京春日「神相撲」が語る千二百年の歴史 ― 薄れてゆく由来 ―
はじめに
京都西山の麓、京都市西京区大原野に鎮座する大原野神社(おおはらのじんじゃ)は「京春日(きょうかすが)」といわれている(資料1)。藤原氏との関わりが深い神社であり、藤原氏出身の皇族・貴族(宮司斎藤氏によると「皇后」)が参拝し、都の華やかな世界がこの大原野の地に持ち込まれていた。そして美しい自然が、伊勢物語(1)や源氏物語(2)の舞台になったのである。本稿では、当神社の御田刈祭(みたかりさい)(3)に伴う神事である「神相撲(かみずもう)」を文化資産として評価し、地域の変容とともに歩む民俗行事を考察する。
1. 基本データと歴史的背景
1-1. 大原野神社の由緒
桓武天皇が平城京から長岡京に遷都した784年に、皇后の藤原乙牟漏(おとむろ)が、氏神である奈良春日大社からこの地に分霊を勧請した。その後850年に文徳天皇が分霊を遷し、壮麗な社殿が創建されたのである。
1-2. 「神相撲」とは
毎年9月第2日曜日に行われる特殊神事である。1717年から始まり、地域の民俗行事として貴重なことが評価され、2015年3月31日に京都市の無形民俗文化財に登録されている(資料2)。
「神相撲」は、競技としての奉納相撲ではなく、相撲の所作そのものが儀礼としての意味を持った神事相撲である。神相撲力士2名が神職のお祓いを受け、土俵上で清めの神事を執り行う。それから二度の立ち会いを行う。まず東の力士が西の力士を押し切り、次に西が東を押し切り、一勝一敗の引き分けで終わるのである(資料3)。この時、宮司は「神相撲」には「五穀豊穣祈願」と「争いごとなくお互いに仲良く助け合って生活する」という神への誓いが込められていることを観衆に紹介し神事は終わる。
2. 事例の評価
「神相撲」はなぜ「争いごとなく」という誓いが必要だったのかを地域特性と住民の変容から考察していく。
2-1. 地域特性【力士にまつわる伝承】
この地域には「斎藤」「畑・幡」の姓が非常に多い。神相撲力士は、この両氏から出して神事を行なったのが始まりである。
「斎藤」の姓は、長岡京遷都の頃、天皇と共に奈良より移り住んできた藤原氏が素姓である。藤原北家の藤原叙用(のぶもち)(4)が「斎宮頭(さいくうのかみ)(5)」になり、「斎宮頭の藤原」から「斎」と「藤」をとり、その末裔が「斎藤」と名乗ったといわれる。その斎藤氏は社家筋として神社の北側の「野田」に集住した。奈良春日大社北方の「野田」という地名に因んで名づけられたという。この地域は、「相撲好きの人たちが多く、地域社会と相撲が身近にある。」と福持昌之が述べている(6)。
「畑・幡」の姓は、広隆寺のある太秦(うずまさ)を本拠地とした秦氏(7)の末裔と伝えられている。秦氏は農業・養蚕・機械・土木技術に優れ、葛野川(桂川)の治水工事を行なった。その功労者である秦河勝は、聖徳太子より弥勒菩薩半跏思惟像を受領し広隆寺を建てた。ほかにも秦氏は松尾大社・伏見稲荷大社・蚕の社などを建立している。大原野も秦氏の勢力下にあり、その末裔が「畑・幡」の姓を名乗っている。大原野神社の土地は秦氏が献上したことから(8)、神事に参加する権利を持っていた。
ゆえに神相撲は「斎藤」側からと「畑・幡」側からそれぞれ力士を出すというのが伝統となっている。二回の取り組みを一勝一敗の引き分けとして、「両氏が争いごとなくお互いに仲良く助け合って生活をしていこう」という誓いが「神相撲」に込められていたと伝えられている。そして300年以上途絶えることなく受け継がれてきたことを文化資産として評価する(資料4)。
2-2 住民の変容【薄れてゆく神事の由来】
両氏の争いが無くなった現代において神相撲の誓いは、両氏から氏子地区全員を対象に「みんなが仲良く助け合って生活する」へと変わった。
氏子地区の春日町は、1934年には200世帯中120〜130世帯が「斎藤」「畑・幡」であり、60〜65%を占めていた(9)。現在の世帯数(2015年国税調査)は、人口流入により601世帯に増え、そのうち両氏の戸数は121世帯(10)で20%になっている。宮司によると、この構成比の変容により、神相撲の誓いの対象を両氏から氏子地区全員へと変えたとのこと。契機となったのは、40年前、近隣の竹林地帯に洛西ニュータウンが開発され参拝者が増えたこと。そして地元力士の相撲が下火になり「子供すもう」が始まったことであると述べている。
