「佐賀んまちの恵比須さん」 〜江戸時代よりつづく恵比須文化の継続と発展の可能性〜
はじめに
七福神の一柱として知られる恵比須さん。佐賀には商売繁盛の神様である恵比須の石像を祀る風習があり(図1)、佐賀市内だけでも北の山間部から南の有明海近くまで831体が確認され(1)、その数は日本一に認定(2)されている。
この佐賀の恵比須文化について、時代とともに変化する有形・無形の恵比須にまつわる活動のありかたから、その継続や発展の可能性について、評価・考察を試みる。
1.基本データ
佐賀には江戸時代以前より続く石造物の文化があり(3)、佐賀の恵比須像の多くは石像である。左手に鯛を抱え、右手は釣り竿を握る手の形(4)、左足を曲げ、右足を垂下する半跏恵比須(図2)が最も多く(5)、佐賀の恵比須像の基本形だ。この他、両足の裏を付けて座する安座恵比須(図3)、2体の像が並べて彫られる双体恵比須(図4)、文字のみが彫られる文字恵比須塔(図5)も見られる。さらには、釣り竿でなく大福帳やそろばんを持ったり、手を上げて踊ったりという個性的な造形の特殊恵比須(図6,7,8)も確認できる。
また、他の地域では日本三大ゑびす(6)をはじめ、神社で祀られることが多いが、佐賀では個人造立の恵比須像が商家の店先など街角に祀られているのが特徴的である。
2.歴史的背景
佐賀で恵比須像が祀られるのは、元和元年(1615)の大阪夏の陣に出兵した鍋島藩主勝茂公が西宮の戎神社から信仰を持ち帰ったことが起源とされる(7)。佐賀市内で造立年のわかる最古のものは北川副町の西宮社の境内にある寛文9年(1669)の文字恵比須塔だ。
18世紀半ばには司馬江漢の紀行文『西遊旅譚』の佐賀城下町のくだりに「此辺辻々に石乃ゑびすをたてる」という記載(8)(図9)があり、この頃には恵比須像が広く街角で祀られていたことがわかる。
しかし、昭和以降は、昭和53年(1978)に地元教育委員会による調査記録(9)はあるものの、一般的にはその存在が意識されなくなり、地域に根付いた文化としては埋もれつつあった。
そこに再び光を当てたのが平成15年(2003)に結成された「恵比須DEまちづくりネットワーク」(以下「恵比須ネット」)(10)(図10)だ。地元の商店主らが佐賀の中心街に賑わいを取り戻す地域振興策として、街角に数多く祀られる恵比須像に着目し、その活動を始めたという。
3.評価
3−1.有形的な恵比須像
佐賀の恵比須像は安山岩や花崗岩など頑丈な石材が使われるが、実態は脆い部分もあり、頭や腕、光背部分が破損しやすい(図11)。また、屋外で祀られるため、自然の風化も受けやすい。
恵比須ネットには、破損や風化した恵比須像を修復できる石材店の大曲英敏(11)も籍を置く。同氏は、持ち主から依頼を受け、材質や状態に応じて様々な方法で修復を行う。表面の風化であれば、石の粉で肉付けしてから彫り、頭や腕が欠落していれば、同じ石材を探して頭や腕を造る(図12)という。その自然な仕上がりは、修復されたこともわからないほどだ。
また、同氏は従来からの半跏恵比須だけでなく、三根楽器店の《三味線恵比須》(図13)や佐賀空港の《雲上恵比須》(図14)を制作している。佐賀では、この他にも時代の流れに合わせ、様々な特殊恵比須が創造され続けている。
このように、風化・破損していく恵比須像を守る活動、新たな恵比須像を創造する活動を通じて、恵比須像を保護し、発展させようとする環境が醸成されているのである。
3−2.無形的な恵比須文化
町内会等が主催する活動として、昭和53年(1978)頃には「材木町一六班のエビス祭り」のように小規模な行事が催されていた記録(12)がある。当時でも「他の班では廃れつつある」とあり、現在では町内会等による活動はまれである。一方で、中央本町商業振興会が平成14年(2002)に《ゆめこい恵比須》(図15)を造立し、商店街で毎年えびす祭を催す(13)など、担い手と需要があれば新たな活動が生まれる。
また、近年は地域振興策として、恵比須像を祀る神社を巡る「御朱印めぐり」(14)、ふるさと納税でのガイドツアー(15)なども開始された。他にも「恵比須八十八箇所巡り」(16)は佐賀市内の88体の恵比須像を巡るスタンプラリーであるが、うち69体が店舗、その他は神社や観光施設のものが選ばれており、周遊による地域振興を意識した編集が行われている。
このように、町内会行事など消えゆく活動もあるが、その一方で、地域振興など新たな需要に基づく活動は生まれており、時代に応じた形で恵比須文化は継続しているのである。
4.他の事例との比較と特筆すべき点
