広島お好み焼き店にある「待たせる空間」の系譜

干鰯谷 拓也

はじめに

水で溶いた小麦粉を鉄板に薄く広げてクレープ状の生地をつくる。その上に大量のキャベツとともに、もやし、天かす、豚バラ肉といった具材を重ねて全体を裏返す。生地により形成されたドームのなかで具材が十分に蒸らされた頃を見はからい、隣で炒めておいた麺の上に重ねる。さらに丸く広げて黄身を崩した半熟玉子の上に重ねる。再び全体を裏返してソースなどで仕上げれば広島お好み焼き(註1)の完成だ。
具材を混ぜてから焼くお好み焼きと比べて、鉄板の上で具材を重ねて焼く広島お好み焼きは調理に手間と時間が掛かる(註2)。店舗の調理人は大型の鉄板を挟んで対峙する客を待たせる。おびただしい情報量に囲まれ、時短やタイパといった概念がもてはやされる現代に、このように客を「待たせる空間」が成立することは稀有といえよう。

1、基本データ

多くの観光PRサイトが広島お好み焼きを”広島名物”として取り上げる(註3)。また農林水産省「うちの郷土料理 -次世代に伝えたい大切な味-」の広島県の欄には、秋の収穫を祝う”うずみ”や特産物のかき飯などとともに広島お好み焼きがリストアップされる(註4)。しかしその解説には「時期や機会を問わず食され(中略)飲んだあとの締めの食事としても愛される」とあり異彩を放つ。その佇まいは極めてカジュアルだ。
広島お好み焼きのルーツは、江戸時代末から明治時代にかけて江戸=東京で流行した文字焼きにある。明治末期には文字焼きにキャベツ・干しエビ・牛肉などを加えた料理として全国に伝播し、一銭洋食、どんどん焼き、洋食焼きなどの名称で親しまれた。戦前の広島では一銭洋食が流行している(註5)。
昭和20年の原爆投下により広島市が焦土と化した直後から市内の数カ所に闇市が開かれ、大陸からの引揚げ者、疎開から戻る人、復員者たちであふれかえった。昭和24年には復興を目的とする広島平和記念都市建設法が発令され、直後に朝鮮戦争による特需が加わると、おびただしい数の労働者が広島に集まった。そして昭和25年ごろ、一銭洋食のボリュームを増やしたものが次第に”お好み焼き”と呼ばれるようになり、見よう見まねで商売を始める者や、独自に改良を加える者が続き、市内の新天地広場にはたくさんのお好み焼き屋台が軒を連ねた。やがて屋台群は一掃されるが、多くは近隣へ移転して営業を続けた。複数のお好み焼き店舗がビルに集積する[お好み村](註6)もそのひとつだ。観光名所として人気があり、現在も「待たせる空間」が継続している。

2、生きる拠りどころ

戦後復興により経済は動きはじめたが地方都市である広島の生活は貧しく、屋台から店舗へ移動しても小規模な広島お好み焼き店が乱立する状況に変化はなかった。混ぜて焼くお好み焼きがすでに好評であった大阪では、お好み焼き店が企業化(註7)して東京進出を果たし、全国的な知名度を高めたことと対照的だ。この混ぜて焼く調理は比較的簡単なので、調理を客に任せる場合があるが、広島お好み焼きは重ね焼きに技術が必要となるため、調理人が調理することが一般的だ。経営学の細井(註8)は、広島お好み焼き店の運営合理性が低いことを指摘しながら、この業態の分析には、店主の思いなどを重層的に捉えなければならないとかたる。
店主の思いがあらわれるエピソードとして[ひらの]の平野満代を挙げよう(註9)。平野は美味しいものを安価で提供すれば成功すると信念を持ち、メニューの改良を続けている。工夫を凝らしたメニューを考える時間が楽しいとかたり、遊びごころも感じられる。やがて平野の小さな店舗は大繁盛店となった。
いっぽうで商売に広島お好み焼き店を選んだ理由を調査したが「流行っているから」(註10)や「これしか思いつかなかった」(註11)などまことに素っ気ない返答が多かった。前出の平野でさえ「鉄板さえあれば開業できると考えた」(註12)とかたる。本当にそのような動機だけで、運営合理性に欠ける広島お好み焼き店をはじめられるだろうか。
ここで「おふくろの味」を考察した湯澤の論(註13)を用いよう。戦後復興期から高度経済成長期の急激に変化する社会を生きた人は、愛着のある場所を作り出し、生きる拠りどころを求めたという指摘だ。広島お好み焼き店でも、単なる商売を越えた居場所をつくるために工夫を施していったのではないか。いっぽうで重ね焼きという基本ルールを崩さなかったのはなぜか。広島で重ね焼きが継承されたことをさらに考察しながら、冒頭に挙げた「待たせる空間」の積極的な評価を進める。

