「にしんそば」他に見る京料理の特質
「にしんそば」他に見る京料理の特質
●基本データ
京都を訪れる多くの観光客にとって、そこでの食事も楽しみのひとつであろう。旅館や料亭で供される京料理は見た目も美しく食欲をそそる。しかしそうした華美な料理のみが京料理だろうか。京料理が本来持っている特質について、「にしんそば」などを例として考察する。
考察の前に、京都の地理的特徴を確認しておきたい。現在20市ある政令指定都市のうち、海に面していないのは、京都市、札幌市、さいたま市、相模原市の4市。明治期の開拓によって成立した札幌市、近年の合併によって人口増となったさいたま市と相模原市の成立事情を考えれば、京都は近代以前からの大都市としては唯一の“海なし市”なのである。このことは、主要な動物性蛋白質の摂取源が魚介類であった近代以前において、京都は慢性的な動物性蛋白質の不足する状況にあったといえる。
また、京都の歴史的特徴としては、平安時代以来の公家社会の中心地であるばかりでなく、宗教の中心地として数多くの寺院が市内に在ることが挙げられ、このことは後述するそば文化の背景となるのである。
●歴史的背景
上記のような地理的・歴史的特徴は京料理にどのような影響を与えたのか。京都の特徴的な食べ物として「にしんそば」「いもぼう」「鱧料理」を例に考えてみる。
1)にしんそば
遠い北海道産のニシンがなぜ京都で食されるようになったか、またうどん文化が盛んといわれる関西においてなぜそばなのか。
ニシンが商品として流通するのは江戸時代初期に蝦夷地に松前藩が置かれたころに始まる。自身では産物を現金化する力のない松前藩へ、すでに全国的な流通ネットワークを形成していた近江商人が取り入り、蝦夷地の産物を取り扱うようになった。海運を用いた近江商人による松前藩との通商は「松前渡海船」と呼ばれていたが、その後船舶構造の発達、航路の延伸により「北前船」へと整備されていった。
北前船が扱う商品は上方から蝦夷地へ(下り荷)は着物、布、塩など雑多な生活用品が中心であったが、蝦夷地から上方へ(登り荷)はほぼ海産物、なかでもニシンが主であった。豊漁であったニシンからは油を搾り取ったニシン搾粕(〆粕)が大量に作られた。この〆粕は鰯より効果の高い肥料として重宝され、北前船の発達とともにその使用範囲は東北、北陸から畿内、西国へと拡がり、登り荷の中心的商品となった。食用として身欠ニシンも流通していたが、肥料のイメージが強く下賤な食品として蔑視されていた。しかし京都においては身欠ニシンは、保存のきく貴重な蛋白源として重宝され、江戸期より「ニシンとなすと炊いたん」「昆布巻き」といった総菜として食されてきた。
一方、蕎麦は全国的に栽培されるが、そばがきなどの粉食として食される期間が長く、現在のようなゆでた麺として食されるようになったのは江戸時代中期以降である。小麦を使ったうどんが比較的早く麺となったのに対し、蕎麦はツナギを使わないとまとまらず、製麺に技術が必要だったために麺食となるのが遅れたのである。麺食が普及する以前は、蕎麦は「蕎麦板」「蕎麦ぼうろ」などの菓子として使われることが京都では多かった。これは京都では寺院が多く、そこで行われる各種法事に供されるものとして発達したようである。麺としての蕎麦が食されるようになると、寺院での行事食として取り入れられるようになるが、製麺には技術が必要であるため寺院ではまかなえず、蕎麦菓子を扱う菓子店に蕎麦が発注されるようになり、菓子店は蕎麦店へと展開していった。江戸の蕎麦は庶民の食として爆発的に流行したのに対し、京都では蕎麦は寺院の食文化として発達し、徐々に庶民へも広まっていったのである。そのためうどんが盛んな関西において京都は例外的に蕎麦を食す文化が根づいたのである。
こうしたニシンを食す文化と蕎麦を食す文化が京都にはあり、その文化を背景に、明治15年に四条・北座にあった蕎麦店「松葉」2代目松野与三吉により、両者を組み合わせた「にしんそば」(写真1)が発案されたのである。その組み合わせが京都の人々に受け入れられ、現在では多くの店で“京の名物料理”としてにしんそばが供されている。
2)いもぼう
鱈もニシンと同様の経緯をたどり、北海道で収穫された鱈は保存が効く「棒鱈」として北前船を通じて京都にもたらされた。京都の地物野菜である「海老芋」と棒鱈を組み合わせた「いもぼう」(写真2)は、約300年前に平野権太夫により考案され、現在は祇園「平野屋」の名物料理として親しまれている。それぞれ単独では硬い、渋い、アクが強いといった棒鱈と海老芋は、両者を組み合わすことにより海老芋のアクが棒鱈を柔らかくし、棒鱈のコラーゲンが海老芋の煮崩れを防ぐというように、互いの欠点を解消しあい、互いの旨味を引き出しているのである。
