旧横浜正金銀行本店・神奈川県立歴史博物館 その中に埋め込まれたストーリーと価値

菅井 雅史

1 はじめに
旧横浜正金銀行本店・神奈川県立歴史博物館は、現存する貴重な明治の近代建築である。本稿ではその設計者、妻木頼黄(1859-1916)に焦点を当て、頼黄の活動及び旧横浜正金銀行本店の明治の近代建築における価値を評価、今後の展望について論ずる。

2 基本データ
旧横浜正金銀行本店・神奈川県立歴史博物館
設計:妻木頼黄
起工:明治32年3月
竣工:明治37年7月
構造:鉄筋鉄骨補強煉瓦・石造
建坪:2156平米
延床:7972平米
軒高:ドーム含む35.7米
所在地:横浜市中区南仲通5-60
指定等:国指定重要文化財・国史跡
[1]

年表
明治32年3月工事着手
明治37年7月本店落成
大正12年関東大震災発生
昭和22年東京銀行横浜支店となる
昭和39年神奈川県が買収
昭和42年3月神奈川県立博物館開館
平成7年3月神奈川県立歴史博物館開館
[2]

3 妻木頼黄
妻木頼黄は安政6年12月10日赤坂の旗本、妻木頼功の長男として出生。文久2年8月父が逝去、明治5年母も逝去し13歳にして孤児となる。明治8年慶応義塾に入塾、明治9年米国行きの為退塾。その後、明治10年までニューヨークに滞在。[3]この最初のニューヨーク滞在中に頼黄にとって後の運命を決める出会いがあった。副領事で後の日本銀行総裁・東京府知事の富田鐡之助(1835-1916)[4]、父頼功と親交のあった勝海舟(1823-1899)[5]の娘婿で後の大蔵省主税局長の目賀田種太郎(1853-1926)、後の横浜正金銀行頭取の相馬永胤(1850-1924)らとの出会いは、後の頼黄の運命を決定づけたといって過言はない。[6]彼らは、頼黄の境遇に同情、将来を案じ、頼黄に対し積極的に関わる。彼らは、一度日本に帰り、日本の大学を出るべきと進言。頼黄もそれに応じ帰国した。藤森照信は言及する。「父や叔父が幕末の動乱の中で勝の下で働いて倒れ、その流れの中で子の頼黄はバックアップを受けた」[7]と。
そして帰国後、工部大学校に入学する。残り一年で卒業となっていた時、富田鐡之助らの、もはや工部大学校を卒業するよりも、外国に留学すべきとの勧告[8]を受ける。頼黄もそれに応じ工部大学校を中退、明治15年コーネル大学建築学科に編入する。明治17年同校を卒業し明治18年9月に帰国した。因みに『卒業論文「A Thesis on the Growth of Japanese Architecture」は卒業論文賞を受賞』している。[9]
帰国後の明治18年11月17日東京府御用掛、土木課家屋橋梁掛へ配属された。そして、井上馨(1836-1915)外務大臣兼臨時建築局総裁[10]の抜擢により、明治19年5月3日臨時建築局に入局する。このころ、東京府知事、渡辺洪基(1948-1901)の仲介で、同じく生涯の夢を議会建築におく、終生のライバル辰野金吾(1854-1919)と出会う。[11]その後、井上は官庁街集中化計画を推進、明治19年4月28日よりドイツのエンデ&ベックマン事務所[12]を招聘する。来日したウィルヘルム・ベックマン(1832-1902)との「ベックマン条約」に基づき、頼黄は明治19年10月21日よりドイツへ留学する。[13]
そして、井上の罷免もあり、「明治21年10月12日に帰国、内務省臨時建築局に復帰した」。[14]そして、内務省の技師を皮切りに、内務技師兼大蔵技師となる。明治27年東京府庁舎、同明治27年には広島臨時帝国議会議事堂を僅か15日で竣工させ、政府より絶大な信頼を獲得。順調に官庁営繕のトップに昇りつめていくのである。

4 旧横浜正金銀行本店建築
明治20年9月17日、井上失脚に伴い、頼黄へのドイツからの召喚命令が下る。[15]頼黄はすぐにそれには従わず、病気と称し4か月遅れの同年10月12日に帰国する。それは生涯の夢、議会建築を研究する為の帰国遅延であった。その結果思わぬ大魚を逃す。それは日本銀行本店建築である。時の日本銀行総裁は富田鐡之助である。順当にいけば頼黄で決まりだ。ところが、臨時建築局総裁の山尾庸三(1837-1917)は辰野を推薦するのである。頼黄の不在もあり、日本銀行本店建築は辰野の手に渡る。[16]頼黄対辰野の第1ラウンドは辰野の勝ちとなる。そして第2ラウンドの舞台となるのが本稿のテーマ、同じく政府系の旧横浜正金銀行本店建築である。最初に仕掛けたのは辰野であるが、今回は完全に頼黄に分があった。時の大蔵省主税局長が目賀田種太郎、横浜正金銀行の頭取が相馬永胤であったのだ。この時点で辰野に入り込む余地はない。明治32年2月、頼黄が設計者として指名されたのである。

