
〈文楽〉の文化資産評価と、その伝統保存の公益性
はじめに
飛鳥・奈良時代に傀儡を操る芸能が散楽とともに大陸から我が国に伝わるが、日本固有の信仰とその呪術に〈形代〉を用いる習俗はすでに発生していた(資料1)という。人形を〈魂が宿るもの〉とする考え方は古代から現代に受け継がれてきた。
本レポートでは、音曲に人形操りを合わせた人形浄瑠璃〈文楽〉の歴史と、文楽協会への公的補助金削減・廃止問題を見直しながら、文楽の文化資産の価値とその伝統保存の公益性について考えてみたい。
1.文楽の歴史
浄瑠璃とは、琵琶、扇拍子、あるいは三味線による音曲の語り物である。人形浄瑠璃の語り物は義太夫節と呼ばれる。資料2を基に歴史を要約する。
浄瑠璃は1500年頃、人形操り芝居は1600年頃に、京都で成立した。
1684年、竹本義太夫(1651-1714)が大阪道頓堀に竹本座を開設、翌年、近松門左衛門(1653-1724)が義太夫のために『出世景清』を書き下ろし、語りと三味線に合わせて人形を操る人形浄瑠璃が大流行した。物語の語り手である太夫、三味線弾き、人形遣いは合わせて〈三業〉と呼ばれる。原則として人形一体は、主(おも)遣い、左遣い、足遣いの3人によって操られる。
1800年代初頭、淡路島の植村文楽軒が大阪・高津に浄瑠璃稽古所と芝居小屋を開設、1872年に文楽座を名乗った。人形浄瑠璃人気は高まり、彦六座や近松座など非文楽系芝居小屋が次々に現れて競合した。
人形浄瑠璃ブームが翳り、非文楽系芝居小屋が閉場して勢力を失うと、大阪でプロとして上演を続けるのは文楽座の三業のみとなった。以降、大阪の人形浄瑠璃は〈文楽〉と呼ばれるようになった。
往時の繁栄が戻ることなく1909年に植村家は文楽座経営を断念、新興の興行会社・松竹合名会社にそれを託した。戦後には、三業が労働組合を結成し松竹に待遇改善や生活保障を訴えたが要望は通らず、三業は組合脱退派〈因会〉と組合残留派〈三和会〉とに分裂してそれぞれ独自の興行を行って凌いだ。文楽は興行成績の伸び悩みと深刻な後継者不足問題を抱えるようになっていく。
1963年、国・NHK・大阪府・大阪市と関西財界は財団法人文楽協会を設立、松竹にかわって文楽の保護と経営を担うことになった。1984年、大阪日本橋(にっぽんばし)に国立文楽劇場が開場、文楽の本拠地となる。2003年にはユネスコ無形文化遺産に登録された。
この経緯は、文楽が紆余曲折を経ながらも優れた文化資産として国内外に認められたことや、大切に保護されるべき独特の伝統芸術であることを私たちに伝える。
2. 文楽の特徴
文楽をはじめ、上方古典芸能は大阪弁によって大阪の文化と風俗を伝えてきた。
大阪弁には大阪人らしいニュアンスがある。たとえば、「あんさん」は「あなたさま」の意味を表す大阪的口語であり、「兄(あに)さん」を意味しない。また「買った」「言った」などの促音を嫌って「買うた(こ・うた)」「言うた(い/ゆ・うた)」とする特徴がある。大阪弁で語られる義太夫節は、大阪人独特の情緒と心情を、誇張を加えて表現する。これは文楽の特徴である。
『曽根崎心中』『菅原伝授手習鑑』など悲劇では、凄まじい悲運に苦悩する登場人物たちの心情が繊細に汲み取られ、美化される。音曲と人形による表現が観客の想像力をかき立てるのは人形浄瑠璃全体の特徴である。
浄瑠璃の時代物(貴族や武家の社会が題材)と世話物(町人社会が題材)はお家騒動や町中の事件に取材したもので、その現実味のある筋書きは当時の人々に共感や感動をもたらし、また現代人の心情にも訴える。人間の心理は昔も今も変わらない。
3.〈上方古典落語〉の特徴、文楽との比較
『上方芸能』第197号(資料3)には、落語家・三代目桂米朝(1925-2015)を追悼して特集が編まれた。米朝は、上方文化と古典落語を研究し、上方落語界の復興に貢献した落語家だ。この特集に、小澤紘司という落語研究家が『桂米朝のノートより』と題して追悼文を寄せ、米朝が師匠・四世桂米團治から聞いたことを後学のために書き留めていたことを紹介している。
