「内藤とうがらし」地域活動の観点からの評価報告

佐々木 紀子

1.はじめに

「内藤とうがらし」は、400年という時を越えて現代の新宿の街に復活させた江戸東京野菜である。[資料1]
江戸時代、蕎麦切りが考案されると屋台と共に大流行し、薬味としての「内藤とうがらし」が大人気となった。やがて時代と共に都市化により衰退した。が、2009年に地域の食文化を再び蘇らせた「内藤とうがらし」は、現在、新宿の歴史を人々に伝えながら食文化として確実に浸透しつつある。
本稿では、「内藤とうがらし」の復活・過程を調査し、地域食材の復活を支える活動について考察を試みたい。

2.基本データ

名称:内藤とうがらし(八房唐辛子)
地域:新宿御苑と新宿区のエリア [資料2]
住所:東京都新宿区内藤町11(新宿御苑)
特徴:5つのポイント
・主に栃木県、茨城県、香川県に分布
・房状の果実が枝の先で上を向いている
・果実の大きさは品種により3~8センチ前後[資料4]
・唐辛子全品種の中でも辛さは中程度
・香りや味わいがよく葉唐辛子としても珍重
(JG編集部『情熱の新宿内藤とうがらし』株式会社H14より引用。)

3.概要

かつて江戸時代に庶民の間で大流行した内藤新宿名物「内藤とうがらし」が400年ぶりに復活した。現在、内藤とうがらしは新宿名物として注目を浴び、江戸東京野菜のひとつにもなっている。新宿といえば、銀座・池袋・渋谷などと並ぶ、東京を代表する大消費地だ。その大消費地での食文化への復活のエピソードと、都市農業や地域経済を含めた行政、企業、学校、住民の活動内容の紹介、そしてその延長線上に描く内藤とうがらしの未来を考察する。

4.歴史的背景
江戸時代、信州高遠藩・内藤清成は徳川家康の鷹狩りに同行した際に白馬で一周できる範囲の土地の約20万坪以上にも及ぶ屋敷地を拝領した。内藤家六代当主清枚の時代・1698年に甲州街道に誕生したのが「内藤新宿」であった。
「内藤新宿」は、江戸開府から100年後に設置され、新しい宿場町という願いから、新宿と名付けられた。[資料2上]
「内藤新宿」は多様な物資が行き交う地域経済・巨大な物流センターとなり、江戸と地方の間を循環させ社会経済システムの一翼を担っていただけでなく、膨大な情報や文化をも集結させ、世界一の人口を抱える江戸と共に急成長した新興都市となった。

庶民の食卓にも白米が並ぶほど豊かになると「江戸わずらい」と呼ばれた脚気が流行した。それに危惧した吉宗は、まず健康を考え野菜作りを江戸に居留する各藩で奨励した。
「内藤新宿」では、主に「内藤かぼちゃ」と「内藤とうがらし」を中心に栽培した。人口 “100万人都市”江戸の大半は男性で、侍や職人など地方からの単身者が多かった。特に労働者が行き交う「内藤新宿」では安価で手軽で便利な屋台の蕎麦屋が大繁盛した背景がある。[資料3] つまり、この江戸で初めて誕生した蕎麦切りの蕎麦の味を引き出す薬味である「内藤とうがらし」が注目された。

1810(文化7)年~1828年に出版された武蔵国の地誌『新編武蔵国風土記稿』に「番椒、四谷内藤新宿周辺の村々にて、作る世に内藤番椒と呼べり」と記録されている他、幕府の本草学者・岩崎常正が江戸周辺30キロ圏の実地踏査した『武江産物志』(1824)にも内藤とうがらしが掲載され、両国に近い薬研堀の「唐辛子屋」の口上でも歌われた。
[資料5]つまり幕府から庶民まで高い評価が得られていたことが伺える。
以上から江戸の換金制度の商業経済が宿場周辺の農家に入り、唐辛子ビジネスが育まれていた歴史的背景により、内藤とうがらしブームが沸き起こったといえよう。

やがて、内藤とうがらしの衰退と絶滅が訪れるが、その理由には次の二点が挙げられる。
一つ目には、江戸の中期から後期になると、産業の拠点となっていた内藤新宿が、更に重要な役割を担った。それにより、茶屋、旅籠屋が増加、宿泊から遊興を目的とした客への新サービスが盛んとなり産業の二次化、三次化が誕生した。つまり農家の収益よりも旅館業としての新規事業拡大によって畑が減少した。
二つ目には、より辛い「鷹の爪」の出現である。当時の流行りでは、香りや上品な風味のよい八房唐辛子の「内藤とうがらし」ではなく、刺激的で中毒性のある辛さの「鷹の爪」に人気が移動した。つまり農家も需要の高い「鷹の爪」の唐辛子を栽培するようになったといえよう。

