
群馬県桐生市「桐生八木節まつり」 -桐生祇園祭の継承と八木節踊りの役割-
1. はじめに
群馬県桐生市の桐生八木節まつりは、毎年8月に開催される桐生祇園祭を起源とした祭りイベントであり、かつて織物市が立っていた本町一丁目から六丁目を中心として開催されている。市総人口約10万人の過疎地域[1]にも関わらず50万人を超える来場者が訪れる北関東最大級の祭りイベントである。
本稿では八木節踊りが桐生八木節まつりの発展と桐生祇園祭の継承に対し、どの様な役割を果たしてきたかについて明らかにすることで、文化資産として評価する。
2. 基本データと歴史的背景
2-1. 基本データ
名称:桐生八木節まつり
会場:群馬県桐生市 本町通り・末広通り・錦町通りおよび横山町[資料1]
開催期間:8月第1金曜日から日曜日
2-2. 桐生八木節まつりの成り立ち
桐生市は古くから染織産業で栄えてきた町であり、『続日本紀』には奈良時代から盛んであったことが記載されている[2]。元々は絁が織られていたが、永久元年(1113)、京都より仁田山村へ嫁いで来た白瀧姫によって養蚕・機織が伝えられたことによって上質な絹織物が織られるようにり [3][4] 、室町幕府からの需要に支えられ絹織物の一大産地として発展していった[5]。天正19年(1591)から慶長11年(1606)の間には徳川家康の命により、天満宮から浄運寺までを六丁として桐生新町(現本町通り)が町立てされる[6]。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの際、徳川家康の要請により1日のうちに2410疋もの旗絹を織り出し、東軍の勝利に貢献したことを吉例とし、桐生織物は徳川の御用機として名を馳せる[7]。正保3年(1646)に年貢が物納から金納へ変更されたことを契機とし、織物を換金する市が栄える[8]と、多くの人が集まり流行病が蔓延したことから、疫病退散を祈念する桐生祇園祭が明暦2年(1656)から行われるようになる[9]。 昭和39年(1964)第1回桐生まつりとし、八木節踊りを全面に押し出した季節の種々の祭りを統合する祭りイベントへと改変。昭和63年(1988)に桐生八木節まつりと改称し現在に至る[10]。
3. 評価する点
3-1及び3-2に述べる特徴によって、毎年約50万人を動員する北関東最大の夏祭りとして成長してきたこと。この活況を背景とし明暦2年(1656)から続く伝統祭祀である桐生祇園祭が効率的に継承されてきたことを地域の文化資産として高く評価する。
3-1. 祭行事の複合化について
桐生八木節まつりは昭和39年(1964)に複合祭りイベントとして始まったものである。それまでは季節ごとに様々な祭りが行われていたが、街が近代化するに従い運営のために多くの人員や運営費が必要であることや、交通規制による近隣住民の生活や経済活動の制限など、社会への負担が増加していた。この状況を改善するために祭祀統合のアイデアが市民から集められ、 春の商工祭・文化祭、 夏の祇園祭・七夕祭・花火大会、秋の桐生祭・体育祭の他、地域の小規模な祭りを統合する祭りとしてリデザインされ現在の形となる。
第1回東京オリンピック開催のこの年に、桐生市も大きな躍進を図り多くの人で賑わう祭りを模索していた。市民からの寄せられた意見の多くは桐生祇園祭を中心としたプランであったが、同時に運営費に課題があることにも言及されていた。これらの意見を協議委員会で熟慮の末、桐生音頭の代わりに隣町の足利市で流行していた八木節踊りを取り入れ普及させようという案がまとまり、これが目玉として置かれることになった [11] [12]。
複数の祭祀の統合により、種々の祭祀を低コストに継承得ることと、その規模を拡大することに成功している。
3-2. 八木節踊りの起用について
八木節は例幣使街道にあった木崎村(現群馬県太田市)に越後から売られて来た少女によって歌われていた「新保広大寺くずし」の下地に、村人が鋤や鍬でリズムを付けた「木崎音頭」が元になったものである。これが八木宿(現栃木県足利市)に持ち込まれ、堀米源太によって盆踊りとして演奏されるようになると、大流行したことから八木節と呼ばれるようになったと言われている[13]。
