石碑が語る飢饉への二人の対応とそこから分かる継承される歴史の魅力
1【はじめに】
江戸時代の南部藩管内では冷害による凶作のために飢饉が多発した。この時代を生きた二人はどのように対応したのかを調査を行う。一人は僧侶の鞭牛(1710-82)であり、あと一人は百姓の三浦命助(1820-64)である。この二人の功績は、地域住民や多くの学者が注目して歴史的にも民俗学的にも重要な出来事として捉えられている。この石碑から飢饉への対応を探り、そこからわかる当時の歴史や伝説を掘り下げながら、現代に伝承される魅力を考察する。
2【基本データ】
①鞭牛は、宝永7年(1710)、和井内村(現岩手県宮古市和井内)の農家に生まれ、若い頃は鉱山で牛方をしていたといわれるが幼名などの記録はない。22歳で出家し、73歳で座禅往生するまで、約30年間つるはしを握りしめ南部藩内の道路を開削したと伝えられている。(1-1)
おもに閉伊地方の道路開削や難所改修工事を行い、そこには「道供養橋野村林宗六世」などと刻まれた供養碑(写1)が残されている。そして、村人たちと一緒に玄翁を持って大岩石を砕いたことから、「玄翁和尚」と呼ばれた。また、それとは別に「ー字一石供養塔」「血書供養塔」「名号碑」「開山碑」(1-2)などの碑は、僧侶としての一面が残されている。道普請は民を救う宗教活動の一部でもあった。(1-3)
②命助は、嘉永6年(1853)の南部藩で起きた「三閉伊一揆」の指導者のうちの一人である。命助は文政3年(1820)上閉伊郡栗林村の肝煎格の家に生まれ生活は楽ではなく、天保飢饉には秋田藩の院内鉱山に17歳で出稼ぎに行った。父や本家当主の死によって両方の家族を養うために、農作業の傍らに海産物を農村に、農産物を漁村に売り歩く荷駄商いを始めた。(2-1)
南部藩は飢饉による百姓一揆が多発したが、嘉永6年(1853)の三閉伊一揆は仙台藩を巻き込んだために、百姓側の多くの要求が認められて勝利をした。その後、命助は村役人になるが、紛争や代官所の圧力により脱藩をする。その後公卿二条家の臣となり南部藩に戻ったところを捕らえられる。文久4年(1864)に牢死するまでの6年8か月間に4冊の帳面を家族に送り届けた。この帳面から一揆での命助の役割や命助の考え方がわかるのである。(2-2)
3【歴史的背景】
① 南部藩は冷害による凶作で飢饉が多く、元禄8年(1695)・宝暦5年(1755)・天明3年(1783)・天保3-9年(1832-8)は、特にひどく四大飢饉と言われた。
鞭牛が直面した宝暦の飢饉の原因は、盛岡藩が幕府の事業費用捻出のために藩庫の米を売ったところに、凶作が重なったからだ。翌年には、死者は南部盛岡藩全体で約5万人にも上った。
飢饉を予想して、5月に鞭牛は林宗寺住職を退き隠居した。民衆救済活動のためには、寺の本末制度や檀家制度が障害となり、寺を出る必要が生じた。(1-4)
② 命助の生きた45年間の文政3年-元治元年(1820-64)は、南部藩政史上最悪であった。藩主利済の悪政のために利済派と反利済派の派閥を生じ、悪政を諫言した長男の甲斐守利義の暗殺未遂事件を起こし、藩内は二派に分れて対立した。
その上に、更なる重税は大飢饉と直結して、天保7-8年(1836-7)の大一揆を激発させた。弘化4年(1847)には、藩札により金融恐慌を生じ、三閉伊通百姓一揆が勃発した。度重なる騒乱のために、幕府から嘉永元年(1848)3月に利済は隠居を命ぜられたが、隠居後も長男利義に政権を渡さず、弟利剛に継承させたために派閥が紛糾した。このために利義派は多く罷免され、その浪士が嘉永6年(1853)の三閉伊通一揆を裏で画策したといわれる。(3-1)
4【特筆すべき点】