このノートは、上方という地域性が育んだ文化や歴史や風俗、そして何よりも〈大阪人の情〉を伝える資料となり、忘れられていた古典落語を復元する糧となった。現代人は、古典落語を通して昔ながらの人々の暮らしや風情を知ることができる。
古典落語のネタから、富裕な商家の旦那衆のみならず庶民の間で、浄瑠璃や芝居への関心が強かったことを窺うことができる。例を資料4から挙げてみよう(カッコ内は東京で知られる演目名)。
① 寝床浄るり(寝床)
② 浮かれの掛けとり(掛けとり万歳)
③ 蔵丁稚(四段目)
これらの噺は、「老若男女が浄瑠璃や芝居に馴染んでいた」、「上手に義太夫節を語りたい・上手に所作を真似したい、と憧れていた」という当時の風俗を伝える。丁稚として働く子どもがいた時代の〈あるある話〉を笑いの種にしてしまうおおらかな芸能は、陽気に「お互い様」と慰め合う仲間意識を人々の内に育てたのではないか。落語は、数多の芸能を取り入れて噺の間口と奥行きを広げながら、高座の落語家一人が観客たちを楽しませる話芸である。
一方、文楽には、「2.文楽の特徴」に加え、数段に分けて構成される演目を〈通し〉で鑑賞するには長い時間を必要とする特徴がある。その上、『仮名手本忠臣蔵』『平家女護島』など悲劇的題材が多い。とはいえ、演目に描写されるのは当時の大阪人の美学であり、それは現代人の心にも訴える。修練を積み重ねた三業による文楽は〈日本固有の美意識〉を大阪らしく表現する伝統芸能なのである。
3. 展望、将来に繋ぐ努力
2007年、大阪府が〈財政再建プログラム案〉を掲げた(註1)ことは文楽界に大きな衝撃を与えた。
資料5は、2012年に大阪市がまとめた意見調査の結果報告だ。補助金削減・廃止対象となった事業に対し、市民の関心と注目が集まっている。一方で、報道メディア(資料6)は、文楽が独自に、また演芸界と連携しながら発展への道筋を地道に辿っていることを伝え始めた。
2023年、大阪府は〈文化財保護事業〉として〈文楽協会への伝承事業補助金〉を予算計上、その事業概要を公表している(資料7)。
2024年11月17日に行われた太夫の解説(註2)では、海外においての文楽公演はいずれも連日大入り満席、言語や民族性の違いを乗り越えて大好評だと報告された。同年に行われた米ロサンゼルス公演では舞台背景にプロジェクトマッピングを採用、大道具輸送コスト削減を試みている。
近年、SNSやYouTubeなどを通して技芸員が自身の活動をリアルタイムで発信するようになり、文楽に関する情報が得易くなっている。劇場では上演中の字幕とイヤホンガイドが文楽鑑賞を助ける。さらに、文楽劇場元職員が主催する「解説付き観劇会(資料8、9)」に参加すれば、識者による演目の解説を上演直前に聞くことができる。技芸員の解説によって舞台裏を知る機会もある。
こうした取り組みは、公演来場者数増加に一役かってきた。
4. まとめ 文楽の文化資産評価とその伝統保存の公益性
かつて、廃仏毀釈や性急な西洋化という偏った政策によって数々の歴史遺産が破壊された。また、時代の変化によって衰退してしまった文化・伝統もある。賢明な現代人は、歴史的文化資産の価値を理解し、それを保護することの重要性を認識しなければならない。海外の人たちの審美眼を通して日本人がようやく自国の文化資産価値に気付いた過去の事例を、教訓として留めておきたいものだ。
研究対象として〈大阪の財政再建プログラムと文楽〉を観察すると、伝統芸能保存の公益性に関する公的な認識が官公庁から国民へ丁寧に説明されることの重要性、そして何よりも、伝統継承活動を支援することの重要性に気付かされる。現代社会は、経済の収支や時間短縮による合理性を優先し過ぎ、文化資産価値を肯定的に評価することを後回しにしていないか。歴史や伝統の価値を数字だけで測ってよいのか。
