みなかみ町「藤原盆」にみる途絶えた民芸品の価値と未来への継承の可能性

長澤 まち子

はじめに
日本各地には、地域の風土や生活に根ざした多様な民芸品が存在してきた。しかし近代化や生活様式の変化に伴い、その多くは姿を消し、現在では名称すら知られなくなったものも少なくない。わが町に存在していた藤原盆(1)も、そのひとつである。
藤原盆はかつて、藤原地区で生産され日常的に用いられた生活用具であった。しかし昭和中期以降、「藤原盆」という名称は風化をたどり(2)「木鉢」という生活道具名で細々と流通しながらも、現在はその存在、製作技術ともに途絶えるに至った。本稿では、途絶えた藤原盆の特質を明らかにし、未来への継承の可能性について考察する。
1.基本データと歴史的背景
みなかみ町藤原地区は、群馬県北部に位置している全国でも有数の豪雪地帯であり(3)、冬は深い雪に閉ざされる集落である。そこには雪深い風土で育った広葉樹の原生林があり(4)、木地師が住み着いていたこの地区では(5)、冬期間の副業として古くから木工が盛んであった。そこで生まれたのが藤原盆である。
藤原盆は、江戸時代中期(6)から2010年頃(7)まで製作されたといわれている木工民芸品である。藤原地区の朴(ホオ)・栗(クリ)・栃(トチ)・橅(ブナ)等の木を材料として作られており、円形や四角形、半月形、扇型と様々な形がある。40~60cm程度の大きさのものが多く残っているが、小皿のような物から約1m(8)に及ぶ大鉢の存在も確認されている。造形面での特徴は、鑿(のみ)を用いて力強く刻まれた「鑿跡」と「放射状の模様」である。実用されていたものは塗りの無い生地のままのものが多いが、拭き漆で固められ縁を黒漆で仕上げられたものや花や動物が描かれたものもあり(9)、それらは「献上手」と呼ばれている。また、特筆すべきはその「軽さ」である。直径40cmを超える木鉢でありながら、重量は1kg強(実測値で約1200g)に抑えられている(10)。
1742年に沼田藩主となった土岐氏が特産として生産を奨励し、藤原盆だけを塗らせる塗屋をおいて仕上げをさせたともいわれており(11)その時代には皇室にも献上されたと伝えられている。2023年には、沼田藩ゆかりの民家から漆塗りの吸物膳拾人前(12)も発見されている。
盆と呼ばれているが、盆としての用途に限らず、こね鉢、皿、蚕鉢、飾り鉢、祝い膳や茶事など(13)多様な役割を担い、日常生活から年中行事まで幅広く用いられていた木製民芸品である。
1-2 藤原盆の衰退
昭和初期に入ると、「藤原盆」という名称は次第に用いられなくなり、市場では「木鉢」という汎用的な名称で流通するようになった(14)。この名称の変化は、藤原盆が土地の歴史や製作背景を示す名称を失った事を意味しており、地域の風土を体現する民芸品から、用途のみが重視される一般的な木製品へと位置づけを変えたことを示している。その後、高度経済成長期以降の生活様式の変化や大量生産品の普及、職人の高齢化と後継者不足が重なり、製作技術そのものも継承されないまま消滅に至った。これは、「名称」「物」「技術」という三層の価値が、段階を追って社会から切り離されていく文化の消失過程そのものを示しているといえる。
2.評価する点
藤原地区の古人は豊富な森林資源を、盆という生活資源へ変換したことで、地域風土と生活具のつながりを成立させた。それに加え、木地の美しさと鑿跡の力強さを生かした藤原盆のデザインは、機能と美が分かちがたく結びついた「用の美」を体現しているといえる。民藝運動の提唱者である柳宗悦(15)が説いたように、実用性を追求した道具に宿る無意識の美しさが、この盆には凝縮されているのだ。これらにより、藤原盆が地域風土と生活文化を直接的に反映した生活具であったということがわかる。
また外見の重厚さを裏切る「圧倒的な軽さ」にも驚かされる。この放射状の鑿跡は、単なる装飾や滑り止めとしての機能を語られがちだが、木材を限界まで削り落としたことで「いかに楽に扱えるか」を突き詰めた。これは究極の機能美といえる。
