ベトナム北部SAPAの少数民族とコミューン

三角 照夫

現代社会の中で我々人間は、大小さまざまな国家に属しながら日々生活を送っているが、現代ではインターネットの普及によって、世界中の情報を手軽に入手できるようになり、我々人間は、国家という枠を超えた生活集団(コミューン)を求めるようになるのではないだろうか?近い将来人間は各々が好みの小さなコミューンに帰属するようになると考える。

1.基本データと歴史的背景

ベトナム北部にあるSAPA市社(以降SAPA)は、現在ではラオカイ省の6坊10社の地域のひとつであり、標高1600mの中国との国境地帯に近い位置にある。この地はもともとタイ族、ザイ族、ヤオ族、モン族が定住していたが、その中でもモン族は白モン族、黒モン族、赤モン族、花モン族と4つに分かれており、現在ではモン族が最大のグループだが、ベトナム全土で見ると53の少数民族が生活をしている。(写真1)
1903年フランスのインドシナ地理学部探検隊が、ロ・スオイ・トゥン高原とSAPA村の少数民族を発見し、この地域をSAPAと名付けフランスの領地となった。
それ以前までこの地域はどの国にも、またベトナムにも属しておらず、各民族が小さなコミューンとして存在しており、自給自足の生活を営んでいた。
SAPAへ訪れるにはハノイから長距離バス、または列車を利用することになる。もちろんレンタルバイクで行くことも可能だが、今回私は長距離バスを利用した。
バスの場合、寝台バスで片道約6時間、途中2回のトイレ休憩がある。その他にマイクロバスのツアーで訪れている観光客もいたのだが、狭い車内で6時間の移動は大変だっただろう。私の利用したバスの場合は、朝6時45分にバス乗り場へ集合、7時15分頃ハノイ市内を出発し、昼過ぎの13時頃SAPAの町へ到着したが、足を伸ばして横になれるスペースがあるので移動は非常に楽だった。(写真2)
列車の場合は寝台車での移動になり、ハノイ駅を夜9時ごろ出発し、朝の4時から5時にラオカイ駅へ到着し、ラオカイ駅からバスに乗り換え、約1時間掛けてSAPAへ到着する。列車での移動のほうが寝ている間にラオカイ駅まで到着するため、現地滞在を丸1日有効に使えるのでこちらの方がおすすめだが、バスより列車の方が運賃は高い。

コロナの影響について、ベトナムは早い段階から外国人の入国を規制し、感染者が出た町はロックダウンするなど、厳しい措置を取っていたが、SAPAへは旅行者が来なかったため、一人も感染者はでなかったという。しかし少数民族の皆もワクチンは2回から3回接種していると聞いた。観光客の激減のため金銭の収入が途絶えてしまったが、彼らは普段から自給自足で生活していたため、生活については特に問題はなかったという。

2.事例のどんな点について積極的に評価しているのか

SAPAは1903年にフランスに発見されてから領地となりリゾート地として開発され、その後1963年にベトナムのグエン・チ・タン将軍がこの地を訪れ、おそらくそのあとベトナムの自治区となった。
社会主義国であるため、正確な情報が乏しく、現地の観光地にある年表を見ても1963年から1991年までの年代がごっそり抜けているのだが(写真3)(写真4)その間戦争に巻き込まれながらも少数民族たちは自給自足で生活を営みながら、この地でずっと生きてきており、その中で民族特有の文化を現在まで継承し続けている。
また、彼らの生活については、黒モン族のツアーガイドのギアさんによると、普段は野菜と焼きトウガラシを主菜として米を主食としているとのことで、肉は週に1 , 2回、食すだけと話していた。(写真5)(写真5-1)主食の米についてSAPAは山岳地帯であるため平地が少なく、昔から棚田を開墾し、稲作を行っている。棚田では面積が少ないため収穫量はそれほど多くなく、5月に田植えを行い9月に収穫した米は自分たちで消費するのが精一杯で、米を他に売ることは無いという。
また、棚田を開墾できないような斜面には一面にトウモロコシが植えてあるが、これは家畜の餌として使用するため、普段私たちが口にする食用のものとは種類が違うようだ。
主食の米、主菜、肉などは昔から自分たちの土地で育った作物を、自分たちで消費する、すなわち地産地消を実践し続けており、コミューンとして成立するためには、このように自立できる環境を整えることが重要だと感じた。
物流に依存することなく、日本人のように新しい文化が入ってくると伝統文化を捨て去るのではなく、美しい自然を守り続けられていることは特筆すべきことである。(写真6)(写真7)(写真8)(写真9)

