理解できなければ、この建築物に手をつけることはできない」と考えていた。(株)横浜みなとみらい21・神奈川新聞社編『横浜赤レンガ倉庫物語』、神奈川新聞社、2004年、P114
註[6] 創建100周年記念(2011年)に発行されたリーフレットの来館者コメントから。株式会社横浜赤レンガ編『つながる・みらいへ』、神奈川新聞社、2011年、P52-55
註[7] 煉瓦が建材として日本で使われるのは幕末以降のことであり、銀座煉瓦街が誕生するなど、防火対策として積極的に煉瓦造りの建造物が建てられた。しかし、地震で崩れやすという致命的な弱点により、関東大震災以降は積極的に使用されなくなり、ほぼ明治期に限られる。歴史的建物研究会編『日本の最も美しい赤レンガの名建築』、株式会社エクスナレッジ、2019年、P6-7
註[8] 養蚕、製糸所でつくられた生糸は、東北、 信越、上州他から主に鉄道に乗って横浜港に運ばれてた。シルクロードネットワーク協議会、https://www.yokohama-heritage.or.jp/silk/index.html(2022年1月29日閲覧)
註[9] 1983年(昭和58)に横浜市が着手した開発事業「みなとみらい 21 事業」で、みなとみらい21新港地区は、赤レンガ倉庫をはじめとした歴史資産を活かした市街地の形成を目指し景観計画を立てた。横浜市 景観計画・都市景観協議地区の策定~みなとみらい21新港地区~
、https://www.city.yokohama.lg.jp/business/bunyabetsu/kowan/keikan/keikan.html#gaidorain(2022年1月29日閲覧)
註[10] 横浜市開港記念会館は、横浜開港50周年を記念し市民の寄付金により1917年(大正6)に開館した。1959年に「横浜市開港記念会館」と名称を改め中区の公会堂になり、1989年には国の重要文化財に指定された。老朽化が進んだため、2021年11月末で閉館し、2024年3月末までの改修が決定した。横浜市 横浜市開港記念会館、https://www.city.yokohama.lg.jp/naka/madoguchi-shisetsu/riyoshisetsu/kaikokinenkaikan/(2022年1月29日閲覧)
註[11] 神奈川県庁は、1928年(昭和3)に建てられ、2019年に国の重要文化財として指定された。関東大震災で焼けた県庁本庁舎に代わる4代目で、知事が執務する現役の庁舎としては、大阪府庁本館に次いで全国で2番目に古い。当時、神奈川県庁舎は海外からの賓客を迎えて歓迎の儀式や儀礼などを行う場としても使われたため、関東大震災で焼失した県庁舎を再建するにあたって、表玄関にふさわしい威厳を持ち、日本の伝統的な意匠を持った重厚な建物が求められることとなった。そこで、「横浜港の船から庁舎が見えること」というのも重要な条件のひとつとされて県庁舎のデザインは公募が行われた。神奈川県 キングの塔(神奈川県庁本庁舎)へようこそ!、http://www.pref.kanagawa.jp/docs/rb2/cnt/f380088/(2022年1月29日閲覧)
註[12] 横浜税関は、関東大震災で焼けた煉瓦造2階建ての建物に代わる3代目で1934年(昭和6)に建てられ、2001年に横浜市の歴史的建造物に認定された。外国船の船長が横浜港に上陸するとまず税関を表敬訪問する習いがあったため、税関にはそれ相応の格式ある建物が必要とされていた。1961年に横浜マリンタワーができるまで、関東大震災の復興建築として長く横浜一の高さを誇っていた。横浜税関 庁舎の変遷、https://www.customs.go.jp/yokohama/gallery/clip_snap_001.html(2022年1月29日閲覧)
註[13] 神奈川県 横浜三塔物語、https://www.pref.kanagawa.jp/uploaded/attachment/570236.pdf(2022年1月29日閲覧)
註[14] 開港により横浜は新しい都市建設が始まり、外国人移住地と日本人移住地の境界にあたるのが日本大通りである1853年(嘉永6)7月の「黒船」の浦賀来航から半年後、米国のマシュー・ペリー提督率いる船隊が再び浦賀沖に現れ、1854年(嘉永7)3月には横浜に上陸した。「慶応約書」では居留地の区画の整理も行われ、のちに「馬車道」「海岸通り」と呼ばれる道路も建設された。公園(現「横浜公園」)予定地から波止場に向かう大通りも建設され、1870年(明治3)に完成、1875年(明治8)に「日本大通り」と命名された。日本大通りは、1867年(慶応3)の豚屋火事で外国人居留地を含め市街地の3分の2が焼失したことで、都市防災のための防火遮断帯を設けることで道幅が広げられ、1877年(明治10)前後にほぼ現在の町の骨格が完成した。これらの大通りは防火帯の役目も担っていた。
註[15] 株式会社横浜赤レンガ編『横浜赤レンガ創建100周年に つながる・みらいへ』、神奈川新聞社、2011年、P78
註[16] 住民基本台帳、町丁別人口、2021年

【参考文献】
東京大学都市デザイン研究室編『図説 都市空間の構想力』、学芸出版社、2018年
樋口忠彦『景観の構造』技報堂出版社、1975年
オギュスタン・ベルク『日本の風景・西欧の景観』、講談社、1990年
ケヴィン・リンチ『都市のイメージ』、岩波出版、2007年
宇佐美文理・青木孝夫編『芸術理論古典文献アンソロジー 東洋篇』(芸術教養シリーズ27)、藝術学舎、2014年
(株)横浜みなとみらい21・神奈川新聞社編『横浜赤レンガ倉庫物語』、神奈川新聞社、2004年
株式会社横浜赤レンガ編『横浜赤レンガ創建100周年に つながる・みらいへ』、神奈川新聞社、2011年
歴史的建物研究会『日本の最も美しい赤レンガの名建築』、株式会社エクスナレッジ、2019年
宮野力哉『芸術のなかの横浜』、株式会社有隣堂、1994年
国吉直行「横浜のまちづくり」、『横濱』2009年春号 Vol.24、2009年
石黒徹「鳥の眼で横浜の発展を見る」、『横濱』2017年春号 Vol.56、2017年
岸田比呂志「都市デザイン活動における歴史的建造物の保全活用の意義-横浜市における都市デザインの活動から-」、都市計画論文集(通号 33)、東京 : 日本都市計画学会、1998年
吉田鋼市「横浜三塔物語」、『横濱』2009年春号 Vol.44、2014年

横浜市 横浜港の歴史、https://www.city.yokohama.lg.jp/kanko-bunka/minato/taikan/manabu/rekishi/(2022年1月29日閲覧)
横浜市 赤レンガ倉庫、https://www.city.yokohama.lg.jp/kanko-bunka/minato/taikan/asobu/spot/red-renga/(2022年1月29日閲覧)
横浜市 景観計画・都市景観協議地区の策定~みなとみらい21新港地区~、https://www.city.yokohama.lg.jp/business/bunyabetsu/kowan/keikan/keikan.html(2022年1月29日閲覧)

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