佐賀の恵比須像と同様に屋外で祀られる石像群として、同じ九州の宮崎県及び鹿児島県の旧薩摩藩領には「田の神」が田んぼの畦道などに祀られている。その造形は神像型、仏像型、僧型、農民型や夫婦像など多様であり、その数は、田の神調査を行う医師・八木幸夫により、2461体の報告がなされている(17)。
4−1.田の神像と恵比須像
上述のとおり、様々な型の像を一括して田の神石像としており、地域や時代ごとに神像型が多くなったり、農民型が増えたりなどの流行が見られる。しかし、農民型であれば、頭にはシキ(わら製の編物)を被り、メシゲ(しゃもじ)及びお椀又はスリコギを持つなど、基本的な要素は共通する(図16)。これは平成以降に造立された田の神像においても同様である。
一方で、佐賀の恵比須像では、時代が下がるとともに新たな特殊恵比須が出現している。古いものでも大福帳やそろばんを持つ特殊恵比須があったが、平成以降には、《三味線恵比須》や生食パン店の《志あわせ恵比須》(図17)のように商品を持ったり、「いらっしゃいませ」と大きく刻まれた文字恵比須塔(図18)などが登場し始めた。佐賀の恵比須像の一部は、訪れる者の目を引き、直接的に商売繁昌に資する看板恵比須として活躍すべく、造形的に独自の発展を遂げつつある。
4−2.五穀豊穣と商売繁昌
田の神信仰における特徴的な風習に「オットリ田の神」がある。豊作だった地域の田の神像を別の地域の住民がオットって(盗んで)帰り、そのご利益を得ようとする風習だ。数年後にはお礼とともに田の神像は返され、両地域合同で盛大にノンカタ(宴会)が開かれる。
この風習をうまく取り入れたプロダクトが『田の神すごろく』(18)(図19)だ。このような遊びは家族や親戚、近所の子どもたちの間で行われるものであり、ノンカタと同様、日本の農業には欠かせない共同体内の良好な関係性を構築・維持することに寄与し、五穀豊穣に繋がるものである。
一方で、佐賀の恵比須には与賀町の佐賀恵比須神社で毎年正月に大いに賑わう「十日恵比須大祭」(19)(図20)のほか、近年では上述の「恵比須八十八箇所巡り」等がある。これらは参加者である市民や観光客が恵比須文化に触れるだけでなく、消費や観光などを促すことに寄与し、地域の商売繁昌へと繋がる。
内なる共同体の結束を強め五穀豊穣に導く田の神と、外からの来客を呼び込み商売繁昌を実現する恵比須とでは対象的な構図といえるだろう。
5.今後の展望
恵比須は元来、海から来た漁業神であり、鯛や釣り竿を持つ姿はそれを象徴するものだ。漁獲物の取引市場への奉斎を経て市場神となり、商人の間に広まり商業神として発展した(20)。佐賀の恵比須像の多くは半跏恵比須だが、地域特有の特殊恵比須に商業神としての発展が見られる。佐賀の恵比須像の中に、ある時その象徴ともいえる鯛や釣り竿を手放し大福帳やそろばんを持つものが現れた。それが現代では商品の三味線やパンへと発展を遂げる。こうした持物は発願者の希求を像容として現したものであり、これからも新たな恵比須像が造立されていくであろう。
また、佐賀の恵比須像にしても、南九州の田の神像にしても、本来民間信仰の対象であり、宗教民俗学者の堀一郎のいう超合理的価値の「聖」の世界(21)のものであった。それが現代の社会や人々の暮らしの変化とともに合理的価値の「俗」の世界へ移りつつある。田の神のすごろくも、恵比須八十八箇所巡りも、人々の祈りから飛躍して超合理的に願いを成就するものではなく、合理的に因果関係を持って結果に辿り着こうとするものだ。上述の像容の変化を含め、近年見られる現象を信仰の崩壊だと眉をひそめるのではなく、我々は文化の変容として受け入れていくべきであろう。
まとめ
佐賀の恵比須文化は、信仰で繋がる「講」でもなく、文化財保護の教育委員会でもない、「街に賑わいをとりもどしたい」という商店主等からなる恵比須ネットを中心とする活動により再興した。同会は社会の変容、人々の価値観の変化を敏感に捕捉し、新たなご利益「地域振興」を見出した。このご利益こそ、これからの恵比須文化の継続・発展の可能性を開いていく鍵となるであろう。
参考文献
【註】
(1)恵比須DEまちづくりネットワーク編『佐賀の恵比須台帳』、2022年、p.116(現在所在不明の13体は含まない数値)
(2)2011年に日本一ネットにより認定されている。
「恵比須の数日本一」、日本一ネット公式ホームページ
https://www.nippon-1.net/cgi-bin/database.cgi?tid=list_kiroku&print=1&equal2=%8Cb%94%E4%90%7B%82%CC%90%94%93%FA%96%7B%88%EA 、(2023年1月21日閲覧)