3)鱧料理
鱧は生命力が強く、水揚げされてからも長く生き続けるため、例外的に京都のような内陸部でも生の状態で運ぶことが出来たが、そのあまりの小骨の多さゆえ敬遠されてきた。しかし江戸時代中期に骨切り(写真3)という調理法が開発されようやく食用となったのである。しかし皮1枚残して細かく包丁を入れる繊細な骨切りの技法は熟練を必要とするため、他の地域では鱧はあまり食されず、京都でのみ鱧料理が発達し、京料理に欠かせない食材となったのである。
●事例の評価点
身欠きニシンにしても棒鱈にしても、保存のためにカチカチに乾燥され、これを食すには米のとぎ汁に何日も漬けて戻しさらに番茶で煮るなど多くの手間を要する。鱧も食すためには骨切りという高度な技法を要する。
何故これほど手間をかけるのか。それは“海なし市”ゆえの慢性的動物性蛋白質不足への対応にほかならない。しかし単に栄養の摂取というにとどまらず、調理法の工夫(ニシン・棒鱈の戻し方、鱧の骨切り、等)や食材の組み合わせの工夫(ニシンと蕎麦、棒鱈と海老芋、等)が凝らされ、このことにより京料理は独自の発展を遂げた。つまり、食材の調達に不利な内陸に在って、限られた食材を美味しく、そして無駄なく食べるための飽くなき工夫を積み重ね、手間暇を惜しまないこと、それこそが京料理の特質といえるのである。
●他の事例との比較
京料理の基礎ができた江戸期、同時期の江戸の食文化、特に江戸前寿司と比較考察する。目前の江戸湾で穫れる豊富で新鮮な海産物は江戸の食文化を支えた。発酵食である「なれ鮨」に対し、酢飯に魚を載せて握る即席寿司は手軽に早く食べられるということで、気の短い江戸っ子に瞬く間に広まり、「江戸前(=江戸スタイル)」の寿司として全国に波及していった。時間のかかる発酵を酢で代用するという発想の転換により、いわばアイデア料理として江戸前寿司は始まり発展していったのである。
つまり、京都では限られた食材を使って工夫を重ねたのに対し、江戸は豊富な食材を背景に斬新な発想による新奇な料理が生み出されたのである。豊富な食材を背景にアイデアを凝らす江戸に対し、限られた食材に対し工夫を凝らす京都、と対比することでより京都の特質が明らかになるであろう。
●まとめ
テレビの旅番組などでは華麗に盛りつけられた美しい京料理がたびたび紹介される。そうした京料理は、平安時代の宮廷の料理から発展した有職料理、武家社会の儀礼的な料理である本膳料理、茶の湯から生まれた懐石料理などが融合・発展した“ハレ”の料理である。しかしその調理法や技法を支えているのは乏しい食材をなんとか美味しく食べようとする工夫の積み重ねである。
京都では“始末”という言葉がある。「倹約」の意味に近いが、単にケチくさいのではなく、最後まで無駄なく使うというニュアンスがある。この“始末”の精神が、京料理の特質を支えるバックボーンであると考えられる。
現在では流通も発達し新鮮な食材が京都でも簡単に手に入るうえ、もともと庶民的な食材であったニシンも漁獲高の激減(表1)により高級食材となってきた。こうした状況にある現在、新鮮な素材や高級な食材を使った一見華美な京料理の背景にある特質をあらためて問い直すことは有益であろう。温暖化など地球規模での環境変化により将来的には世界的な食糧不足の懸念もささやかれているが、限られた食材を工夫し無駄なく使う京料理の“始末”の精神は、そうした問題へのひとつのヒントともなるであろう。
参考文献
奈良本辰也、宮川清光『おおきにごっつぉさん―京の心 食文化―京都中央信用金庫創立50周年記念』、京都中央信用金庫、1990年
國分綾子『京にのこる味』、駸々堂、1971年
「日本の食生活全集京都」編集委員会・編『聞き書 京都の食事』、農山漁村文化協会、1985年藤井穣治・編『近江・若狭と湖の路』(街道の日本史31)、吉川弘文館、2003年
牧野隆信『北前船の時代 近世以後の日本海海運史』、教育社、1979年
渡辺信夫『日本海運史の研究』、清文堂、2002年
サンライズ出版・編『近江商人と北前船(淡海文庫20)』、サンライズ出版、2001年
鈴木健一『風流 江戸の蕎麦』、中公新書、2010年
京都市文化市民局文化財保護課「京の食文化」ホームページ
http://kyo-tsunagu.net/shokubunka/
勢見恭造「大阪・上方の蕎麦」ホームページ
http://www.eonet.ne.jp/~sobakiri/index.html
「本家 尾張屋」ホームページより「をハりや今昔」
http://honke-owariya.co.jp/whatisowariya/
「いもぼう平野家本店」ホームページ
http://www.imobou.net/