鞭牛は、宝暦8年(1758)3月から閉伊街道の難所(写1)の改良工事を始めた。当時はこれを普請と言って、街道沿いの7ヶ村(1-5)の難所10ヶ所に各村から3608人参加する大工事だった。この普請を『戸川通往還難所工事諸留』(7)として記録が残っている。
普請に未経験の百姓は、鞭牛に指導を頼み、近隣の村からも人が出て普請が行われ、完成すると「道供養橋野村林宗六世」の碑が建立された。『難所エ事諸留』の巻末には、御上の工事では壱万人でもできなかった、と記され、鞭牛の突出した指導力を現している。(1-6)
鞭牛の道路改良の目的は、沿岸から盛岡城下までの流通経路の確保である。現在の大槌町や山田町の海岸から豊間根の荒川を通り山側を目指して、南川目や北川目(写2)を経由して腹帯(写3)で宮古街道(閉伊川通)に接続することである。盛岡城下を目指して整備した理由は、沿岸の海産物などを牛馬で盛岡城下に運ぶ目的があったと思われる。(1-7)
一方、命助の帳面には、これからの農業は「八百屋作り」(2-3)つまり野菜栽培をして販売を広げることで、僅かな畑でも大家族を養える。そのためには栄養を充分に取り、長時間労働をして商品作物を数多く作り釜石、大槌、両石地方に販売すべきだと、書き残している。命助は、村を超える流通経営を展望していた。(3-2)
だが、命助は自分の人生観を帳面に書き残しただけで、獄中にいる身としては何も実践できず、三浦家だけの文書になった。しかし、昭和になり郷土の歴史家によってこの存在が分かり、多くの学者の研究により命助の功績が評価された。そして、命助の功績を顕彰して地域住民が石碑を建立したのである。
鞭牛の道普請は宗教活動の一部でもあり、一人で開削工事を始めた。次第に鞭牛が評価され、道普請の指導を依頼されて監督や指導を行った。多くの百姓と共に道普請をして、道供養碑の建立を行った。石碑や鞭牛伝説は、現代まで長く伝承され続けている。石碑は歴史の遺物であり、そして大勢の参加者たちの記録でもある。鞭牛伝説が各地の石碑とともに密着したから、今まで語り伝えられたのではないだろうか。
5【まとめと展望】
大佛次郎『天皇の世紀』(4)のなかで、南部地方は凶作が多く農作には不適だったために、農民には飢饉が襲った。飢饉の場合は藩と藩の協力関係はなく、たとえあっても交通輸送の困難は協力関係を絶望的にした。昔の飢饉は金銭で解決できない、仕方がないことだった、と述べてこの地方の貧弱な交通網を指摘している。
鞭牛は街道の難所改良工事に一生を捧げ、多くの場所に「道供養碑」を残している。そして、命助は商品作物を作り、交通輸送を利用して流通商売で生活できると考え、鞭牛の目的に近づいた。鞭牛亡き後の38年後に命助が誕生し、命助の生誕地と鞭牛の隠居屋敷は直線距離で4Km程の近距離である。鞭牛と命助の関係を裏付ける資料などは見つかっていないが、交通輸送の重要性という視点は同じである。
この石碑からみる歴史は、鞭牛は道を開削した人であり、命助は一揆の指導者であり、この二人の立場は全く異なる。命助は、百姓でありながら百姓でもなく異端児的な光彩を放つところに魅力を感じるし、鞭牛は僧侶でありながら土木の慈善事業者でもあることに感銘を受ける、二人の二面性に重い歴史が渦巻いている魅力を感じるのである。
江戸時代に限らず交通網は命を繋ぐものであるが、平穏時はその認識が薄れてしまうが、2011年の東日本大震災では、物資不足の発生で交通輸送の重要性が再認識させられたのである。
先人の教訓を伝えるために、宮古市では牧庵鞭牛展示ホール(6)を設置している。その上に、石碑見学会(鞭牛和尚の足跡をたどる③)を2023年5月27日に開催して、鞭牛の功績を紹介している。一方、命助の石碑は、昭和38年(1963)と平成5年11月に栗林町民によって建立されて並んでいる(写4)。そして、歴史学習も開催され、講師は血縁者の三浦克俊さん(栗林町在住)が命助の生涯について地域の人々に紹介した。(8)
