ランドスケープとしての「紅テント」ー新宿・花園神社境内での上演活動にかかる考察ー

渡辺 江梨子

1.はじめに
新宿の総鎮守である花園神社の境内に、突如として真っ赤なテントが出現する。筆者は 2018 年 5 月に劇団唐組が上演した『吸血姫』で、初めて「紅テント」と呼ばれるテントの中での芝居を体験した。その際、以前に明治大学校舎裏に建てられたテントを見た時にはさほど特別な印象を受けなかった紅テントが、神社境内の雰囲気と妙に合って佇んでおり、大きな衝撃を受けた。
紅テントは劇場であり、その本質はテントの中で行われる演劇である。また紅テントの作品は、演劇学の分野で多数評価されているものである。
しかし、本稿では花園神社境内における紅テントを演劇の文脈ではなく、ランドスケープの観点からの評価を試みる。これは紅テントの本質とは離れたものかもしれない。しかし、今後もこの地で紅テントの上演活動が続いていくための手がかりが、ここにあるのではないかと考える。

2.基本データ
(1)所在地
東京都新宿区新宿 5 丁目 17-3 花園神社境内
(2)主催者
劇団唐組(花園神社が境内地の借用許可をする)
(3)テントの構造・使われ方
テントはパイプ支柱6本で支える八角形の構造をしている[写真1]。通常開演時間は19時であるが、 朝から劇団員が集合して手作業で柱を立ててテントを張り、午後には完成してしまう。開場前に整理券番号順に整列した観客はテントの中に入ると靴を脱ぎ、茣蓙の敷かれた客席に座る。 定員は252名と手書きの看板に書いてはいるものの、座席の仕切りはない。客たちは詰め合って後から入る客の為に場所を作りながら座る。

3.歴史的な背景
(1)テント劇場の成立から現在
紅テントは1967年、唐十郎の主宰する劇団「状況劇場」が、境内に駐車場用の真っ赤なテントを建てて上演したことを端緒とする。当時の若い演劇家の間では、従来の演劇空間を問い直す動きが起こり、テント劇場だけではなくビルの一室、喫茶店の2階、ひいては街中をそのまま上演場所として選ぶ集団も現れた[1]。唐は寺山修司[2]との会話の中で、寺山の「サーカスのように移動する劇団を作る」という言葉からテントを劇場として使うことをひらめいたと語る[3]。また、花園神社を始まりの地とした直接の理由は明らかではないが、唐が片山文彦[4]との対談の中で、新宿との縁[5]や大学生の頃から各地の神社で興行をしたことを述べている[6]。さらに、テントを張るには物理的な条件も多数求められる[7]。そのような経緯から、花園神社が紅テントの端緒となることは必然的であったといえよう。
初演時には「演劇史上初のテント劇場、新宿花園神社に出現す!!」 の文字が躍るチラシが撒かれ、それに多くの若者が吸い寄せられ観劇したという。しかし、当時から紅テントが全面的にこの場所において歓迎されていたわけではなく、境内には都議会議員の選挙事務所があったために『腰巻お仙』という演目名を「国体に反する」との理由から、止むを得ず『月笛お仙』に変更したというエピソードもある。紅テントが始まった翌年の1968年には、新宿で起きていたヒッピーやフーテン[8]を追い出そうとする運動のあおりを受け、神社総代会よりこれ以降の神社境内の使用禁止が通告されてしまった。
状況劇場は「さらば花園!」と題するビラを撒いてこの地を去り、その後は闘いとともにテント公演の地を求め[9]、都内の空き地を転々とした。神社の再理解と劇団の努力により、再び紅テントが花園神社に降り立ったのは12年後の1980年である。状況劇場は1988年に解散したが、その後新たに唐によって旗揚げされた劇団「唐組」によって、紅テントでの公演は現在も毎年続けられている。
(2)花園神社と芸能の歴史
花園神社は江戸開府以前から新宿の地に鎮座し、寛永年代(1624年〜1644年)に当地に移されたとされる。「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉の例に漏れず、新宿あたりも火事が多く花園神社もしばしば火災にあった。そしてその大火で焼失した社殿を再建するため境内に劇場を設け、見世物や演劇、踊りなどを興行が始まり、「三光院芝居[10]」と呼ばれてにぎわいを見せたという。このような芸能との縁の深さから、境内には「芸能浅間神社[写真6]」が祀られている。

