天満切子から考える「技と心」の伝承 < つくる、つかう、つなぐ >
1 はじめに
切子とはガラスを切るという意味で「立方体の角を取る」から転じたと言われている。(註1)その中で、天満切子は大阪市北区にある切子工房RAUのオリジナルブランドのカットガラスである。
大阪の天満はガラスと縁が深い地域であり、その歴史は古い。大阪の切子の歴史はガラス産業の栄枯盛衰と深く関わっている。大阪の天満で栄えたガラス文化を後世に残したいという思いから命名された天満切子。いま、その製造を一手に手がけているのが天満切子株式会社である。
一般名称として認知されている江戸切子、薩摩切子とはまた違う形で伝承されている天満切子のこれからを考察する。
2 基本データ
天満切子株式会社
場 所:大阪市北区同心1丁目11-8 宇良ビル1F・2F
創 業:昭和8年(1933)
法人設立:平成31年(2019)
代表者:代表取締役 宇良孝次
事業所:本社・工房 切子工房RAU
〒530-0035 大阪市北区同心1丁目11-8 宇良ビル1F
直営販売店:天満切子Gallery
〒530-0043 大阪市北区天満2丁目2-19 サンナカノビル1F
直営販売店(BAR) TEMMA KIRIKO UX
〒530-0047 大阪市北区西天満4丁目7 新老松ビル1F
3 天満切子の特徴
天満切子は色被せガラスにU字カット(蒲鉾掘り)を施し、工程(生地検品→割出し→粗摺り→中摺り→最終摺り→磨き・パフ掛け)をすべて手作業で行っている。手磨きと呼ばれるつや出しをすることで、柔らかな表情が生み出される。ガラスをU字に彫ることでガラスの面が凹レンズの形状になり、透明の液体を入れると底から少しずつ模様が浮き上がってきて万華鏡のような輝きが現れる。(資料写真1)
工房を訪れると若手の職人たちが作業を行っていた(資料写真2)。工程を手作業で行うがゆえに量産は不可能で、高級切子として存在感を保ち続けている。(資料写真3)
令和元年(2019)のG20大阪サミットの際には、「ロックグラス24%王冠」が国賓贈答品として各国首脳へ贈られたこともある。
4 歴史的背景
天満切子は、大阪ガラス発祥の地である天満のガラス産業の歴史と深い関わりがある。
大阪天満宮の西門には「大阪ガラス發祥之地」の碑がある。(資料写真4)これは、宝暦元年(1751)に長崎のガラス商人、播磨屋清兵衛(姓は久米)が、オランダ人より伝わったガラス製法を大阪に持ち込み、大阪天満宮近くでガラスの製造を始めたことからと言われている。大阪の天満にはいくつものガラス工場が立ち並ぶ時代があった。いまの天満切子の創始者が修行をした企業なども含めて紹介しながら、歴史的背景を探る。
明治8年(1875)に日本硝子会社が大阪市北区与力町で設立され、この会社は大阪で最初の洋式硝子工場だった。
明治12年(1879)創業の竹中硝子はカットガラスを商品とした老舗で、竹中清政の弟子となった宇良宗三郎(現社長の宇良孝次の祖父)はここで修行し、昭和8年(1933)に北区天神橋四丁目(大阪市を省略)で「宇良硝子加工所」を創業した。昭和25年(1950)には北区与力町(現在の地名は同心)に工場を移転。昭和35年(1960)に宇良兄弟(兄:栄一氏、弟・武一氏)に事業が引き継がれる。
戦時中はカットガラスどころではなかったが、戦後は経済の発展とともに昭和40年(1965)ごろになると大阪の切子業者は盛況となり、天満界隈に工場は40軒以上あった。
明治36年(1903)に北区与力町で創業のカメイガラスはテーブルグラスの分野で代表される企業で、国内外のガラスメーカーと提携し、工芸美あふれる製品を生産した。大阪の切子業者の多くは、カメイガラスの協力工場だった。その中には、宇良硝子製造所もあった。
あるときカメイガラスから「薩摩切子を復刻させたい」という話が宇良硝子製造所に持ち込まれたと雑誌「大阪人」(註2)に書かれている。薩摩切子は島津家二十七代藩主、島津斉興によって弘化3年(1846)に始まり発展した切子であるが、斉彬の逝去後、薩摩切子は衰退していた。それを復刻させたいというカメイガラスの亀井節治社長のもと、昭和55年(1980)、薩摩切子復刻プロジェクトが立ち上がり、宇良武一の技によって復刻することになる。(宇良孝次社長いわく、現在の薩摩切子とは別のものとのこと)