鞭牛の功績は石碑や寺の文書に残され、住民に語り継がれてきたのである。命助は帳面に書き残したが親族内の保管に終わり、大勢の人々と共に実行した訳でもないので、長い間他人の目に触れなかった。そのために、命助の存在が埋もれたままになり地域住民にはわからなかったのである。偶然に発見された三浦家の文書と人々の目に常に晒されている鞭牛の石碑を比べた時、長く語り伝えるためには、地域の人々との密接な関係が重要になってくるのではないだろうか。幸いにも命助の石碑も建立されて、石碑の存在は、歴史の魅力を身近に感じて伝承するという意味では、地域の歴史的文化資産として評価されるのではないのか。
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(写1-1)宮古市蟇目にある難所「熊の穴」道供養碑案内板 2023年10月12日筆者撮影
(非公開) - (写1-2)宮古市蟇目にある難所「熊の穴」道供養碑で、崖に立っている 2023年10月12日 筆者撮影
- (写1-3)川井老木 難所老木の道供養碑 2023年10月12日 筆者撮影
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(写2-1)川南目・北川目の石碑群の説明看板 2023年10月19日 筆者撮影
(非公開) -
(写2-2)川南目・北川目地区の石碑群の位置図 2023年10月19日 筆者撮影
(非公開) -
(写3)腹帯大渕の供養碑 宝暦8年3月23日から5日間、延べ252人で開削された。
(左)記念碑、(右)復刻碑 2023年10月12日 筆者撮影 ) -
(写4-1) 命助説明看板、 2023年11月18
(非公開) - (写4-2)命助-2、昭和38年建立と 平成5年11月建立 2023年11月18日 筆者撮影 )
参考文献
参考文献
(1)宮古市教育委員会『資料集 玄翁の聖 鞭牛』文化印刷 平成22年
(1-1)8P、(1-2)9P、(1-3)3P、(1-4)9P、(1-6)13P、(1-7)17P
(1-5)蟇目・茂市・腹帯・古田・川井・鈴久名・川内の七ヶ村。13P 現在の宮古市である。こ の7地区は、国道106号線沿線、JR山田線沿線、そして閉伊川沿いの地域である。宮古街道沿い の旧村々である。
(2)深谷克己『南部百姓命助の生涯 幕末一揆と民衆世界』岩波書店 2016年
(2-1)ⅳP (2-2)ⅶ-ⅷP (2-3)299P「八百屋作り」とは、 野菜栽培のすすめである。
註 三閉伊とは、現在の陸中海岸沿で三閉伊通といわれ、北から九戸郡、下閉伊郡、上閉伊郡 の三郡に別れ、行政上は北から野田通、宮古通、大槌通の三つに分けられる。1P
(3)校注者 庄司吉之助他『民衆運動の思想 日本思想大系58』岩波書店 1970年
(3-1)437P、(3-2)446P、
(4)大佛次郎 『天皇の世紀 (1)黒船渡来』朝日新聞 角田秀雄 昭和52年
263P 13行
大佛次郎は、「その上に南部地方には、よそよりも農作業にむごい天候の激変が多かった。 その場合、農民を訪れて来るのは飢饉である。封建制度は、領主に依って国が分かれている。 藩毎に別の国であって、飢饉の場合の協力関係は行われない。その善意が働くとしても交通輸 送の不便は、現代からは想像のつかぬものなのだ。昔の飢饉は、貨幣があっても解決のつかぬ 極度の性質のものだった。」と述べている。
参考URL
(6)牧庵鞭牛展示ホール
https://www.city.miyako.iwate.jp/shogai/bokuan_bengyu.html 2023年10月8日閲覧