5.評価

世界最大の乗降客数を誇る繁華街「新宿」で、完全に絶滅した内藤とうがらしを400年の時を経て復活させたのが、「内藤とうがらしプロジェクト」である。
その中心人物には、元オムロン常務取締役である成田重行氏の功績が大きい。[資料6 ] 2004年からスローフード江戸東京して、江戸時代の食の研究、再現、種の多様性、絶滅危惧種を再生するテーマで活動をしていた。日本の各地を回っていた成田氏は地元の新宿での地域に寄り添った活動をしていなかったことにある日気が付いた。そこで、新宿を徹底的に調べ上げ、八房唐辛子である「内藤とうがらし」に行きついた。が、新宿では、すでに絶滅していた。
成田氏は、徳川家康の家臣・内藤清成の出身であった三河(愛知県)やこの領地を実際に下屋敷としていた内藤家6代当主・清枚が藩主を務めた高遠(長野県)など、日本各地に種を求めて足を運んだ。
やがて江戸時代に最も多く栽培されていた八房唐辛子であることが判明、筑波の独立法人農産物資源研究所を訪ね、奇跡的に残っていた八房系で最も古い種を数粒譲っていただいた。さらに山梨の畑で3年間隔離し育成した後、ついに固定種を完成させた。
その中で、江戸東京・伝統野菜研究会代表の大竹道茂氏と出会い、江戸野菜の認定と繋げた。
その後、「内藤とうがらし」が江戸東京野菜として伝統野菜に認定され、質の高い栽培方法とブランドを守るために、指定農家に限りの生産とさせた。
また、2010年に地元住民で結成されたNPO「内藤とうがらしプロジェクト」の設立をきっかけとし、内藤とうがらしの苗を環境美化運動の一環として「花いっぱい運動」のひとつとし、商店街や住民に配布し、早稲田・高田馬場地域では、地域通貨運動(アトム通貨)に繋げた。
教育では、新宿区内にある、学習院幼稚園から、区立保育園、小学校、中学校、新宿高校や戸山高校、早稲田大学、学習院女子大学まで、幅広い教育現場30校に毎年5月から授業の一環として「内藤とうがらし」を育成し、栽培、そして収穫から料理教室、また地域のコミュニティ・イベントまで多様な学習教育の普及を確立させた。
また、400年前の「内藤新宿」の本拠地である新宿御苑を軸に、新宿区役所や、新宿文化を誇る100年企業である紀伊国屋書店、中村屋、伊勢丹、高野青果、追分だんご本舗新宿本店など企業を含めた商店街も、この新宿の食文化としての「内藤とうがらし」を応援している。そして、2018年9月には特許庁が定める地域団体商標に登録された。つまり、周辺の企業や学校が栽培した内藤とうがらしの定期的なイベントを開催させることにより、新宿全体の新しい歴史文化・食文化を形成し、成功している点が十分に評価される点であるといえよう。

6.未来への展望

食料自給率わずか1%の東京の新宿から「農」と「食文化」を繋ぎ、「新宿区」から環境循環型の暮らしが根付くようにと地域への呼びかけは、「内藤とうがらし」が世界でも稀少な例である。
江戸時代、秋になると新宿から大久保にかけての畑が一面真っ赤な絨毯のように町が赤く染まったという状況を現代にもう一回復活させてみたい、食文化で人と人とを繋げていきたいという成田氏の情熱から始まったのがこの「内藤とうがらしプロジェクト」であった。
2010年、わずか数粒の種は2019年1月現在、新宿の20万世帯のうち5000世帯がこの「内藤とうがらし」を栽培している。次は2万世帯を目標として目指している。
著者は17年間スローフード運動の活動に参加していることもあり、成田氏にグローバル展開を提案してみた。[資料7] 成田氏のフランス南部のとうがらしで有名な人口僅か約2000人のエスプレット村との繋がりの希望を伺った。
2018年の秋にイタリアのトリノにて、著者と親交のあるスローフード・フランスとの再会、そして、エスプレット村へと関係を繋ぐことに成功した。[資料8]
そして著者は今後「内藤とうがらし」と共に食文化による地域コミュニティを育みながら、世界のとうがらしを有するスローフード・コミュニティと連携し、国際交流の価値・可能性に未来へ繋がる希望へと期待したい。