しかし平成10年(1998)、カメイガラスが倒産し、協力工場は次々につぶれていき残ったのは宇良の工場だけになった。そのとき、この切子の技が消えてほしくない、残してほしいという地元民からの強い思いもあり、屋号を「切子工房RAU」と改め、宇良武一がオリジナルブランドRAU-COLLECTIONを始め、2年後、「天満切子」として製造・販売を開始したという経緯がある。
平成27年(2015)には、武一の息子、宇良孝次に引き継がれている。
時代に翻弄されながらも、つながった大阪の切子の技と心。ここには地元民による熱い思いがあった。
5 他の国内の切子との比較
日本では他に大きく二つの切子がある。江戸切子と薩摩切子である。この二つの特徴を上げつつ、天満切子と比較する。
江戸切子とは江戸時代末期から現在まで、江戸(東京都)で製造されている切子加工をされたガラス製品の総称である。江戸切子は江戸大伝馬町のビードロ屋加賀屋久兵衛ら町民によって起業した。天保年間(1831年〜1845年)より今日まで技の伝承が続いている。 江戸切子は、最初は無色透明だったが、その後、藍や紅色の厚さの薄い色ガラスを透明なガラスに被せ、切子を施すようになる。デザインは庶民に親しみのあるモチーフが使われていることが多い。
一方、薩摩切子は、薩摩藩主 島津斉興・斉彬二代によって起業した。 弘化3年(1846年)に製造が始まり西南戦争(1877年)前後まで、約20年の間製造が続いた。しかし斉彬の逝去後一時途絶え、昭和60年(1985)に復興した。薩摩切子の特徴は厚めの色ガラスを透明なガラスに被せ、色ガラス部分を深くV字に斜めに切り込むことで生じる色のグラデーションに味わいがある。また、菱切子などによる直線的なデザインが多い。
町民文化から生まれた江戸切子、藩直轄で生まれた薩摩切子。では大阪の天満切子は何から生まれたのだろう。それはガラス産業という産業文化から派生発展したと考えられないだろうか。そこには、産業との密接な関わりがある大阪商人としての心根がそこにはある。
6 評価する点
江戸ガラスの祖と言われる、江戸加賀屋の手代、文治郎(後に久兵衛)は大阪の和泉屋嘉兵衛のもとで修行し江戸に持ち帰ったとされている。そして途絶えていた薩摩切子を復刻させたのも大阪の職人だった。
このように、日本の代表的な切子の技の原点は大阪にある点と、その伝承が規模は大きくなくても着実につながっている点は評価すべきことである。そして、江戸切子、薩摩切子とは差別化したU字カットによる美の追求がある。
手作業ゆえに大量生産はできない。したがってお祝い用や特別な空間での使用が用途になっている。たとえば帝国ホテル大阪のオールドインペリアルバーでは天満切子が使われ、そこでしか味わえない高級切子としての存在感を醸し出している。
7 まとめ、今後の展望
宇良孝次社長は語る。「これからの課題は広めることにある」と。つかってもらうことによってその良さはわかる。令和5年(2023)には、天満切子の直営ショップ兼BAR「TENMA KIRIKO UX」が大阪市北区西天満にオープンした(資料写真5、6)。実際につかって知ってもらう場面を増やしていきたいと語る。
つくる技、器としてつかう場、つかうことで生まれる愛着、それが切れずに続いて行くことが未来につながる。
大阪の切子はガラス産業との関わりの意識は強かったが、文化としての工芸作品への伝承意識が少なかったのではないだろうか。大阪人の文化度がいま試される。つかう場面、目にする場面が増えると時代とともにデザインも変化していくだろう。これからどんな天満切子が生まれてくるのかが楽しみだ
参考文献
註(1) 土田ルリ子著「切子KIRIKO」株式会社カドカワ、平成27年9月、P12
註(2) 「大阪人 59」大阪都市協会、2005年9月、P35
参考資料
土田ルリ子著「切子KIRIKO」株式会社カドカワ、平成27年9月
山口勝旦著「江戸切子 その流れを支えた人と技」里文出版、1993年6月
「大阪人 59」大阪都市協会、2005年9月
参考URL
天満切子:https://temmakiriko.com
天満切子工房:https://temmakiriko.com/workshop/
TENMA KIRIKO UX:https://temmakiriko-ux.com
G20で各国首脳に贈答された美しいグラスが作られるプロセス:
https://www.youtube.com/watch?v=oQ8vO6KblMA
江戸切子協同組合:https://www.edokiriko.or.jp/about.html
島津薩摩切子:https://satsumakiriko.co.jp/pages/about