日本の音楽研究家である小泉は民謡の様式を「八木節様式」と「追分様式」の大きく2つに分類し、八木節様式の主な特徴として「主として労働や舞踊のような 集団的環境で、個別的というより、共同体的な感情をあらわす唄で、旋律はメリスマが少なく、歌詞に密着しており、音域はあまり広くなく、リズムは明確な拍節を持っている」[14]と述べている。
誰にも受け入れやすい特徴を持つ八木節を桐生八木節まつりの目玉としたことにより、来場者によるコミュニティーが形成され易い状態を作り出すことに成功している。また、初めて聞く人にも受け入れやすい楽曲と、地域に根差した歌詞は、参加者達に自場文化を届けることを可能とし、多くの人々による交流の活性化が図られている。
現在では八木節踊りを起用した当初の目的が果たされ、桐生八木節まつりの活況に繋がっている。
4. 同様の事例と比較して特筆される点
京都祇園祭は貞観7年(869)[15]から続く牛頭天皇を祀った疫病退散と無病息災を願う祭祀であり、日本各地で行われている祇園祭の元である。日本三大祭の一つで、7月を通して行われており山鉾巡行は絢爛な装飾や雅な雰囲気により京都祇園祭の目玉となっている。神仏習合の形で祀られた八坂神社が起源である祇園祭は神道や仏教のみならず、儒教、道教やキリスト教までを取り込み、世界の文化を融合させるように発展してきた。山鉾の懸想品も世界中から渡来した染織品とともに、日本独自に発展した西陣織を始めとする京都の伝統工芸品により装飾されている[16]。山鉾の多くは幕末の度重なる火災による消失や明治以降の都市化など、問題が起こる度に町衆によって復興され現在まで継承されてきた。近年では平成26年(2014)に大船鉾が、令和4年(2022)には鷹山が復活を果たすなど、現在も変化を続けている[17]。
このように京都祇園祭は伝統を継承する為、継続的に文化財の修繕や復興がなされてきたことにより、地域の伝統工芸と深い繋がりを持っている。来場者は雅な祭行事やこれらの絢爛豪華な伝統工芸を観覧するために日本中から訪れている。
一方、桐生八木節まつりは織物産業の興隆による流行病の蔓延をきっかけとし、無病息災、疫病退散を祈念した桐生祇園祭を起源とした祭りイベントであるものの、伝統工芸である織物と祭りは直接的な関わりを持つことなく運営されてきた。そして戦後の高度成長期に八木節踊りを全面に押し出した複合的な祭りイベントとしてリデザインされたことにより現在まで盛況を収めている。
来場者は祭行事を観覧するだけでなく事前の手続きなしに八木節踊りに参加可能であり、全員参加型の祭りを形成していること。また複合的な祭りイベントとしたことによって、運営コストを抑えながら桐生祇園祭を継続できていることは特筆すべき特徴である。
5. 今後の展望について
今後のより良い継承のためには、桐生祇園祭と織物産業の関係性を啓蒙していく必要があると考える。これまで直接的な関係を持たなかった伝統祭祀と伝統工芸を組み合わせる事によって、相互のより一層の活性化が可能であることはことは京都祇園祭の事例からも考察できる。
このような地域活性化の事例として、産官学連携によって伝統工芸の活性化を実現している京都府の株式会社細尾による活動[18]や、京都市による伝統産業の活性化のための取り組み[19]を参考とすることで、桐生八木節まつりの更なる伸長が可能であると考察する。
6. おわりに
今回の調査により、桐生八木節まつりが社会に適応するために合理化され、その目玉として八木節踊りを起用した事により、桐生祇園祭の継続と桐生八木節まつりの活性化に対して大きな役割を果たしてきたことが明らかになった。
一方で祭祀の礎である織物産業との関わりが希薄であること。統合された祭祀のいくつかは廃止され、八木節の櫓もその数を減らしてきていること。また、時代背景を知る人も非常に少ないこともわかってきた。
今後この伝統祭祀を後の時代へ引き継いでいくためには、各種の資料を一括して分かりやすく纏めることが重要だと考え本稿を執筆した。
参考文献