5 旧横浜正金銀行本店の評価と特筆すべき点
生涯の夢を議会建築におく頼黄にとって、この旧横浜正金銀行本店建築の高い耐震性、美しい重厚なデザインは、将来の議会建築を見据えたうえでのものではなかったのかと筆者は推察する。最初に地盤調査の徹底、鉄骨、鉄筋を鳥籠状に配し、高い耐震性を確保。さらにメインは煉瓦づくり、かつ、外側には茨城県産稲田御影石と岡山県産北木石を隙間なく配する堅牢なつくりだ(※1)。[17]その耐震構造は赤坂離宮と同等である。[18]デザインは、シンメトリーが美しい、威厳と重厚感のあるドイツ・ネオバロック建築で、コリント式の大オーダーが見事だ。また、平板なデザインではなく、ドイツ好みのアクの強い立体の作り出す見事な陰影は、この建物にいくつもの異なる表情を出現させる。[19]尚この設計は、明治38年のリエージュ博覧会において、日本建築界として初の名誉賞(金賞)を受賞した。[20]

6 日本銀行本店との比較
留学5年の頼黄と3年の辰野、この経験の差が建築に表れたのか、美意識という感性の違いであるのか、デザイン面において、頼黄に軍配を上げる研究者は多い。村松貞次郎(1924-1997)は辰野のデザインに対し言及する。「外観の印象は平板で単調で、しかも髭の辰野の風貌のように重くむしろ暗い」と。[21]また、藤森照信も言及する。「各部分の大きさ、堀の深さ、そしてお互いのリズム、プロポーションを調整して全体の滑らかさを生み出さないといけないが、辰野に欠けていたこの力が妻木にはあった」と。[22]
辰野金吾は3年間にわたるヨーロッパ留学期間中の最初の2年間、師であるウイリアム・バージェス(1827‐1881)から美術建築の重要性について学んだ。バージェスは辰野に対し、建築を極めるためにはまず人物画であると、私費を辰野に提供し熱心に美術指導を行った。美術と建築は一体であるという辰野の建築哲学はバージェスから学んだものだ。それは2年間の英国留学後、1年間のヨーロッパを巡るグランドツアーが、師であるバージェスの足跡を辿る旅であったことを見ても明らかだ。[23]辰野にも頼黄に決して劣ることのない、美術建築に対する知見と情熱があったことは疑いのない事実である。然しながらこの両者の建築デザインを比べると、筆者は違いを感じざるをえない。頼黄のデザインは建築物全体のバランスや見え方を俯瞰、光と陰影がデザインに与える影響を建築の価値として考慮しているのだ。ふたりのデザインの差は海外留学期間の差、3年間(頼黄の1年間の遊学期間含む)の経験と知見の差がもたらした感性の領域の差ではなかったのかと筆者は考察する。

7 おわりに
横浜市の歴史的建造物を遺すための本格的な活動は、田村明(1926-2010)が横浜市役所企画調整室部長として入庁した昭和43年より本格化。頼黄建築の赤レンガ倉庫の保全を指揮したのも田村である。[24]田村は横浜の景観を可能な限り後世に残すことに尽力した。自ら縦割りかつ困難な各省庁との調整を実行。首都高横羽線の地下化を推進した人物だ。[25]田村は景観や歴史遺産は市民に都市へのプライドを醸成させ、それにより他所からくる人々をも、その都市に惹きつけることが可能なことを実証して見せた。
それらの文脈から、今後、旧横浜正金銀行本店のもつ存在価値と意義はますます重要になるであろうと筆者は考察する。建物の価値以外に、その中に埋め込められたストーリー性にも、もっと注目すべきである。幸運なことに旧横浜正金銀行本店は、現在、歴史博物館として運用されている。今後の課題は、神奈川県の歴史博物館としての機能のほか、館内に頼黄や辰野の功績を含め、近代建築についての知見、知識を醸成し、さらに体系的に教育する機能を充実させることが必要であろう。