(3)佐賀県内で良質な安山岩が産出することから、砥川石工、塩田石工、値賀石工などの石工集団が生まれ、石橋や肥前鳥居、六地蔵石仏柱や肥前狛犬など、多くの石造物が造られてきた。
(4)釣り竿自体を石像の一部として彫る例は少なく、右手はこぶしに握り穴が空けられたものが多い。この穴に細い竹や笹の枝を差し込み、釣り竿に見立てている像も見られる。
(5)数は少ないが半跏の足が左右逆のもの、さらに稀であるが左利きで右手に鯛を抱えるものも含む。
(6)一般に西宮神社(兵庫県)、今宮戎神社(大阪府)、恵美須神社(京都府)をいう。
(7)恵比須DEまちづくりネットワーク編『佐賀ん町のえびすさん』、2022年、p.10
(8)司馬江漢『江戸・長崎絵紀行 -西遊旅譚-』、国書刊行会、1992年、p.102
(9)佐賀市教育委員会『佐賀のエビス』、1978年
(10)前身となるのは平成13年結成の「佐賀よかとこ会」。恵比須像の悉皆的な所在調査や調査に基づくガイドツアー、関連イベント等の活動を行っている。
恵比須ネット村井代表より聴取(2022.07.16)、及び同会ホームページにより確認。
「恵比須DEまちづくりネットワークについて」、恵比須DEまちづくりネットワーク公式ホームページ、http://www.saga-ebisu.com/main/4991.html 、(2023年1月21日閲覧)
(11)佐賀城石垣の再興にも携わった、佐賀県を代表する現代の石工であり、恵比須石像の修復等に関するインタビューに応じていただいた。(2022.08.1)
(12)佐賀市教育委員会『佐賀のエビス』、1978年、p.128
(13)恵比須DEまちづくりネットワーク編『佐賀ん町のえびすさん』、2022年、p.27
(14)街角の恵比須像でなく、佐賀市内14の神社に鎮座する恵比須像を巡り、御朱印を集める。御朱印帳はえびす宮総本社・西宮神社のものを使用する。
「さがの恵比須 御朱印巡り」、恵比須DEまちづくりネットワーク公式ホームページ、http://www.saga-ebisu.com/main/5112.html 、(2023年1月21日閲覧)
(15)佐賀の恵比須像39体を巡る2泊3日のツアーで、寄付額50万円以上の返礼品である。
「サンキュー恵比須巡り」、ふるさとチョイスホームページ、 https://www.furusato-tax.jp/product/detail/41201/4497043 、(2023年1月21日閲覧)
(16)恵比須ネットが主催するスタンプラリー。観光案内所等に設置される「通い帳」にスタンプを押していく。全てまわると記念品を授与され、達成者は1000人を超える。
「さが恵比須八十八ヶ所巡り」、恵比須DEまちづくりネットワーク公式ホームページ、http://www.saga-ebisu.com/main/5032.html、(2023年1月29日閲覧)
(17)八木幸夫『田の神サァ ガイドブック』、南方新社、2022年、p.87
(18)イラストで描かれた鹿児島、宮崎両県の田の神石像55体のマス目を巡るすごろく。すごろくの道中で「スーパー田の神をオットる」のマスに止まると「スーパー田の神カード」を取得し、次に他の参加者からオットられるまでは、サイコロの出目の2倍進むことが可能となる。
(19)佐賀市与賀町の佐賀恵比須神社において実施される。1月9・10日の十日恵比須大祭(初恵比須大祭)のほか、7月10日には夏の祭典が行われる。
徳久豊彦『与賀神社誌』、与賀神社社務所、2005年、p.56
(20)吉井良隆「失われたえびす信仰の本源」、吉井良隆編『えびす信仰事典』、戎光祥出版、1999年、p.226
(21)堀一郎『聖と俗の葛藤』、平凡社、1993年、p.44
【参考文献】
江頭邦道編『エベスさん』、1988年
恵比須DEまちづくりネットワーク編『佐賀ん町のえびすさん』、2022年
恵比須DEまちづくりネットワーク編『佐賀の恵比須台帳』、2022年
佐賀よかとこ会編『新えびすさん 佐賀城下えびすめぐり』、2006年
佐賀市教育委員会『佐賀の石造文化』、1978年
佐賀市教育委員会『佐賀のエビス』、1978年
司馬江漢『江戸・長崎絵紀行 -西遊旅譚-』、国書刊行会、1992年
徳久豊彦『与賀神社誌』、与賀神社社務所、2005年
中野高通「佐賀の町興し恵比須さん」、『日本の石仏』第152号、日本石仏協会、2014年
東川隆太郎、さめしまことえ『田の神すごろく』、燦燦舎、2022年
堀一郎『聖と俗の葛藤』、平凡社、1993年
八木幸夫『田の神石像・全記録 南九州の民間信仰』、南方新社、2018年
八木幸夫『田の神サァ ガイドブック』、南方新社、2022年
吉井良隆編『えびす信仰事典』、戎光祥出版、1999年