このように、住民の構成比の変容とともに神事の元々の由来は薄れてゆく。それでも住民との繋がりを大事にして、存続し続けていることを文化資産として評価する。
3. 他事例との比較【八幡古表神社「神相撲」】
九州の秦氏の本拠地(11)に鎮座する八幡古表神社は、福岡県築上郡吉富町小犬丸にある。「神相撲」といっても人間が取る相撲ではなく、傀儡子(くぐつ)という木製の操り人形で行われる(資料5)。しかも相撲型人形は神様の名前がついている。宇佐神宮「放生会」(12)の一部として始まり、「隼人霊の鎮魂」のための奉納が目的であった。
八幡古表神社「神相撲」は、744年から宇佐神宮「放生会」に出仕しているが、その後は中断や再開が繰り返され第2次世界大戦後に4年に1度の開催となった。1983年に国指定重要無形民俗文化財に指定されてからは、宮司指導の元、保存会会員で神事が行われている。一方、大原野神社「神相撲」は、これほど有名な神事ではないが、社伝によると1717年以来300年以上中断なく現在まで続いていることが特筆される。
八幡古表神社「神相撲」は、元々船上で行われていたが、1931年から社頭でも行うようになった。神田(しんでん)の小作人たち庶民も観覧するようになり、「隼人霊の鎮魂」は次第に薄れ村落共同体のお祭りへと変容していった(13)。大原野神社「神相撲」も住民の構成比の変容とともに、元々の由来が薄れ氏子地区全員のお祭りへと変容している。その点では同様に神事の由来が薄れながらも地域住民とともに存続していることが特筆される。
4. 今後の展望
「神相撲」は五穀豊穣を願う農耕祭祀でもあるが、氏子地区農業就業者は現在8.5%(資料6)となり、神社の本質に関心が薄れていくのも防ぎようがない。氏子地区の世帯数は先述の通り601世帯に増えている。氏子地区全員のために神相撲の誓いを変えても神社経営が良くなるわけではなく、神事を存続するには安定した神社収入が必要である。神社収入としては、氏子の寄付と祈祷料・賽銭・お守りなどの授与品である。なかでも氏子の寄付が割合としては高いのである(14)。神社は氏子地区の守護神となってはいるが、戸数が増えれば氏子が増えるというものではない。なぜならば氏子地区に移住してきたとしても、神社を経済的に支える氏子とはならないからである(15)。
神社として、氏子の負担を減らし存続のための収入を確保するためには、祈祷料・賽銭・授与品などで収入を増やすしかない。そのためには参拝者を増やさなければならない。現状の取り組みとしては、「令和6年御鎮座1240年記念境内整備事業(資料7)」として駐車場整備や手水舎建替えなど、参拝者の利便性向上を行なっている。そして、参拝者および観光客を誘致するために、観光スポットを新聞記事に掲載、テレビ取材番組に宮司が案内役として出演するなどの努力がある。こうして寄付以外に安定した収入があれば社殿・境内地の維持保全および参拝者への配慮が行き届き、今後も神事を滞りなく存続できるのである。
5. まとめ
「神相撲」が語るものは、第1に「斎藤」は藤原氏の末裔であり、「畑・幡」は秦氏の末裔であること。第2に長岡京遷都・平安京遷都に伴う華やかな王朝文化到来の中で、史料としては残らない、両氏の間に「争いごと」があったこと。第3に両遷都に秦氏が関係していたこと。その根拠が「神相撲」に見ることができると梅原猛は述べている(16)。さらに秦氏は5世紀後半に朝鮮半島から渡来し、在来の文化と渡来の文化を重ね合わせ京都および日本の文化を発展させ、新しい歴史と文化を築いた人々であったこと(17)。わずか30分の神事ではあるが、多くの歴史を長きに渡り語り伝えてきたのである。
「神相撲」の由来が薄れてきたとはいえ地元の誇る無形民俗文化財として、由来も大切に受け継ぎ、地縁を繋ぐ神事として存続し続けなければならないと考える。そして、これからも相撲への情熱によって受け継がれていくことを望む。
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(資料1)大原野神社本殿と神鹿