3.国内外の他の同様の事例と比較して何が特筆されるのか

明治維新以降、府県制になる前の日本は各地で藩政が行われており、その中でも村や町ごとのコミューンが存在し、コミューンごとの特産品や、鉄砲町、両替町といったような専門集団のコミューンもあり、現在でも地名だけは残っている。また伊賀、甲賀というような技術者集団のコミューンもあった。
SAPAのコミューンについても少数民族ごとに衣装や風習は違うのだが、現代においても彼らは変わることなく、その衣装や風習の中に伝統文化を日常として継承しつつ、今を生きているところが日本のコミューンに比べて特筆すべき点である。(写真10)(写真11)(写真12)
また日本のような単一民族の国でさえ、藩、町、村の小さなコミューン同士で「おらが村が一番」といった考えが強い中、ベトナム少数民族達は種族ごとのコミューン同士のつながりが強く、それぞれコミュニケーションを取り合っており、コミューン同士の争いごとは皆無だという。とにかく彼らは心が純粋で争い事を好まないのだ。

4.今後の展望について

文明と開発の波が押し寄せたあと、気象台、水力発電所(写真13)バイク、車などが導入され、建物ももはや茅葺ではなくレンガ、コンクリートを使用している民家が多く、生活は便利になっているが、現在も棚田での稲作の作業は家族、親戚一同、隣近所と一緒に協力しながら行っており、仕事の役割分担は、もっぱら男性が畑仕事と子供の教育を、女性達は町に出てツアーガイドや土産物売りをして生計を立てている。これはやはり通貨が流通し、また現代社会を生きて行く上での生活必需品の購入など、最低限必要なものを購入するため貨幣が必要とされており、一方で伝統芸能、文化、棚田の風景、などを継承していくために必要な若い世代が多いため、人材には困らない。例えば黒モン族は18歳から23歳が結婚適齢期と言われており、早くから結婚して家庭を持つことが村の中で重要視されており、この辺りの少数民族全てがそうだと言う。実際、村を歩いていると子供達の姿を非常に多く見かけるのだ。これはコミューン、そして民族発展にとって非常に大切な事だ。(写真14)
(写真14-1)(写真14-2)

5.まとめ

ベトナム人の85%以上をキン族が占めており、キン族を除く少数民族は53民族となり、民族単位でみると各民族とも非常に人口が少なくマイノリティであるため、SAPAの中心地で観光客相手に商売をしているのはキン族がほとんどである中、少数民族たちはそれぞれ自分たちのコミューンから町へ通い、観光客相手にツアーガイド、フット、全身マッサージの技術を身につけたり、土産物を販売、村では食堂、ホームステイなどを経営し、それらを生活の糧としている。
しかし一方では観光客による土産物の買い漁り、観光化のための自然破壊など、問題も浮かび上がっている。
参考までに江草拓氏のホームページから引用すると「観光化による伝統文化の破壊は、近代化による伝統文化破壊よりもはるかに残酷なものだと思った」とある。
江草氏が訪れたのが、2005年と言うことだが、2023年に私が訪れた今回とを比べてみると、近代化と観光化の両方が進んでいたことに危機感を覚えた。
この問題については、われわれ観光客の彼らに対する意識、姿勢により変えることができる。SAPAを訪れる我々観光客がほんの少し気をつければ、観光化による伝統文化の破壊は食い止めることができるのだ。

参考文献

Webページ 江草拓公式ページより『わたしのどこでも散策記録 – ベトナム北部の少数民族の写真集と旅行記』http://www.bbweb-arena.com/users/et/vietnam/vietnam.htm
2023/07/01現在

礒部俊彦 著 『共(コミューン)の思想 – 農業問題再考』株式会社 日本経済評論社 2000年3月30日発行 

安田浩一 著 『団地と移民 課題最先端「空間」の闘い』株式会社KADOKAWA 2019年3月23日発行

中西礼仁 著 『未来のコミューン – 家、家族、共存のかたち』株式会社インスプリクト 2019年1月25日発行

アサヒグラフ編『にっぽんコミューン』朝日出版社 1979年6月発行

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