3、重ね焼きの余白

調理科学の研究により、重ね焼きが広島お好み焼きの内部をテクスチャーや搾汁中糖量の異なるキャベツが混在する状態にすることが分かっている(註14)。さらにキャベツの嗜好特性や栄養特性を活かすには、混ぜ焼きよりも重ね焼きに優位性があるとの報告もある(註15)。キャベツが味のグラデーションを形成して他の具材と調和することは、重ね焼きによって得られた利点だろう。
他層構造がポイントとなる料理にインドを中心に人気のビリヤニがある。ビリヤニの調理人は、具材を重ねることで醸し出される味のグラデーションにこだわり、チャーハンのように混ぜて炒めてしまうことを忌み嫌う(註16)。
広島お好み焼きの調理人がこのようなこだわりを強く打ち出している例は見当たらない。しかし混ぜ焼きではなく重ね焼きを選んだことには何か強い意志があろう。その解明に湯澤が唱える「食の没場所性への抵抗」(註17)を当てはめてみよう。高度成長期には都会と地方という対比構造の深まり、料理が場所性を失うことへの抵抗が各地で生じた。混ぜ焼きではなく広島だけが重ね焼きを選んだ一因に、この食の没場所性への抵抗があったのではないか。
また科学的なアプローチでビリヤニを探求するKrish Ashok(註18)によれば、ビリヤニには無数のバリエーションがあるという。製法のアルゴリズムさえ身につければ空欄を埋めるように自分のビリヤニを作るべきだとするAshokの言葉は示唆的だ。 広島お好み焼きも、重ね焼きが規定されている以外は具材を自由に選ぶことができる。換言すれば重ね焼きだからこその余白が存在するのだ。余白が利他を生み出すという北村の論(註19)に沿えば、広島お好み焼き店は「利他的な回路」を備えている可能性がある。料理人が楽しみながら余白にデザインを加えていくと、他者である客との関係性が築かれる。そして「待たせる空間」の価値が高められていく。

4、今後の展望

大江健三郎『ヒロシマノート』(註20)には、原爆投下による限界状況において鈍い眼の持ち主だけが絶望せずに、人間的な蛮勇を可能ならしめるとある。鈍い眼なら、限界状況でも日常生活の一側面として受け付けて闘うことができるが、明晰すぎる眼をもつ者ならおそらく絶望してしまうだけだ。
この鈍い眼と前述の利他的な回路は、いずれも管理化・効率化に抗う側面があり類似している。すると戦後から現代へ連続する広島お好み焼き店に関わった人びとにも、この鈍い眼があったのではないか。あるいは鈍い眼に類する「何か」が意識下で作動し、重ね焼きが選択され、広島お好み焼きがデザインされていったことも考えられよう。
そうであるならば広島お好み焼き店は存続の危機を迎えている。インターネットやソーシャルメディアの普及には、同じ価値観の仲間で固まり、異なる意見を排除しようとするリスクがある(註21)。つまり明晰すぎる眼があらわれたのだ。広島お好み焼きの今後の課題として、店舗の後継者不在や若者たちの食の嗜好の変化が挙げられる(註22)が、明晰すぎる眼は、より大きな障壁となるだろう。

5、まとめ

2011年の東日本大震災で被災し仮設住宅で暮らしていた女性たちが、ありあわせの材料で好きなだけ天ぷらを揚げるパーティーを開いたエピソードがある(註23)。テーブルには天ぷらの山ができあがり、参加者は一様に鬱憤を晴らしたような表情になり、作りたい食事を作ることの大切さを知ったという。昭和25〜35年頃の広島お好み焼き店における「待たせる空間」も、ようやくここまで復興したのだという気持ちを、客のみならず調理人たちに与えたことだろう。
本稿では広島お好み焼き店での「待たせる空間」を評価対照とし、主に店舗や調理人の側で論を進めた。待たせることには客の期待感を煽る効果がある(註24)。このように客視点からの補助線を巡らせれば、さらに本研究を深めることができよう。

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  • E58D92E7A094E6B7BBE4BB98ver3_page-0006 広島お好み焼き店にある「待たせる空間」の系譜 添付書類 筆者作成