文化庁は「文化を大切にする社会の構築について~一人一人が心豊かに生きる社会を目指して(註3)」と題し、2001年に文化審議会がまとめた答申を公表している。この基本的な考え方を皆で共有し尊重していきたい。
文楽の文化資産価値はこれまで述べたとおりである。文楽は、まさに大阪らしさを構成してきたファクターの一つだ。だからこそ、その伝統保存は大阪にとって有益で大切な課題なのだと述べておきたい。
参考文献
参考資料
1.「音と映像と文字による【大系】日本 歴史と芸能 第11巻 形代・傀儡・人形」
網野善彦他編 株式会社平凡社 1991年10月1日初版第1刷発行 P.12-17
2.「日本の伝統芸能4 人形芝居と文楽」
後藤静夫著(国立劇場芸能部演出室) 株式会社小峰書店
1995年4月8日第1刷 2006年4月20日第9刷発行
特にP.30-31の年表を参考にした。
3.「上方芸能 197号『特集 桂米朝逝く-上方落語の金字塔-』」
森西真由美編 上方芸能編集部 2015年9月10日発行
P.8-11小澤紘司(落語研究家)寄稿『桂米朝のノートより』
4.「笑辞典 落語の根多」宇井無愁著 株式会社角川書店
1976年11月30日初版 1977年3月20日再版発行
① 寝床浄るり(寝床)P.431-432を筆者要約
義太夫節を聞かせたい旦那が、嫌がる店子を集めて酒肴や菓子を振舞って浄瑠璃会を催したが、旦那の下手な浄瑠璃に飽きた店子たちは寝落ちしてしまう。一人シクシク泣いている丁稚を見つけた旦那が気を良くして「お前は浄瑠璃がわかるか、どこが悲しかった」と聞くと、丁稚は「旦さんがいやはるのは私の寝床ですねん(旦那が居るせいで自分の寝場所がなくて泣いている)」と答えた。
② 浮かれの掛けとり(掛けとり万歳)P.96-97を筆者要約
江戸時代、半年なり一年の掛け売買の清算を行う盆暮または大晦日に、集金にやって来た掛け取りの好きな義太夫や芝居セリフなどを演じて支払いを待ってもらおうとする町人の様子を、落語家のもち芸を使って噺にしている。
③ 蔵丁稚(四段目)P.194-195を筆者要約
芝居好きの丁稚がお使いに出されたのをよいことに芝居見物をしてサボった。罰として夕飯抜きで蔵に押し込められてしまい、仕方なく蔵の中で忠臣蔵四段目の判官切腹の場をひとり演じて遊ぶ。丁稚が芝居セリフを諳んじ、所作も覚えているところが見どころ。
5.2012年(平成24年)6月 大阪市「市政改革意見箱へのご意見(概要)について」2024年11月28日閲覧
6.文楽に関する記事(2015年10月18日付と2016年5月2日付)を2024年11月28日に閲覧、記事利用料を避けるため、掲載を見送る。
7.2023年度(令和5年)大阪府予算編成過程公表 2024年11月28日閲覧
8.「文楽のゆかり」解説付き観劇会について
9.2024年11月国立文楽劇場本公演のチラシ、観劇会で配布された解説用レジュメ
註1 「財政再建プログラム(案)― 大阪府」
https://www.pref.osaka.lg.jp>zaipro 2024年12月14日閲覧
「『大阪府財政再建プログラム試案』の府削減額(本市関連)について」大阪市https://www.city.osaka.lg.jp>page 2024年12月14日閲覧
註2 2024年11月17日、国立文楽劇場での本公演観劇会(文楽のゆかり)豊竹藤太夫氏による解説
註3 文化庁サイト「文化を大切にする社会の構築について ~一人一人が心豊かに生きる社会を目指して」
2001年文部科学大臣の諮問を受けて文化審議会がまとめた。www.bunka.go.jp 2024年12月14日閲覧
以下、抜粋して引用
[はじめに]から
