かわさき原産の甘柿 禅寺丸柿 ー柿の継承活動から見る文化的意義の考察
はじめに
「柿生ふる柿生の里、名のみかは禅寺丸柿、山柿の赤きを見れば、まつぶさに、秋が闌けたる」(北原白秋 歌集『橡』より)[1]
白秋の歌に詠まれた禅寺丸柿は、川崎の柿生地区を原産とし、日本最古の甘柿のひとつとされるものだ。本稿では、柿生を支え続けた禅寺丸柿の歴史を辿った上、現在、保存会が主体となって行う柿の継承活動を通し、禅寺丸柿の文化資産としての価値を考察する。
1.基本データ
禅寺丸柿
地域:神奈川県川崎市麻生区(柿生地区)
柿生を原産とし、多摩丘陵中西部を中心に分布する不完全甘柿[2]。熟期は10月上・中旬、大きさは卵大で、形は丸く、種が多い。有機質を多く含む土壌の原産地では、完熟すると糖度は20度以上になる。実には黒褐色のゴマが入り、黒糖に似た独特の甘みがある。平成19年、「国の登録記念物」に禅寺丸柿の原木、地域の古木7本が指定された。
柿生禅寺丸柿保存会
所在地:神奈川県川崎市麻生区 セレサ川崎農業協同組合柿生支店内
数百年前から柿生地区で栽培されている禅寺丸柿の保存と、郷土名物となる物産づくりに貢献することを目的とし、平成7年に発足。地区に居住し、禅寺丸柿を保有する農家140名[3]を会員とする。
2.歴史的背景
柿(学名Diospyros kaki)は、日本、中国、朝鮮半島が原産とされ、本来渋柿から始まり、突然変異によって甘柿が生まれたとされる。鎌倉時代の僧、玄恵(1269-1350)が著した『庭訓往来』に、甘柿を指す「樹淡」「木練」の記載があることから、日本では、鎌倉時代には甘柿が栽培されていたと考えられている。
禅寺丸柿は、鎌倉時代前期の1214年、現在の川崎市麻生区王禅寺に所在する星宿山王禅寺の山中で発見されたといわれる[4]。柿が広まったのは、1370年、等海上人[5]が、新田義貞の鎌倉攻めの際、兵火で焼失した王禅寺を再建するため朝廷から派遣され、寺の裏山で用材を探していた時、偶然見つけた柿の甘さに驚いて、寺に持ち帰って接木し、村人にも栽培を勧めたことがきっかけとされる。
江戸時代、禅寺丸柿は、主に渡し船で多摩川を越え、神田などの市場に運ばれた。慶安年間(1648-52)には、市場で果物の王座を占め、農家の貴重な収入源となった。知名度を押し上げたのが、毎年10月に行われる池上本門寺の御会式[6]で、縁日で売られた柿の甘味は庶民を魅了し[7]、「江戸の水菓子」ともてはやされた。明治22年の町村制の施行で、柿の産地である都筑郡10ケ村が合併して「柿生村」が生まれ[8]、同42年には、禅寺丸柿は明治天皇に献上される栄に浴した。大正時代になると、柿生村の禅寺丸柿の生産量は約940tに達し、名古屋の市場にまで出荷されたが、「富有」「次郎」といった大粒で種が少ない新種の柿の登場を受け、昭和40年代に市場から姿を消した。戦前、地域に9千本[9]あったとされる柿の木も、宅地化の影響で千本余り[10]にまで減少した。しかし、平成7年、地元有志による「柿生禅寺丸柿保存会」が結成され、柿継承のための活動が活発化すると、禅寺丸柿の認知は再び高まり、人気が復活してきている。
3.禅寺丸柿の保存・継承活動
活動の主体は、柿生禅寺丸柿保存会である。禅寺丸柿の苗木の植樹、禅寺丸柿を利用した商品開発と販売、PRが主な活動だが、中でも力を注ぐのが、平成9年に本格的に開始した柿ワインの製造・販売である[11]。高齢化で作業ができない農家の柿の手入れや収穫は、保存会が代行し、収量の確保に努めている。収量に恵まれた平成30年は、新たに柿スパークリングワインの醸造が可能となり、平成31年1月29日、若い世代への禅寺丸柿の浸透を狙う商品として新発売された[12]。毎年10月に行われる「禅寺丸柿まつり」(柿生中央商店会主催)と「あさお区民まつり」(麻生区主催)では、柿の即売会を開き、地域民に禅寺丸柿を認識してもらう機会としている。植樹活動では、学校・公共施設だけでなく、休耕地に新たに柿の苗木を植樹する[13]ことで、木の減少に歯止めをかけようとしている。