  • %e4%bd%90%e3%80%85%e6%9c%a81 [資料1]
    江戸時代に信州高遠藩主内藤家の屋敷があった新宿御苑の「内藤とうがらし」2018年10月8日著者撮影
  • %e4%bd%90%e3%80%85%e6%9c%a82 [資料2]
    (上左)江戸時代に平賀源内が描いた八房唐辛子の絵
    (上右)四谷内藤新宿驛「江戸名所図会」挿絵 長谷川雪旦 新宿歴史博物館より
    (下)「内藤とうがらしマップ」 
    2018年制作主催・新宿内藤とうがらしフェア実行委員会より
  • %e4%bd%90%e3%80%85%e6%9c%a83 [資料3]
    「内藤とうがらし観察日記」
    自宅にて著者撮影 (2018年6月から9月)
  • %e4%bd%90%e3%80%85%e6%9c%a84 [資料4]
    「蕎麦屋の屋台」の模型 
    江戸東京博物館にて著者撮影(2019年1月6日)
  • %e4%bd%90%e3%80%85%e6%9c%a85 [資料5]
    「口上 七色唐辛子売り」の内容
    宮田章司著『江戸売り声』素朴社(2012年)より転記
    「内藤とうがらし売り」の女性は「内藤とうがらしプロジェクト」スタッフ 
    著者撮影(2018年9月15日新宿高島屋2階JR口特設会場「新宿内藤とうがらし市2018」にて)
  • %e4%bd%90%e3%80%85%e6%9c%a86 [資料6] 
    2018年8月11日(山の日)に開催された「新宿内藤とうがらし ぶらぶらさんぽ ~戸山・大久保百人町~」にて新宿の戸山公園にて著者撮影
    下 「内藤とうがらしプロジェクト」リーダーの成田重行氏 2018年10月6日新宿御苑にて著者撮影
    新聞記事 上 読売新聞2018年9月6日付朝刊「新宿産内藤とうがらし」の記事(「内藤とうがらしプロジェクト」FBより転記) 
    新聞記事 下 読売新聞2019年1月5日付朝刊「防臭に内藤とうがらし」の記事(都立新宿高校 小尾先生撮影)
  • %e4%bd%90%e3%80%85%e6%9c%a87 [資料7]
    「内藤とうがらし」のブランディング戦略 黄色の部分を著者が新たに海外展開として提案
    ※PJはプロジェクトの略写真上 
    写真は、授業風景は「内藤プロジェクト」より転記
    「内藤とうがらし」の写真 第5回 新宿内藤とうがらしフェア(2018年10月6日)、伊勢丹新宿店「新宿 内藤とうがらし・内藤かぼちゃフェア」(2018年10月6日)、新宿高野(2018年10月6日)にて著者撮影
  • %e4%bd%90%e3%80%85%e6%9c%a88 [資料8]
    2018年9月22日イタリアのトリノにてスローフード「テッラ・マドーレ・サローネ・デル・グスト2018」の様子と、著者と親交のあるフランス支部のブースにて
    写真下
    新宿の「内藤とうがらし」とエスプレット村の「エスプレットとうがらし」の比較
    左の写真は、2018年9月15日新宿高島屋2階JR口特設会場「新宿内藤とうがらし市2018」にて
    (参考資料提供:「内藤とうがらしプロジェクト」より) 
    2018年10月29日のフランス・エスプレット村「とうがらし祭り」より
    写真提供は川副剛之氏撮影 

参考文献

G編集部『情熱の新宿内藤とうがらし』、株式会社H14、2015年
平賀源内顕彰会著『平賀源内全集 下巻』、平賀源内顕彰会、1932年-1934年
芳賀善次郎著『新宿の今昔』、紀伊國屋書店、1970年
野村圭佑著『江戸の野菜 消えた三河島菜を求めて』、八坂書房 、2005年
山本紀夫著『トウガラシの世界史 辛くて熱い「食卓革命」』、中公新書2361、2016年
槌谷享信著『江戸四宿を歩く』、株式会社街と暮らし社、2001年
原田信男編『江戸の食文化 和食の発展とその背景』、小学館、2014年
山縣基与志著『日本人は蕎麦のことを何も知らない』、株式会社学習研究社、2003年
宮田章司著『いいねぇ~江戸売り声 絵で見る商いの原風景』、株式会社素朴社、2012年
安宅峯子著『江戸の宿場町新宿』同成社、2004年
新宿区立新宿歴史博物館『新宿300年・開館10周年記念特別展 図録 「内藤新宿ーくらしが創る歴史と文化Ⅰ』新宿区教育委員会発行、1998年
不詳(著)『武蔵国風土記 』(国立図書館コレクション)、原本出版者:幸雄写、1810(文化7)年~1828年に出版
クレイグ・グレンディ編『ギネス世界記録 2018』発行:株式会社角川アスキー総合研究所,
2017年

内藤とうがらしプロジェクト (2019年1月26日閲覧)
http://naito-togarashi.tokyo/

新宿区役所 (2019年1月26日閲覧)
http://www.city.shinjuku.lg.jp/

特許庁(2019年1月26日閲覧)
https://www.jpo.go.jp/torikumi/t_torikumi/tourokushoukai/bunrui/na_gyou.html

Slow Food Community (2019年1月26日閲覧)
https://www.slowfood.com/tag/slow-food-community/

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