さらに、名称消失という現象を通じて、木工民芸品がどのように文化的意味を失っていくのかを具体的に示している点である。藤原盆は「木鉢」と呼ばれるようになったことで、地域固有のモノから、代替可能な生活什器となった。この点において藤原盆の価値は物理的な形態だけでなく、名称によっても支えられていることを明確に示す事例として評価できると考えた。
3.国内外の事例比較における特異性
国内の木製盆としては、木曽の「木曽漆器盆」(16)や富山県の「庄川挽物木地」(17)等が挙げられる。しかし、これらが“産業としての継続”や“伝統工芸としての制度的保護”によって現在も生産されているのに対し、藤原盆は地域の生活と不可分でありながら、産業化されずに途絶えてしまった。また生産規模が小規模であったため制度的な支援もなく(18)、地域社会の人口減少や生活変化の影響を直接受けた。これらの点で藤原盆は「高度な技術を持ちながら、近代化の波を最も受けやすい位置にあった民芸品」だったといえる。
海外の類似事例としては、北欧の木椀・ククサ(19)やシベリアの白樺細工(20)が挙げられる。これらは自然素材を活かし、生活具として使用されてきた点では共通するが、多くは観光産業やデザイン産業と結びつき、形を変えつつ継続している。一方 藤原盆は、観光化もデザイン化も行われず、近代化の過程で静かに姿を消した。藤原盆のように直径1mに及ぶ巨木を扱い、かつそれを極限まで軽量化して実用化する技術体系は、世界的にも極めて稀有な事例である。均一化された製品にはない、手仕事ゆえの「野性味ある個体差」こそが、藤原盆の特質なのである。
4.地域風土の変化と社会の変容
藤原盆が後継者を失い、一度は途絶の道を歩んだ背景には、地域社会の構造的な変容がある。かつて群馬の農村では主食として、また冠婚葬祭などの「ハレの日」のご馳走として、自宅でうどんを打って食べる文化(21)が深く根付いていた。うどんのこね鉢としての藤原盆は、そのコミュニティの中心にある道具であった。しかし、高度経済成長以降の養蚕業の衰退、食の外部化、核家族化により、大勢で集まりうどんを打つという光景は消失していった。 つまり、藤原盆が途絶えた要因のひとつは、その道具を必要とした「生活の様式(ライフスタイル)」そのものが失われたことにある。プラスチック製品や安価な輸入製品の普及は、重厚な木鉢を「時代遅れの道具」へと押しやってしまった。しかし、今なお一部の家庭で現役として使われている事実は(22)、この道具がいかに群馬の風土と身体感覚に馴染んでいたかを物語っているといえる。
5.今後の展望:歴史を未来へ繋ぐ再定義
現在、藤原盆を消滅させまいとする有志による研究会が立ち上がり、地元の指物師によって作られる「シン・フジワラボン」(23)という新たな試みが始まっている。これは単なる伝統の復刻ではない。
「シン・フジワラボン」は、藤原地区の木材を使用し、伝統的な放射状の鑿跡を継承しながらも、現代の環境に適した大きさへと変化を遂げた(24)。かつては巨大な木鉢であったが、使う人の意図に沿ったものを乗せる小皿やトレーとして機能する形へと再定義されたのだ。こうした用途の翻訳、すなわち現代の生活空間への最適化こそが、途絶えた民芸品を現代に蘇らせる唯一の道なのではないか。伝統とは形を変えずに保存することではなく、その精神を今の時代に求められる形へと更新し続けることなのである。
6.おわりに
藤原盆は、みなかみ町の厳しくも豊かな自然がもたらした資源と、人々の暮らしを彩ってきた食文化が結実した結晶である。一度は失われかけたこの文化は、近代化という時代の変遷の中で私たちが切り捨ててきた「不便さの中に宿る豊かさ」であり「土地に根ざして生きるという誇り」そのものだといえよう。一度は途絶の淵に立った藤原盆が、今「シン・フジワラボン」として再び動き始めた事実は、私たちが現代社会において、失われた手仕事のぬくもりや地域アイデンティティを必要としていることの証左に他ならない。
藤原盆の持つ「用の美」は、形を変えながらも、未来の生活の中に新たな価値として息づいていく可能性を十分に秘めている。この歴史を過去の遺物として置き去りにするのではなく、現代の感性と接続することによって、藤原盆の鑿跡は次の世代の記憶にも深く力強く刻まれていくはずである。