自治体や地域も、保存会と連携し、活動している。麻生区役所は、平成24年、区政30周年記念行事の一環として「禅寺丸柿サミット」[14]を行い、翌年、サミットが行われた10月21日を「禅寺丸柿の日」として日本記念日協会に登録した。その記念日のイベントとして、保存会と区役所、麻生観光協会が連携し、区民参加による禅寺丸柿収穫体験イベントを毎年開催している。イベントで、参加者は、「ばっぱさみ」という昔ながらの道具を使って柿もぎをし、収穫した柿を食べる。合間には、保存会のメンバーが「枝柿」と呼ばれる禅寺丸柿の昔の販売形態を実演して見せ、かつての柿生の秋の日常風景が再現される。柿生地区の菓子店では、禅寺丸柿ワインを使用したり、柿の実や葉の形を模した菓子が製造・販売されている[15]。その一部は「かわさき名産品」[16]に指定され、地域経済の活性化と禅寺丸柿の認知拡大に貢献している。商店会主催の「禅寺丸柿まつり」は、柿の種飛ばしや皮むきのコンテストなどで一日中盛り上がり、柿と共にあった柿生の歴史を地域で共有し、柿を真ん中に人々が集う機会になっている。
4.評価
禅寺丸柿と同様、かつて盛んに栽培されながら、時代の変化の中で消失の危機に直面し、その後、復興を遂げた農産物に「加賀野菜」がある。野菜を消失から救うため、農家の有志らが保存会を発足し、復興に向けた取組みを行った経緯は、禅寺丸柿の場合に似る。しかし、加賀野菜が「モノ」に焦点を当てた復興であるのに対し、禅寺丸柿は「コト」の復興であるところに違いがある。すなわち、前者が、地産地消を旗印にブランド化を進め、野菜(=モノ)に付加価値をつけることで復興を果たした一方、後者は、柿そのものだけでなく、歴史や伝承[17]、ばっぱさみや枝柿といった生活文化、柿の木のある風景など、柿と共にあった地域の生活(=コト)を包括的に保存、継承しようとしている点が特筆できる。
フランスの人類学者、マルク・オジェは、著書『非-場所-スーパーモダニティの人類学に向けて』の中で、人類学的な「場所」を、「アイデンティティを構築し、関係を結び、歴史をそなえるもの」[18]と定義し、港千尋氏は、「オジェは『場所』という言葉で、人間が時間的にも空間的にも関係を作り上げるところを意味している」[19]と説明する。これに当てはめるならば、柿生の地は「場所」であり、そのアイデンティティを構築する核となって、人や時間を結び付けてきたのが禅寺丸柿といえる。そして、現在行われている柿をめぐる様々な活動は、柿を通し、柿生という「場所」の意味を再認識し、地域のアイデンティティを今一度根付かせようとするものと評価できる。
5.今後の展望
禅寺丸柿を継承していく上で問題となってきていることに、柿の木の減少と、保存会の高齢化がある。木の減少の背景には、宅地化のほか、相続などによる土地の細分化がある。柿は、植樹から結実まで時間がかかるため、短期間に本数を増やすのはむずかしい。今ある柿の木の保存に加え、保存会が計画する、休耕地での植樹が重要な課題になるだろう。木の保存や植樹は、柿生の景趣を守ることになる。また、収量を確保できれば、柿加工品の製造・開発が継続でき、商品を通し、禅寺丸柿の認知の拡大が図れる。柿の即売会や商品販売の機会を捉え、消費者に直接、或いはチラシなどで、禅寺丸柿の歴史を伝える活動を充実できれば、継承活動への関心を高められる可能性もある。