参考文献

【註・引用】

註1) 広島で食されるお好み焼きには”広島風お好み焼き”、”広島お好み焼き”、”広島焼き”など複数の呼称がある。本稿では「広島お好み焼き」で統一する。
註2) オタフクソースHP「お好み焼き・焼そば・たこ焼きなどのおいしい焼き方」https://www.otafuku.co.jp/recipe/cook/ (2025/1/27閲覧)
調理時間について、関西お好み焼きが30分に対して、広島お好み焼きは40分と紹介される。店舗でもいくつか計測を試みたが、混雑具合などの要因で値の変動が大きく、基準値は得られなかった。
註3) 添付書類「データ3)観光PRサイトで取り上げられる広島お好み焼き」を参照。
註4) 農林水産省HP「うちの郷土料理 -次世代に伝えたい大切な味」〈広島県 お好み焼き(おこのみやき)〉 https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/k_ryouri/search_menu/menu/42_7_hiroshima.html (2025/1/27閲覧)
註5) 田中小実昌『ふらふら日記』中央公論新社 1987/4/28発行 P122
田中小実昌(1925-2000)は、戦前の広島で一銭洋食をよく食べていたと振り返る。
註6) お好み村(広島県広島市中区新天地5−13)は広島の繁華街にあり、2Fから4Fまでの3フロアにびっしりと店舗がならぶ姿が屋台の面影をのこす。
註7) 「ぼてぢゅうグループ」(BOTEJYU Groupホールディングス株式会社)や「お好み焼きゆかり」(株式会社ゆかり)が戦後に大阪からスタートし、全国展開を果たした。
註8) 細井謙一・金丸輝廉・竹村正明「アフターコロナ禍におけるお好み焼き店の業績回復戦略の課題」 広島経済大学経済研究論集第45巻第1号 2022年7月
註9) 平野満代『鉄板力 お好み焼き ひらの 超繁盛のヒミツ』株式会社本分社 2014/2/28 初版第一刷 Kindle 位置Nol. 266/1266
註10) 中国新聞デジタルHP 「お好み焼き、屋台発のソウルフード【広島サミット 復興あのとき】②<動画>」2023/4/1(最終更新: 2023/4/1)
註11) 屋台時代のことを知る高齢者から1番多く聞かれた言葉が「これしか思いつかなかった」であった。幼少時の記憶で不鮮明であろうが、そのころの屋台経営の心情が投影されている可能性がある。
註12) 平野満代『鉄板力 お好み焼き ひらの 超繁盛のヒミツ』株式会社本分社 2014/2/28 初版第一刷 Kindle 位置Nol. 779/1266
註13) 湯澤規子『「おふくろの味」 幻想 誰が郷愁の味をつくったのか』光文社新書 2023年1月30日初版1刷発行 P250
註14) 石橋ちなみ・檀上沙梨・長谷川桃子・吉田充史・杉山寿美「広島地方のお好み焼きにおける加熱調理がキャベツの嗜好特性に及ぼす影響」日本調理科学会誌Vol. 53,No.2,(2020) P97
註15) 馬渕良太・吉田充史・三宝雅子・杉山寿美「広島風お好み焼きの調理過程におけるキャベツの可溶成分およびビタミンC量の変動」県立広島大学人間文化学部紀要10 1-7 (2015) P6
註16) ビリヤニを提供するレストラン数軒で尋ねたが、具材が多層構造でなければビリヤニではないと異口同音で、具材をグラデーション状にする手間を惜しまない。
註17) 湯澤規子『「おふくろの味」 幻想 誰が郷愁の味をつくったのか』光文社新書 2023年1月30日初版1刷発行 P101
註18) Krish Ashok 『MASALA LAB -The SCIENCE OF INDIAN COOKING』PENGUIN BOOKS (Digital Edition published in 2020) P17
註19) 北村匡平『遊びと利他』集英社 2024/11/30発行 P23
註20) 大江健三郎『ヒロシマノート』岩波書店 2023/4/14 第98刷発行 P128
註21) スティーブン・スローマン、フィリップ・ファーンバック、土方奈美 翻訳『知ってるつもり -無知の科学-』早川書房 2021/9/15発行 P324
註22) シャオヘイ『-お好み焼きラバーのための新教科書- 熱狂のお好み焼き』株式会社ザメディアビジョン 2019/6/10発行 P358 - P359
註23) 味の素グループ 東北支援 ふれあいの赤いエプロンプロジェクト編 小学館eBooks『復興ごはん』小学館 2016/7/1 電子書籍版発行 P13 - P15
註24) 『消費者行動研究』Vol.24 No.2 (2018.3)「購買に伴う待ち時間が消費者行動に与える影響」磯田友里子 p73

【参考文献】
シャオヘイ『-お好み焼きラバーのための新教科書- 熱狂のお好み焼き』株式会社ザメディアビジョン 2019/6/10発行
近代食文化研究会 編・発行『お好み焼きの戦前史 第二版』2021/5/25改訂 Vol.2.02

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