  • 81191_011_32081057_1_1_資料1 _page-0001 出典 : 藤原ぼん研究会発行パンフレットより引用
      みなかみ町嶽林寺にて、寺院および被写体本人の許可を得て筆者撮影
  • 資料2 ◎_page-0001 みなかみ町嶽林寺にて、寺院および被写体本人の許可を得て筆者撮影
  • 81191_011_32081057_1_3_資料3_page-0001 個人宅にて所有者の許可を得て筆者撮影
  • 81191_011_32081057_1_4_資料4_page-0001 出典 : 月夜野郷土歴史資料館 資料館の許可を得て筆者撮影 みなかみ町教育委員会文化財資料掲載許可を得て掲載
         雲越家住宅資料館 資料館の許可を得て筆者撮影 みなかみ町教育委員会文化財資料掲載許可を得て掲載
  • 81191_011_32081057_1_5_資料5_page-0001 個人宅にて所有者の許可を得て筆者撮影
       建物に隣接する道路より撮影

参考文献


(1)江戸期に生産始まった「藤原盆」の魅力を発信 上毛新聞
   https://www.jomo-news.co.jp/articles/-/349106   2026.1.17 最終観覧
(2)生方たつゑ「藤原盆をつくる部落」『旅』28巻第5号 財団法人日本交通公社
昭和29年102頁
文中に「雪の暗い廂の下でこつこつと作り上げた藤原盆の存在すら忘れ去られているらしい
が、昔はこの部落に盆を作る人がいて…」とある。ここでの名称は「藤原盆」とあるが
それ以降の文献の名称は「木鉢」となっている。
   小野里茂作 『町誌みなかみ』 町誌みなかみ編纂委員会 昭和39年 744頁 
   藤原の生活の中で「木鉢」と紹介されている。
(3) みなかみ町の自然とくらし 第2章 気象 第2節 天気の特徴  2017年
https://www.town.minakami.gunma.jp/minakamibr/nature/pdf/nature02.pdf 
2026.1.9 最終観覧
(4)みなかみ町の自然とくらし 
第8章 人と自然との関係 第1節 近世の暮らしと山の恵み 2017年
https://www.town.minakami.gunma.jp/minakamibr/nature/pdf/nature08.pdf 
2026.1.9 最終観覧
(5)群馬県教育委員会 『水上町の民俗』 群馬県教育委員会事務局 昭和46年 44頁
(6)井藤丈英編集「武州金沢に残された藤原盆」『目の眼』2・3月号 NO.585 目の眼編集部 
2026年81頁
(7)三山春秋 上毛新聞 2023.6.18 朝刊 1面
   記事の中で「十数年前まで」とあるが、これは実際に藤原ぼん研究会の会員が
藤原盆製作者に接触している事が根拠となっている。
(8) 資料2-写真4 嶽林寺 約1mの藤原盆 写真  
(9) 資料2-写真3-1 写真3-2 写真3-3 嶽林寺 絵の描いてある藤原盆 
(10)資料2-写真2 嶽林寺 直径43センチ 縁の厚さ2.5センチ程度の盆で1200g程度 
(11)前掲「藤原盆をつくる部落」『旅』28巻 第5号 財団法人日本交通公社 昭和29年103頁 
(12)資料3-写真5-1 熊澤家に伝わる藤原盆
(13) 資料1-写真1 藤原盆と石仏展 2024年 パンフレット
(14) 高橋徹 『上州のくらし民具』煥乎堂 昭和52年 92頁 
(15) 用を突き詰め美の根源に迫る~民藝 https://www.gyokusendo.com/column01_dento/5564 
2026.1.20 最終観覧
(16) KOGEI JAPAN 木曽漆器 https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/kisoshikki/ 
2026.1.20最終観
(17)KOGEI JAPAN 庄川挽物木地 
https://www.kogeijapan.com/locale/ja_JP/shogawahikimonokiji/ R8.1.15最終観覧
(18) 山田寅次郎(実業家・トルコで最も有名な日本人) 令和5年度年報 生方記念文庫 
令和6年7月発行  
山田寅次郎 略年譜の中で、1935年に「藤原盆の復旧に努めては如何」と
後に沼田町長・県議会議員・国家公安委員などを務めた生方誠に書簡を送っている。
しかし実現されていない。
(19) ククサ専門店onnea ククサについて http://www.kuksa-onnea.com 
2026.1.20最終観覧
(20) いりえのほとり 白樺細工エベレスタ https://irie-hotori.com/collections/beresta
2026.1.20最終観覧
(21) 日本民俗地図:食文化 国土地理協会 1970年 12頁
(22) 写真7-1 民家に残る藤原盆  
(23) 写真6-1 6-2 シン・フジワラボン
(24) 写真6-3シン・フジワラボン説明

参考文献
石川欣一 『山を思う』 山と渓谷社 1955年 
秦 秀雄 『骨董玉手箱 その出会いと遍歴』文化出版局 1978年
高橋 徹  『上州のくらし民具』煥乎堂 昭和52年
群馬県教育委員会 『水上町の民俗』 群馬県教育委員会事務局 昭和46年
都丸十九一 『10日本の民俗 群馬』第一法規出版株式会社 昭和47年
都丸十九一 須藤 功 『上州のくらしとまつり』煥乎堂 昭和52年
西川一草亭 『瓶史』昭和7年秋風號 去風洞 昭和7年
小野里茂作 『町誌 みなかみ』 町誌みなかみ編纂委員会 昭和39年
金井竹徳 『奥利根 藤原郷の四季』 写壇おくとね 1984年
瀬良陽介 『盆百選』 平安堂書店 1972年 図版45
生方記念文庫 『生方記念文庫第33回企画展 幕末生まれの沼田の名士』生方記念文庫 令和6年
藤原ぼん研究会 嶽林寺 鈴木潔州住職からの聞き取り内容 令和7年4月~令和8年1月

取材、資料提供、写真撮影協力
みなかみ町嶽林寺、藤原ぼん研究会、雲越家住宅資料館担当の方々
みなかみ町水上公民館図書室、みなかみ町のみなさま
本調査に当たり、資料の閲覧や当時の状況について貴重なご教示を頂いた皆様に深く感謝申し上げます。

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