春日大社にならい社前には、神の使いとして神鹿が置かれている。(2023年1月1日 photo:筆者撮影) -
「神相撲」は「御田刈祭」に伴う神事であり、五穀豊穣を奉謝する祭儀で、古くよりある当社の特殊神事である。
神慮を慰め奉り「氏子が平穏無事に過ごせるよう」享保2年(1717年)より、毎年神相撲の神事が行われている。神相撲とは、古式にのっとり、南北の氏子の代表による神相撲力士により相撲がとられる。(大原野神社ホームページより)
https://oharano-jinja.jp/yuisho/ (2023年1月7日閲覧)(photo:大原野神社ホームページより)
かつては「斎藤」「畑・幡」の両氏代表力士であったが、今は南春日町と北春日町から代表力士を出している。 -
(資料3)「神相撲」次第
(photo:左上1枚目のみ大原野神社より支給、photo:左上1枚目以外は2022年9月11日 筆者撮影 資料:筆者作成) - (資料4)神相撲三百年記念碑(2022年7月17日 photo:筆者撮影)
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(資料5)八幡古表神社「神相撲」
奈良時代に始まる宇佐神宮の放生会に古表船を出し、傀儡子(くぐつ)を操って細男(くわしお)の伎楽を奏したのが起源とされ、東西10体ずつの神々によって逐次、勝ち抜き相撲。次いで東・5体の神々と西・住吉神の飛び掛り相撲。次いで東・11体と西・住吉神の押し合い相撲。最後に、東西4体ずつの女神による八乙女舞が奏されて終わる。(福岡県築上郡吉富町 観光・物産ガイドより)
https://www.town.yoshitomi.lg.jp/kanko/enjoy/kamizumou/g169/ (2023年1月7日閲覧)(photo:福岡県築上郡吉富町 観光・物産ガイドより) -
(資料6)氏子地区の業種内訳
南春日町で農業・林業などの1次産業に従事されている方は24名。
北春日町で農業・林業などの1次産業に従事されている方は43名。
春日町全体の就業者が787名、そのうち1次産業従事者は南北67名で全体の8.5%である。
https://area.kyotanishokai.co.jp/京都市西京区大原野大原野南春日町/
https://area.kyotanishokai.co.jp/京都市西京区大原野大原野北春日町/
2022年7月17日閲覧(資料:筆者作成) -
(資料7)境内整備事業内容(photo:大原野神社ホームページより 資料:筆者作成)
https://oharano-jinja.jp/donation/ 2023年1月7日閲覧
参考文献
【註・参考文献】
(1)神社紀行21 『松尾大社・大原野神社』、学習研究社、2003年4月10日、22頁より
・『伊勢物語』
876年、清和天皇の皇后藤原高子が大原野神社に参詣したとき、供奉した在原業平が、
大原や小塩の山もけふこそは
神代のことも思ひ出ずらめ
と和歌を奉った。「大原や小塩の山」と言うのは大原野の小塩山のことである。
(2)京都市編入50周年記念誌編集委員会『大原野』、大原野自治連合会、2010年11月15日、56頁より
・『源氏物語』
29帖「行幸」巻に、大原野に向かう冷泉天皇の美しい行列が描写されている。紫式部のこの地の思いの一端を伺い知ることができる。
(3)大原野神社ホームページ「由緒」より
https://oharano-jinja.jp/yuisho/ 2023年1月17日閲覧
御田刈祭は、毎年9月の第2日曜日に行われている行事で、五穀豊穣を奉謝する祭儀で神相撲を奉納する神事である。
(4)京都市編入30周年記念誌編集委員会『大原野』、大原野自治連合会、1990年3月31日、41頁より
藤原叙用は、藤原北家の房前の子、魚名から7代目。藤原叙用の母は桓武天皇の孫、輔世王の娘で、仁明天皇の姪であった。
(5)斎宮歴史博物館ホームページより
https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/saiku/50415036229.htm 2023年1月24日閲覧