註(URLは全て2025/1/29参照)
[1] : 桐生市HP「人口(全住民)」
https://www.city.kiryu.lg.jp/shisei/1018369/toukei/1008301/1005792.html
[2] : 土屋喬雄『日本資本主義史論集 (日本政治・経済研究叢書 ; 第1)』、育生社、1937年、P261
https://dl.ndl.go.jp/pid/1902400/
[3] : 堀越靖久『桐生市史年表』 、桐生市、1971年、 P1564
[4] : 桐生市史別巻編集委員会 編『桐生市史 上巻』 、桐生市史刊行委員会、1958年、 P221~234
https://dl.ndl.go.jp/pid/3024325/1/139
[5] : 天利秀雄『桐生の歴史』、桐生文化史談会、1983年、P60~64
https://dl.ndl.go.jp/pid/9643390/
[6] : 天利秀雄『桐生の歴史』、桐生文化史談会、1983年、P78~79
[7] : 土屋喬雄『日本資本主義史論集 (日本政治・経済研究叢書 ; 第1)』、育生社、1937年、P263
https://dl.ndl.go.jp/pid/1902400/
[8] : 天利秀雄『桐生の歴史』、桐生文化史談会、1983年、P88
[9] : 桐生市HP「第2章 桐生市の維持向上すべき歴史的風致」、P112
https://www.city.kiryu.lg.jp/shisei/keikaku/1018144/1012273.html
[10] : 桐生市HP「第2章 桐生市の維持向上すべき歴史的風致」、P113
[11] : 桐生市史別巻編集委員会 編『桐生市史 別巻』、桐生市、1971年、P996~1000
[12] : 祭り関係者からの聞き取り調査
・2022/8/3、70歳男性より聞き取り調査を実施
「自分が子供の頃は5月は商工祭り、7月は七夕祭り、8月は桐生祭と、毎月のようにお祭りがあった」
「昔は各町会で櫓を組んで盆踊りを行っていた。少なくなったが今でも小さな櫓を組んでやっている町会もある」
「今の形になる前は、盆踊りといえば桐生音頭だった。東京オリンピックの開催を前にして人が大勢集まることは良いことだという風潮が生まれていた。そんな中で桐生音頭の代わりにそれまで一部の地域だけで行われていた八木節を試してみたところ、大勢の人が集まってきて大変盛況になった」
[13] : 上州八木節保存会編『上州八木節 伝説と由来』、発行者 荒井一作、1993年
[14] : 小泉文夫『日本伝統音楽の研究 2 リズム』、音楽之友社、1984年、P121~122
[15] : 京都文化博物館『京都 祇園祭 -町衆の情熱・山鉾の風流-』、思文閣出版、2020年、P168
[16] : 三好賢周『情報文化と伝統文化について -京都祇園祭を中心とした考察(1)-』、情報文化学会、1997年、P36
https://dl.ndl.go.jp/pid/10487150
[17] : 京都文化博物館『京都 祇園祭 -町衆の情熱・山鉾の風流-』、思文閣出版、2020年、P124、P142
[18] : 堀田尚宏「群馬県桐生市「桐生八木節まつり」における伝統文化の継承について」、京都芸術大学2023年度春期・芸術教養演習2レポート課題
[19] : 京都市HP『~伝統産業の未来を切り拓くために~』、京都市伝統産業活性化検討委員会、2013年
https://www.city.kyoto.lg.jp/sankan/cmsfiles/contents/0000001/1399/teigen.pdf
参考文献
・桐生市編『桐生市略史』、桐生市、1934年
・桐生祇園祭保存会編『令和元年度版 桐生祇園祭』、桐生祗園祭保存会、2019年
・板橋春夫「在郷町の天王祭礼 : 桐生新町と大間々町の事例から」、『国立歴史民俗博物館研究報告 第95集』、国立歴史民俗博物館
・巻島隆著『桐生新町の時代―近世在郷町の織物と社会―』、群馬出版センター、2016年
・細尾真孝『日本の美意識で世界に挑む』、ダイヤモンド社、2021年