(7)『戸川通往還難所工事諸留』
https://www.library.pref.iwate.jp/archive/item-details?id=01604649 2024年1月8日
代官所役人が復命のために書いた一通の見分調書が、時の原内閣総理大臣の国会対策資料とし て精密写本が製作引用され、その裏表紙に「山田線は大正九年第四十三議会通過大正十年より 着手昭和十四年秋釜石まで竣工」と付記された文書が岩手県立図書館(原本「豊間根文書」の 写し)に現存する。(1)145P
(8)復興釜石新聞 2016年11月26日発行 第541号より
https://en-trance.jp/news/kamaishishinbun/10994.html 2023.12.9
三浦命助の偉業学ぶ、橋野町老人クラブ〜血縁の克俊さん「命を大切に」と読み解く
三浦命助について学んだ「橋野寿友の会」の地域歴史学習会
釜石市橋野町の老人クラブ、橋野寿友の会(中館義元会長、54人)は20日、栗橋公民館と共催 し、交通安全講話と地域歴史学習会を橋野ふれあいセンターで開いた。会員ら約30人が参加し 、交通事故や高齢者を狙った詐欺被害の防止、郷土の偉人について理解を深めた。
鞭牛道供養碑 宮古市指定文化財
https://www.city.miyako.iwate.jp/data/open/cnt/3/10306/1/bengyuu_michikuyouhi.pdf? 20230923105223 2023年11月23日閲覧
宝暦8(1758)年と刻まれており、閉伊街道の難所の改良工事に取り掛かった年である。
茂市のふぐとりから、花原市の華厳院に移設されたものである。
参考文献
釜石古文書学習会/編集 『解読 三浦命助獄中記(二)2ばんてうめん・3ばんてうめん』
釜石市教育委員会 平成8年5月30日
伊藤麟市『牧庵鞭牛の生涯』土出屋印刷所 昭和29年11月23日
「田畑三年一度の凶作と違って、濱漁はそれ程の打撃を受けることのない時代であった。 したがって、豊富な魚類と米穀との交換も可能であり、万一の場合、魚貝藻類だけでも命を 繋ぐことは出來る程豊富な魚獲であった。」22P8行
「殊に山間の農村は、内陸平原と道を通ずるか、沿岸の魚貝藻類と好を結ぶかしなけれ ば、凶作時の山村は餓死を待つ許りなのである。誰もが着想しなければならない筈の生命路 線の開鑿が、鞭牛以前に、誰の手によって一体着手されていたらうか。南部藩に關する限う 私は知らない。」22P14行
「鞭牛が道路開鑿に最初の鉄鎚を奮つたのは、この橋野村から大槌町への直行路線であ った。これが、今小枝街道又は寺詣り街道と呼ばれるものである。この開鑿の時期は、鞭牛 年表を一覧願えば分って戴けると思うのであるが、寛延末年から實曆二年にかけての工事と 考える。この小枝街道は、現在も大槌への最短道路として、柴刈り道を兼ねて通用されてい る。
小枝街道開鑿に開する文献は全くないが、代々、林宗寺に傳わる傳説であり、生きた資料 だと私は考えて居る。僻地開拓の第一號のツルハシは、大槌——橋野地方民の實益を考えてな されたのである。大槌代官所への所用、税米の搬送、陸海産物の交換に當って、時間的距離 的短縮がもたらした効果は、如何に大きなものであったかは想像に難くない。」23P3行
鞭牛道供養碑 宮古市指定文化財
https://www.city.miyako.iwate.jp/data/open/cnt/3/10306/1/bengyuu_michikuyouhi.pdf?20230923105223 2023年11月23日閲覧
宝暦8(1758)年と刻まれており、閉伊街道の難所の改良工事に取り掛かった年である。
茂市のふぐとりから、花原市の華厳院に移設されたものである。