皇室が祭祀を行う前に清浄を保つために籠る宮のことを「斎宮(さいくう)」といい、天皇家の未婚の女性が「斎王(さいおう)」となり伊勢神宮に奉仕していた。斎王が伊勢在任中におかれた令外の官を「斎宮寮(さいくうりょう)」といい、斎宮寮の事務を預かる最高責任者が「斎宮頭(さいくうのかみ)」である。斎宮頭は、従五位を持ち南伊勢地域の国守のような役割を果たしていた。
(6)福持昌之『大原野神社の御田刈祭と相撲の神事』、京都市文化財保護研究紀要 創刊号、2018年3月、137頁より
児童公園に隣接した屋根付きの土俵があり、昭和51年(1976)より野田会相撲が開催されている。現在、伊勢ノ海部屋の部屋付親方である甲山親方(大碇)は野田会相撲出身の大相撲力士である。
(7)京都市編入30周年記念誌編集委員会『大原野』、大原野自治連合会、1990年3月31日、41頁より
秦氏については、1.新撰姓氏録(814)に「秦の始皇帝十三世の孫・孝武王の後たり」2.五世紀頃、朝鮮から渡来した新羅系の氏族の2説があるが、後者が真実のように言われている。
(8)中村修『乙訓の原像』、ビレッジプレス、2004年4月10日、210頁より
長岡京遷都は秦氏の土地寄進と協力によって可能となった。大原野神社の土地も秦氏が桓武天皇に寄進したものと伝えられている。
(9)福持昌之『大原野神社の御田刈祭と相撲の神事』、京都市文化財保護研究紀要 創刊号、2018年3月、136頁より
(10)京都市西京区詳細図『大原野自治会区域図』、株式会社関西地図協会、2022年度版 より
(11)関裕二『寺社が語る秦氏の正体』、祥伝社、2018年11月10日、138-139頁より
九州北東部の豊前は「秦王国」と呼ばれ、秦氏系が人口の8割以上を占めていた。
(12)吉村 風 『宇佐八幡放生会の傀儡舞・傀儡相撲のモチーフ』、八幡古表神社・古要神社の傀儡舞・傀儡相撲をめぐって歴史民俗資料学研究 第15号、2010年3 月、145〜166頁より
宇佐神宮「放生会」とは、720年に大隅・日向の隼人族が新羅の援助を得て大和朝廷に叛いたことがはじまりである。勅使の御神託を受けた豊前国司宇努男人は隼人族を723年に平定した。その後隼人族数千の祟りであるかのように悪疫が蔓延した。その霊を鎮め慰めるため、宇佐八幡宮で744年から勅祭による「方生会」が行われた。
(13)藤本章『八幡古表神社の神相撲に関する研究 −信仰と表現−』、スポーツ人類学研究 2000巻(2001)2号、60頁より
神田を小作する人々は、傀儡子神事において自らが小作する神田の神様が登場すると、柏手を打って拝礼する慣習があったことを伝え聞いているという。
(14)歴史REALWEB 「第2回 意外と知らない神社の収入源」、2022年12月26日閲覧
http://blog.livedoor.jp/rekishireal/archives/52272941.html
神社の主たる収入源として「宗教活動よる収入のうち、額の多い順番に3つ挙げて下さい」というアンケートの結果。「第1位」として挙げられた項目で最も多いのは、「氏子費」で全体の38.8%。2番目は「祈願に際しての初穂料」で18.9%、3番目が「祭礼に際しての奉納金」で11.6%、4番目が「授与品等の初穂料」8.3%である。
(15)歴史REALWEB 「第2回 意外と知らない神社の収入源」、2022年12月26日閲覧
http://blog.livedoor.jp/rekishireal/archives/52272941.html
氏子とは、その土地の神様の縄張りに住んで、その神社を信奉するだけでなく、金品を拠出して財政的に神社を支える役割をも担う人々である。
(16)梅原猛『京都発見2路地遊行』、株式会社新潮社、1998年2月25日、137頁より
「この斎藤氏と秦氏の関係は、一つの社が別の土地に遷る場合の情況をよく示している。長岡京遷都も平安京遷都と同様裏に秦氏の力があった。その根拠も、ここに見ることができる。(中略)この神事は、初め斎藤氏と秦氏が争い、後に両氏が和解し、その結果、この新しい社が建てられたという、千二百年の歴史を語っているのである。」と梅原猛は述べている。
(17)井上満郎『古代の日本と渡来人―古代史にみる国際関係』、株式会社明石書店、1999年4月15日、147-159頁より