高齢化の問題は、既に協力を得ている団体[20]に加え、地域ボランティアの立ち上げが一助となるのではないか。保存会にとっては、作業の人手確保だけでなく、柿の歴史や作業技術を伝えられる機会になり、柿を継承する人材が新たに育つ可能性がある。地域民にとっても、農作業を体験できる機会になり、柿を通して地域愛が育まれれば、保存会が掲げる「郷柿譽悠久[21]」の想いが引き継がれることになる。禅寺丸柿と何かしらの関わりを持つ地域民が増えることが、今後の継承活動において、大きな意味を持つだろう。
継承活動により、禅寺丸柿は、再び、柿生という「場所」のアイデンティティの核として認識されるようになった。禅寺丸柿は、これからも、人と人、時間を結びつけ、地域を活性化し、その歴史を重ねていくだろう。
参考文献
<参考文献>
・柿生禅寺丸柿保存会編『郷柿譽悠久 柿生に生まれた川崎の禅寺丸柿』、2005年、柿生禅寺丸保存会
・柿生禅寺丸柿保存会編『柿生禅寺丸柿保存会設立20周年記念誌』、2016年、柿生禅寺丸保存会
・麻生観光協会編『柿生の里 禅寺丸柿』、2018年、麻生観光協会
・広田鉄五郎・ 谷本真司著『甘柿禅寺丸栽培法』、1911年、有隣堂
・小島一也著『麻生の歴史を探る』、2016年、小島一也
・萩坂昇著『かわさきのむかし話』、1986年、むさしの児童文化の会
・傍島善次編著『手づくり日本食シリーズ 健康食 柿』、1986年、農山漁村文化協会
・松下良著『新版 加賀野菜 それぞれの物語』、2018年、金沢市HP
https://www4.city.kanazawa.lg.jp/17051/kagayasai_book/shinban.html 2019年1月27日
・マルク・オジェ著、中川真知子訳『非-場所 ―スーパーモダニティの人類学に向けて』、
2017年、水声社
・港千尋著『風景論 -変貌する地球と日本の記憶』、2018年、中央公論新社
禅寺丸柿保存会の活動については、会長の飯草康男氏にお話しを伺い、参考とした。
柿生郷土史料館および麻生区役所地域振興課には、関係団体や参考文献のご紹介をいただいた。
<註>
[1] 北原白秋著『白秋全集 11 歌集6』(岩波書店 1986)p110 王禅寺境内の、禅寺丸柿原木のそばに、この句碑がある。昭和10年、初めて王禅寺を訪れた白秋は、この地を気に入り、その後何度も訪問し、多くの作品を残している
[2] 柿は甘柿と渋柿に大別され、甘柿はさらに、完全甘柿と不完全甘柿に分類される。富有や次郎などの完全甘柿は、種子の有無に関係なく自然に渋が抜けて甘柿になるが、不完全甘柿は種子の有無が自然脱渋に影響し、種子が多いと渋が抜け、少ないと渋が残る
[3]2018年7月末現在の会員数
[4]延喜21年開山の王禅寺は、関東の高野山と称され東国鎮護の勅願寺だったため、西国からの上流社会階級の往来があった。禅寺丸柿は、西国からの使者が王禅寺の山中で見つけ、歴史的な発見として記録に留まったものと考えられている(『郷柿譽悠久』p2)。しかし、現在、それを示す文献は残っていない。禅寺丸柿発見に関する文献の検証は、古橋研一氏が著書『多摩川を渡って来た禅寺丸柿 ー調布から見た人と柿の道』(2016年、みんな新聞社)で詳しく行っている
[5]等海上人(?-1373) 元真言宗金沢山称名寺(横浜市金沢区)の僧。同宗徳恩寺(横浜市青葉区)、王禅寺の再建を行った。徳恩寺に墓がある。
[6] 日蓮宗の創始者、日蓮の命日に行われる祭り。10月中旬に日本全国で行われるが、日蓮が入滅した池上本門寺の祭りは最大規模である
[7] 手頃な値段で販売されたことも、庶民に受け容れられた理由といえる(小島一也著『麻生の歴史を探る』p219)