4.事例の評価すべき点と他事例との比較
この事例において、本稿ではランドスケープの観点から、大きく2つの要素について評価する。また、評価の中で平成中村座の事例との比較を試みる。
(1)視覚的な要素
境内には真っ赤な鳥居が並ぶ「大威徳稲荷」や、神社の中心である朱塗りの「拝殿」がある[写真7・8]。朱色は生命の躍動を現すとともに、古来災厄を防ぐ色としても重視されており、神社の社殿等に朱色を用いてきた[11]。紅テントはしばしば「子宮」と例えられ[12]、役者や観客の「生命力」に満ちたテントが境内の赤と一体感を持った景観を形成している。また、紅テントでは「屋台くずし」と呼ばれる演出があり、舞台奥のテントの幕が開き、神社の景色が芝居に取り込まれる。境内の風景が舞台の場面を構成する要素にもなっているのである。
(2)歴史的な要素
3.(2)で述べたとおり、花園神社は江戸時代から芸能との深い関わりがある。三光院芝居とテント劇場に直接的な繋がりがあるわけではないが、古くから人々によって芝居が営まれてきた歴史のある場所を、同じく演劇を上演する場として、現代の劇団が選択したことは、土地の縁ともいうべき興味深い点である。また、テント劇場の端緒となったことから、この地をその後現れる数々のテント劇場の「聖地」と捉える動きもあり[13]、多くの劇団が紅テントに追随して花園神社で公演を行っている。紅テントそれ自体が、現代演劇と花園神社の歴史を構成する要素にもなっているのである。
(3)平成中村座との比較
平成中村座は、2000年に十八世中村勘三郎が、江戸時代に中村座のあった浅草に歌舞伎小屋を再現することを願い、隅田公園の山谷堀に仮設の劇場を建てて「法界坊」を上演したことが始まりである[写真9]。またそのきっかけは、勘三郎が19歳の時に紅テントを観劇して衝撃を受け、歌舞伎においてもこれをやりたいと思ったからだという[14]。
そのような経緯から、平成中村座は、歴史のある土地で公演することに対しては紅テントよりも意図的である。浅草での上演数は20年間で実に13回にも及び、土地の縁の下に上演活動を行っているという点では紅テントとの共通点が見られる。また、劇場も江戸時代の芝居小屋を再現すべく、外観も内観もつくりにこだわっている[写真11]。平成中村座は初演から20年と紅テントと比較して歴史は新しいが、今後はその発祥の地である山谷堀と仮設劇場が歴史を重ねていき、花園神社と紅テントのようにランドスケープとして定着していく可能性も大いにあるだろう。

5.課題と展望
(1)課題
紅テントは神社の理解、劇団の努力、観客の三者によって主に支えられている。しかし、こうして続いていることは決して当たり前のことではない。状況劇場が浄化運動の煽りを受けて花園神社を追われた歴史があるように、時代の流れ、人々の声で状況が変わり、今まで受け入れられていたものがそうでなくなるという危機は絶えず隣合わせにある。
(2)展望
紅テントは単なる演劇をするための装置のみならず、今もなおランドスケープとしての魅力を持っている。今後紅テントがさらに続いていくために、先に挙げた三者以外で、その魅力を感じる人々をフォロワーとして取り込むことができないだろうか。
演劇を観るという行為に構えてしまう人であっても、古くからの歴史と文化が作り上げてきた景色に魅力を感じ、花園神社に建てられた紅テントの景色を楽しむことができる人は存在する。現在劇団のWeb媒体[15]は公演情報に特化しており、また、上演期間中に神社に立てている看板も上演演目の案内のみである[写真12・13]。その形は劇団のあるべき姿には相違ないが、ランドスケープとしての独自性を持つ劇団だからこそ、Webや上演期間中にテントの前に立てる看板やチラシで紅テントのストーリーを紹介する等、様々な形で発信をしてほしい。紅テントがこれからも、花園神社やそこにいる人々と緩やかに歴史を重ねていきながら、存続していくことを願っている。

  • %e6%b8%a1%e8%be%ba1 写真1 花園神社境内に張られた紅テント。2018年5月13日、筆者撮影。
  • %e6%b8%a1%e8%be%ba4 写真6 花園神社境内にある芸能浅間神社。2019年1月23日、筆者撮影。
  • %e6%b8%a1%e8%be%ba5 写真7(上) 花園神社境内にある大威徳稲荷神社。2019年1月23日、筆者撮影。
    写真8(下) 花園神社拝殿。2019年1月23日、筆者撮影。
  • %e6%b8%a1%e8%be%ba6 写真9 平成中村座発祥の碑(隅田公園・山谷堀)。2019年1月19日、筆者撮影。
  • %e6%b8%a1%e8%be%ba7%ef%bc%88%e4%b8%8a%e5%86%99%e7%9c%9f%e5%89%8a%e9%99%a42%ef%bc%89 写真11(下) 平成中村座の内観。写真提供:ブログ「歌舞伎蝶日記」(https://kabumyu.hatenablog.com/)管理人あるえ様。
  • %e6%b8%a1%e8%be%ba8 写真12(左) 劇団唐組の立て看板①2018年10月『黄金バット』。2018年10月12日、筆者撮影。
    写真13(右) 劇団唐組の立て看板②2018年5月『吸血姫』。2018年5月13日、筆者撮影。