【参考文献】
京都新聞社 編・発行『京都滋賀子どもの祭り』1984年
京都市編入30周年記念誌編集委員会『大原野』、大原野自治連合会、1990年
竹森章『京都・滋賀の相撲−まつりと力士の墓』、私家版、1996年3月12日
梅原猛『京都発見2路地遊行』、株式会社新潮社、1998年2月25日
井上満郎『古代の日本と渡来人−古代史にみる国際関係』、株式会社明石書店1999年4月15日
脇田晴子『女性芸能の源流−傀儡子・曲舞・白拍子』、株式会社角川学芸出版、2001年10月31日
週間神社紀行21『松尾大社・大原野神社』、学習研究社、2003年4月10日
中村修『乙訓の原像』、ビレッジプレス、2004年4月1日
週間京都を歩くNo.39『大原野』、株式会社講談社、2004年4月13日
内館牧子『女はなぜ土俵に上がれないのか』、株式会社幻冬舎、2006年11月30日
水谷千秋『謎の渡来人 秦氏』、株式会社文藝春秋、2009年12月20日
京都市編入50周年記念誌編集委員会『大原野』、大原野自治連合会、2010年
週間日本の神社No.84『吉田神社・大原野神社』、株式会社ディアゴスティーニ・ジャパン、2015年9月22日
土屋喜敬『ものと人間の文化史179相撲』、一般財団法人法政大学出版局、2017年4月18日
新谷尚紀『神社の起源と歴史』、株式会社吉川弘文館、2021年7月10日
篠田謙一『人類の起源 古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」』、中央公論新社、2022年2月25日
京都市西京区詳細図 『大原野自治会区域図』、株式会社関西地図協会、2022年度版
【参考Webページ】
日本全国地域情報「【京都府】京都市西京区大原野南春日町の地域情報!人口、年齢、世帯数、勤務先などの完全網羅」、株式会社京谷商会
https://area.kyotanishokai.co.jp/京都市西京区大原野大原野南春日町/ 2022年7月17日閲覧
日本全国地域情報「【京都府】京都市西京区大原野北春日町の地域情報! 人口、年齢、世帯数、勤務先などの完全網羅」、株式会社京谷商会
https://area.kyotanishokai.co.jp/京都市西京区大原野大原野北春日町/ 2022年7月17日閲覧
洋泉社歴史REAL WEB
・『第2回意外と知らない神社の収入源』
http://blog.livedoor.jp/rekishireal/archives/52272941.html 2022年12月26日閲覧
・『第10回ある村社の再生』
http://blog.livedoor.jp/rekishireal/archives/53653852.html 2022年12月26日閲覧
・『第12回神社の未来像』
http://blog.livedoor.jp/rekishireal/archives/54029550.html 2022年12月26日閲覧
NHK生活情報プログ『知られざる神社の台所事情』
https://www.nhk.or.jp/seikatsu-blog/800/289453.html 2022年12月26日閲覧
『厳しい神社経営−地域の貢献とともに生き残りに取り組んだ奈良県の葛木御歳神社とは』
https://www.homes.co.jp/cont/press/reform/reform_00475/ 2022年12月26日閲覧
【参考論文】
福持昌之『大原野神社の御田刈祭と相撲の神事』、京都市文化財保護研究 紀要 創刊号、2018年3月
吉村風『宇佐八幡宮放生会の傀儡相撲のモチーフ−八幡古表神社・古要神社の傀儡舞・傀儡相撲をめぐって−』、神奈川大学大学院『歴史民俗資料学研究科』第15号、2010年3月23日、145-166頁
藤本章『八幡古表神社の神相撲に関する研究 −信仰と表現−』、筑波大研究性55-73頁
田畑博子『鷹神社と傀儡師』、熊本大学文化研究14、2016年
津内香・藤本章・美山治・後藤光将『八幡古表神社の神相撲に関する研究』、〈財団法人〉水野スポーツ振興会2000年度スポーツ学等研究助成、2001年3月
【取材協力】
大原野神社 宮司
大原野神社相撲振興会会員2名