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  • 2_%ef%bc%88%e8%b3%87%e6%96%992%ef%bc%89%e3%80%80%e6%97%a7%e6%a8%aa%e6%b5%9c%e6%ad%a3%e9%87%91%e9%8a%80%e8%a1%8c%e6%9c%ac%e5%ba%97 (資料2) 旧横浜正金銀行本店 2019年12月3日筆者撮影
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    左上は竣工間もない筆者所蔵の当時の絵葉書。右上は関内側の馬車道より、横浜正金銀行本店を望む筆者所蔵の当時の絵葉書。左下は重要文化財 旧横浜正金本店本館復元の記録 神奈川県立歴史博物館 (株)国設計 (株)竹中工務店 (株)乃村工藝社より引用した関東大震災直後の写真である。右下は関東大震災直後、桜木町方面より横浜正金銀行本店を望む筆者所蔵の当時の絵葉書より
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    左上鳥籠状構造 右上は平成5年10月から平成6年10月までの人文系博物館整備工事時に撮影された写真で鉄骨・鉄筋煉瓦造りの耐震構造がよくわかる資料。左下は煉瓦と石の厚みや接続状態がよくわかる写真。右下は石とレンガの接続状態をイラストに表したもの。重要文化財 旧横浜正金銀行本館 復元の記録 神奈川県 株式会社国設計 株式会社竹中工務店 株式会社乃村工藝社 平成7年発行より引用
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    写真左上と右上とも 重要文化財 旧横浜正金銀行本店本館 復元の記録 神奈川県立歴史博物館 (株)国設計 (株)竹中工務店 (株)乃村工藝社 平成7年3月より引用。 下の写真は2019年12月3日筆者撮影
  • 6_%ef%bc%88%e8%b3%87%e6%96%996%ef%bc%89%e3%80%80%e6%97%a5%e6%9c%ac%e9%8a%80%e8%a1%8c%e6%9c%ac%e5%ba%97 (資料6) 日本銀行本店 2019年12月10日筆者撮影

参考文献

[1] 神奈川県立歴史博物館HP 2019年12月10日閲覧
http://ch.kanagawa-museum.jp/cultural-properties/building 

[2] 神奈川県立歴史博物館HP 2019年12月10日閲覧
http://ch.kanagawa-museum.jp/cultural-properties

[3] 妻木頼黄の都市と建築 一般社団法人日本建築学会 2014年4月発行 8頁

[4] 明治の建築家・妻木頼黄の生涯 現代書館 北原遼三郎 2002年6月 60頁

[5] 朝日新聞HP http://www.asahi.com/ad/clients/mansionnavi/column/37.html
・染谷正弘コラム 2019年12月14日閲覧

[6] 妻木頼黄の都市と建築 丸善出版 一般社団法人日本建築学会 2014年4月 9頁

[7] 近代建築そもそも講義 新潮新書 藤森照信+大和ハウス工業総合研究 2019年11月 Kindle版2254頁

[8] 妻木頼黄の都市と建築 丸善出版 一般社団法人日本建築学会 2014年4月 10頁

[9] 「日本建築の成立」コーネル大学における妻木頼黄の卒業論文について その翻訳と解題 国立科学博物館 清水建設技術研究所 清水恵一・松波秀子 1994年12月

[10] 国立国会図書館HP 2019年12月13日閲覧
 https://www.ndl.go.jp/portrait/datas/18.html 

[11] 明治の建築家・妻木頼黄の生涯 現代書館 北原遼三郎 2002年6月 104頁

[12] 国土交通省HP 2019年12月13日閲覧
https://www.mlit.go.jp/gobuild/kasumi_history_kasumi_history.htm

[13] 妻木頼黄の都市と建築 丸善出版 一般社団法人日本建築学会 2014年4月 15頁

[14] 妻木頼黄の都市と建築 丸善出版 一般社団法人日本建築学会 2014年4月 17頁 

[15] 妻木頼黄の都市と建築 丸善出版 一般社団法人日本建築学会 2014年4月 17頁

[16] 明治の建築家・妻木頼黄の生涯 現代書館北原遼三郎 2002年6月 128頁

[17] 重要文化財 旧横浜正金銀行本店本館 復元の記録 神奈川県立歴史博物館 (株)国設計 (株)竹中工務店 (株)乃村工藝社 平成7年3月 28頁

[18] 重要文化財 旧横浜正金銀行本店本館 復元の記録 神奈川県立歴史博物館 (株)国設計 (株)竹中工務店 (株)乃村工藝社 平成7年3月 46頁

[19] 日本の近代建築史(上) 岩波書店 藤森照信 1993年10月 244頁

[20] 妻木頼黄の都市と建築 丸善出版 一般社団法人日本建築学会 2014年4月 98頁

[21] 日本近代建築の歴史 岩波現代文庫 村松貞次郎 2005年4月 137頁

[22] 日本の近代建築史(上) 岩波書店 藤森照信 1993年10月 248頁

[23] 辰野金吾 ミネルヴァ書房 河上眞里 清水重敦 2015年3月 47頁、48頁、49頁、50頁

[24] 都市よこはま物語 時事通信社 田村明 1989年10月 181-183頁

[25] まちづくりと景観 岩波新書 田村明c2005年12月 15頁


その他参考文献
図説 建築の歴史 -西洋・日本・近代- (株)学芸出版社 西田正嗣・矢ヶ崎善太郎 2003年11月

物語 ジョサイア・コンドル 中央公論社 永野芳宜 2006年10月

佐賀偉人伝 辰野金吾 佐賀県立佐賀城本丸歴史館 清水重敦・河上眞里 2014年3月

日本の最も美しい赤レンガの名建築 (株)エクスナレッジ 歴史的建物研究会 2018年10月

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