参考文献


[1]状況劇場も新宿のジャズ喫茶「ピット・イン」を使い、『ジョン・シルバー』を上演している。深夜0時半から始まるにも関わらず、130〜140人ほどが詰めかけ店内は満員になったという。
[2]劇作家で、劇団「天井桟敷」の主催。唐と同時期に演劇界で活躍し「早稲田小劇場」の鈴木忠志、「黒テント」の佐藤信と共に「アングラ四天王」と呼ばれた。
[3] KAWADE未知の手帖 (2006)『唐十郎 紅テント・ルネサンス!』<Kawade道の手帖>、河出書房新社、4頁。
[4]花園神社名誉宮司。
[5]新宿東口にあったジャズ喫茶「風月堂」はヒッピー、フーテンのたまり場であり、状況劇場メンバーの出会いの場であった(店は1975年に閉店)。花園神社に隣接する歓楽街であるゴールデン街も文化人や劇作家が集まる場となっており、唐も馴染みの店があり劇団員とも通っていたという。
[6]片山文彦(1989)『神社神道と日本人のこころ』日本地域社会研究所、234頁。
[7]テントを張るためには舞台と客席を確保できるスペース、杭を打ち付けるための土敷きの土地が求められる。 祭りの際に出店のテントが多く建つ花園神社境内は、テントを張るにも都合の良い土地であった。
[8]フーテンとは、1967年の夏、新宿東口に集まる長髪にラッパズボン、(妙なデザインの)サングラスといった格好をし、定職にも就かず、ブラブラしている無気力な若者集団のことを指す。
[9]紅テントの上演場所を得る闘いとして、「新宿西口公園事件」がある。新宿西口公園の借用許可が下りなかった唐らは、「公共の場で公演ができないのはおかしい」として、1969年1月3日、東京都の中止命令を無視し、新宿西口公園にゲリラ的に紅テントを建て、『腰巻お仙・振袖火事の巻』公演を決行。200名の機動隊に紅テントが包囲されながらも最後まで上演を行った。上演後、唐十郎、李麗仙ら3名が「都市公園法」違反で現行犯逮捕されたが、このことを契機に状況劇場はマスコミからその動向について注目を浴びるようになった。
[10]明治維新以前の花園神社は、真義真言宗豊山派愛染院の別院である「三光院」が合祀され、住職が別当(管理職)を兼ねる慣わしだったため「三光院稲荷」とも称されていた(三光院自体は明治以降に廃絶)。
[11]神社本庁教学研究所(2004)『神道いろは 神社とまつりの基礎知識』神社新報社、132頁。
[12]梅山いつき 編(2011)『広場をつくる・広場を動かすー日本の仮設劇場の半世紀ー展 展示図録』早稲田大学坪内博士記念演劇博物館、12頁。
[13]「アゴラ百景 集まるのには理由がある(第48回)花園神社は昔も今もアングラの聖地」 『週刊東洋経済』2009年 7 月 25 日号、東洋経済新報社、144頁。
[14]明緒/写真(2009)『拝啓「平成中村座」様 中村勘三郎一座が綴る歌舞伎への熱き想い』世界文化社。
[15]劇団唐組は現在ブログ(ameba)、Twitter、Facebookを使用している。

その他参考文献・ホームページ
・「役者の棲み家 : 小劇場勉強会 出現、消滅、変幻自在 都市を巻き込む演劇空間 面妖なるテント劇場の世界 劇団唐組 紅テント 新宿梁山泊 紫テント 劇団唐ゼミ☆ 青テント」 『住宅建築』、2013 年 10 月号、建築資料研究社
・岡室美奈子、梅山いつき編(2012)『六〇年代演劇再考』水声社
・樋口良澄(2012)『唐十郎論 逆襲する言葉と肉体』未知谷
・佐々木毅[ほか] 編(1995)『戦後史大事典 増補縮刷版』三省堂
・劇団状況劇場 編(1976)『唐十郎と紅テントその一党 劇団状況劇場1964-1975』白川書院
・花園神社ホームページ http://www.hanazono-jinja.or.jp/ 2019年1月29日閲覧
・新宿三光商店街振興組合ホームページ http://goldengai.jp/ 2019年1月29日閲覧

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