[8] 黒川、栗木、片平、五力田、古沢、万福寺、上麻生、下麻生、王禅寺、早野の10カ村が合併した。地域特産の禅寺丸柿の収穫が多い理由から、「柿生まれる村」の村名になったといわれる(『柿生の里 禅寺丸柿』麻生観光協会p4)。昭和14年、柿生村は川崎市に合併し、現在、柿生の地名は小田急線の駅名に残るのみである
[9] 『卿柿譽悠久』p20に、「柿生村岡上村郷土誌」(昭和7年発行)を参照した、当時の柿の本数と分布状況の記載がある
[10]『柿生禅寺丸柿保存会 設立20周年記念誌』p29に、平成27年度禅寺丸柿樹木数の調査結果があり、1333本と記録されている
[11]初年度の出荷本数は6001本だった。収穫量によって出荷本数にばらつきはあるが、毎年継続して醸造、販売を行っている。平成29年度は4200本を出荷、川崎市の大型農産物直売所セレサモスや市内の酒屋などで1400円(720ml)で販売
[12] 初年度は3100本を出荷、1700円(500ml)で販売。スパークリングワインのラベルデザインは、近隣の和光大学に依頼し、コンペで選ばれた学生の作品を採用した
[13]食料・農業・農村基本法(平成11年法律第106号)の、農地の有効活用の観点を利用し、地域の休耕地に禅寺丸柿の苗木を植樹しようと計画している
[14]関東一円の禅寺丸柿に関係する団体、関係者を招いて、シンポジウムを行い、禅寺丸柿が人々に恩恵をもたらした功績を称えた
[15]大平屋野村商店:「麻生 柿の里最中*」生の柿を使用した柿あんの最中、「柿の葉餅」、「柿の羊羹」、禅寺丸本舗:「禅寺丸最中」禅寺丸柿に見立てた最中皮、「柿っ娘」白餡に禅寺丸柿ワインを使用、「柿の葉もち」餅を包むのに禅寺丸柿の葉を使用、「冷やし柿」、「柿ようかん」、ミツバチ:「禅寺丸柿ワインケーキ*」生地に禅寺丸柿ワイン使用、「柿の葉リーフパイ」禅寺丸柿の葉を見立てた焼菓子、ラ・プラクミーヌ:「チーズケーキ」禅寺丸柿ワイン使用、「柿タルト」柿の果実を使用した柿の実型のタルト、「柿の葉茶マドレーヌ*」粉砕した柿の葉茶を生地に混ぜ込んでいる、「柿の実クッキー」柿の実型のクッキー (商品名に*がついているものは、「かわさき名産品」認定品)
[16]川崎市は、市内で生産・製造・加工・販売されている品物の中から、お土産にも使える川崎らしい品物を「かわさき名産品」として認定している(川崎市観光協会 http://www.k-kankou.jp/special/index.html)
[17]弘法大師が渋柿の木の幹にお経を書いて甘柿にしたという話、王禅寺が天領だったことから、徳川家康公が禅寺丸柿の名づけ親だという話、徳川秀忠公の鷹狩にまつわる話が、禅寺丸柿に関する伝承として地域に残る。特に、家康公の伝承は、禅寺丸柿の誇りとして語り継がれている。また、日本各地にもみられる「木守り柿」(翌年の豊かな実りを願い、木に、柿の実を必ずひとつ残して収穫する)の風習や、「柿の木から落ちるとけがは一生治らない」といった俗信が、柿生にも残る(『かわさきのむかし話』P89-92、『郷柿譽悠久』)
[18]マルク・オジェ著、中川真知子訳『非-場所 -スーパーモダニティの人類学に向けて』、2017年、水声社 p51-52
[19] 港千尋著『風景論 -変貌する地球と日本の記憶』、2018年、中央公論新社 P193
[20]JAや近隣の和光大学の学生ボランティアが、柿の収穫作業に協力している
[21] 郷土に生まれた禅寺丸柿は郷人にとって大切な宝であり、誇りあるこの心をずっと持ち続けていく、という意味。この言葉を刻んだ記念碑が王禅寺境内にあり、保存会10周年の記念誌のタイトルにもなった