「今後の社会における文化の機能・役割について検討し、それを踏まえながら、文化を大切にする社会への転換を図るための方策について」「社会の急激な変化が進む中で、人々が心豊かに生きる社会を築いていくためには、一人一人が文化について考え、文化を大切にする心を持つことが重要です。」
[第一章 序文]から
「一人一人が文化を大切にする心を持つとともに、国や地方公共団体などの行政機関においては、文化を機軸にして施策が展開される必要があり、また、企業も社会の一員として、文化の価値を追求して行動することが求められます。」
[第一章 2.社会と文化 ~ 共に生きる社会をつくるために]から
「昔から親しまれている祭りや行事、歴史的な建物、地域に根ざした文化活動などは、それ自体が独自の価値を持つだけでなく、郷土への誇りや愛着を深め」「そうした文化が国民共通のよりどころとなります。」
[第一章 3.経済と文化 ~ より質の高い経済活動の実現のために]から
「経済活動と文化は不可分の関係にある」「一見すると経済の発展とは関係のないと思われる基礎的な学問研究や、当面は少数者にしか支えられないであろう先駆的な文化活動、文化遺産の保護など、重要な部分があり」「効率性や合理性だけでは測ることのできない文化の厚みが、長期的に見て、国力を支えるのであり、これらに対して国や地方公共団体は積極的に支援していかなければなりません。」
[第一章 5.グローバル化と文化 ~ 世界平和のために]から
「古来、人類は多様な文化を創造し、それらの異なる文化は交流することにより進歩してきました。文化の交流は、それぞれの文化に深さや広さをもたらすものであり、その結果、総体としての人類の文化が発展してきたと言えます。」「文化の交流に当たっては、まず、自らの歴史と伝統を理解し、自己のアイデンティティーを確立しなければなりません。他の文化を理解するためには、自己の文化を知らなければなりませんし、自分という軸がしっかりしていなければ、他の文化を無秩序に受け入れることにもなりかねません。」「我が国の文化を支えてきた母語としての日本語を大切にし、継承・発展させていくことは極めて重要です。」
[第二章 文化を大切にする社会を構築するために]から
「●社会全体で文化振興に取り組む
○個人、企業、地方公共団体、国のそれぞれが文化の担い手として、その役割を果たし、社会全体で文化振興に取り組む。
○文化予算を充実するとともに、寄附促進のため、税制措置の充実を図る。
○国、地方公共団体、企業、芸術家・芸術団体、文化施設、教育機関、研究者、マスメディア等のネットワークを形成し、文化に関する情報の交流等を行う。
●文化を大切にする心を育てる
〇我が国の歴史、伝統や世界の多様な文化を尊重する教育の充実を図る。
●文化遺産を保存し、積極的に活用する
○総合的な視野に立った文化遺産の保存・活用方策を検討する。
○人々の主体的な参加による文化遺産の保存・活用の取組を推進する。
その他の参考文献
河竹登志夫著『日本の古典芸能-名人に聞く究極の芸』かまくら春秋社 2007年9月20日発行
倉田喜弘著『文楽の歴史』株式会社岩波書店 2013年6月14日第1刷発行
形の文化会編『にほんの かたちを よむ事典』工作会 2011年12月20日発行
(形の文化会連絡先:大阪府立大学総合教育研究機構 山口義久研究室 形の文化会事務局)
本レポート執筆にあたり
京都市芸術大学名誉教授 元文楽公演企画制作担当 後藤静夫先生(2024年12月1日初インタビュー、同年12月30日2回目)が文楽の歴史について詳しく説明してくださった。
国立文楽劇場 元職員・西川ゆかり氏(〈文楽のゆかり〉主催者)は、忍耐強く筆者の質問に応じ、参考となる情報を与え続けてくれた。
2023年春には、技芸員・吉田玉佳さん(人形遣い)も気さくに質問に応じてくださった。
皆さんに心からの謝意を伝えたい。