パレスチナ刺繡 ―紛争地域の日常に女性たちが一針一針彩を添える―
はじめに
この文化資産評価報告書では、パレスチナ、イドナ村女性組合(以下、イドナ組合)[1、図1]での刺繍の製作及び販売ついて考察する。
イドナ組合は1997年、当時パレスチナの中でも最も貧しいかったヘブロン近郊のイドナ村に日本人の水本敏子氏[2]が訪問し、女性の自立と刺繍を次世代に継承することを目的に立ち上げた組合である。筆者も2018年に一年間イスラエル・パレスチナに滞在しイドナ組合に関わり、現在も制作販売の支援を行っている。
1. イドナ組合とその周辺の農村地域[3]の刺繍の特徴
パレスチナ刺繍は元々女性が家族の野良着を長持ちさせる為に施したのが始まりだが、女性の生活に結び付いた伝統工芸であり、宗教、政治、文化、教育といった多くの面で制限がある中、唯一自分を自由に表現できるものでもある。
イドナ村周辺の農村地域の刺繍には以下の特徴がある。
① 伝統的には黒地に赤を中心とした色の組み合わせが基本[図2]。現在は色々なパターンが作成されている[図3]。
② 「農民のステッチ」と呼ばれる幾何学模様で、主にクロス・ステッチ技法[4]が使われる。
③ モチーフは糸杉、花、月、星、魔除け等[図4]様々であり、全てに名前が付けられている[図5]。又キリスト教との接触により、キリスト教由来のモチーフであるベツレヘムの星[図6]、教会、十字架、クリスマスツリー等があるのは独特。
④ 刺繍糸に、かつては「天然絹糸」[5]が用いられており、パレスチナで収穫された植物や昆虫の汁で染められた糸は、時を経ても色褪せなかった。しかし1948年以降、フランスから綿の刺繍糸が輸入され、天然絹糸は使用されなくなった。
⑤ 布は、ガザ地区[6]の地名がガーゼの語源と言われるほど、良質の綿がパレスチナで栽培された為、一般的に目の粗い綿が使用されていた。染は、元々ヘブロンの商人によってベイサン地方から良質な藍が流通していたので以前は藍染めが主流であった。しかし濃紺に染めるには時間と手間がかかる為、現在は中国から化学染料による黒地布を輸入しており、藍染めは姿を消した。
2.歴史的背景[7]
パレスチナ・ヨルダン川西岸地区[8、図1]は、1948年のイスラエル建国[9]に伴い難民となった多くのパレスチナ人が暮らしている。又イスラエル軍による厳しい監視や制限があり、現在もイスラエルからの入植者により土地を奪われ続けている。
かつては母から娘へ手刺繍が伝承され、家族の野良着や晴着、又クッション等の生活雑貨にも刺繍を施していた。モチーフは、生物、宗教、伝承、歴史等様々であり、地域によって異なり、刺繍を見れば出身地が分かると言われる。しかし度重なる紛争と貧困により、女性たちは刺繍をする余裕がなくなり、民間伝承のパレスチナ刺繡は衰退した。
しかし1950年に国連パレスチナ難民救済事業機関 [10]が刺繡を復活するプロジェクトを開始し、その活動から71年経った2021年12月にその刺繍は「ユネスコ・無形文化遺産」[11]に認定された。
3.積極的評価点
現在パレスチナは大部分をイスラエルが占領しているが、長い歴史から見ても被支配による影響を強く受け、貧しさの中で農民や遊牧民が野良着を補強する為の手段として、独自の刺繍文化が生まれた。更に女性たちは現在に至るまで男尊女卑の世界に生きている[12]。今の50代までの女性は10代で結婚し、多くの子どもを産み育て、家庭外で就職することは無かった。現代の若い世代は経済的にも自立すべく家庭外に職を探しもするが、やはり男性が優先的に採用される等の状況は続いている。
イドナ組合を含めたパレスチナ刺繍は、女性から見える自然や生活、宗教や社会などを伝統の中で培われた幾何学模様で表現している。これは歴史や文化を継承すると共に、製品販売による経済的自立にもつながり、占領下や男尊女卑の世界にあってもアイデンティティを確立する為の重要な活動[図7]であると評価する。
その為パレスチナ刺繍は昨年12月に「ユネスコ・無形文化遺産」に認定された。そこでは現在イスラエルから水も電気も制限された酷暑の中で、女性が子育てや農作業といった家の仕事をしながら緻密な刺繍を刺している事も評価されたのだろう。
ただし下記「課題と今後の展望、まとめ」に記したような課題も存在する。
4.津軽こぎん刺し[図8、13]との比較
パレスチナ刺繍を、同じく農業を生業とする女性たちの厳しい生活の中から生まれた「津軽こぎん刺し」(以下、こぎん刺し)と比較し、現状の課題を述べる。
青森県西部の津軽地方は極寒の地で綿花が育たない土地であった。江戸時代その地方を治めていた弘前藩の倹約令により農民の着衣は麻布と定められ、色糸の使用も禁じた。その為、女性は農作業のできない冬になると家族の為に刺し子を布に施すことで暖を増やし、白糸刺繍が特徴的なこぎん刺しが生まれた。
製品の特徴を比較すると、クロスに刺すパレスチナ刺繍と水平で偶数の目に刺すこぎん刺しではステッチが異なる。又パレスチナ刺繍は木綿布に赤を中心に様々な色が用いられているのに対して、こぎん刺しでは麻布に色のつかない白糸のみである。更に熱い地域で生まれたパレスチナ刺繍は涼しく過ごす為のもので、寒い地域で生まれたこぎん刺しは温かく過ごす為の作りになっているのは対極的である。
しかし共通点も多い。第一に、両方とも貧しい農民の生活の中から生まれた事。
第二に、生地は細菌の増殖を防ぎ消臭効果、虫よけ効果、紫外線防止効果のある藍で染められ、芸術的であると同時に機能的である事。
第三に、母から娘に伝承されてきた事。女子は5,6歳になると母から簡単なデザインを習い始め、近所の娘たちと刺し子を競い合い、自分の表現として新しいデザインが生まれることもあった。10年も経てば緻密な幾何学模様が作れるようになり、その刺し子をした着物や布を持って嫁入りした。
第四に人々のアイデンティティの確立と表現に寄与している事。明治社会にあって自己主張もままならぬ「津軽の女性にとってこぎん刺しは自分を表現する唯一の手段だった。」[14]
ただ、それぞれの発展経緯と今後の展望には違いがある。こぎん刺しは生活が豊かになったことで、パレスチナ刺繍は生活がより厳しくなったことで、伝承が一時期途絶えた。こぎん刺しは、民芸運動の父と呼ばれる柳宗悦氏[15]によって再び日の目を見るようになり、パレスチナ刺繍はUNRWAの支援により復活した。
そしてこぎん刺しは現在インターネット販売され、100円ショップでも販売されている。この手軽さから若い女性に認知され、こぎん刺しをする人が幅広い年齢層で増加している。一方パレスチナ刺繍は、無形文化遺産に認定されたが、若い女性の間で刺繍をする人は増加していない。そこには、刺繍に興味があっても先生となる母親が刺繍を教えられない世代になっていること、又刺繍教室に通いたくてもイスラム教徒は家から頻繁に離れることを許してもらえない、といった課題がある。
5.課題と今後の展望、まとめ
「ナクバ」[16]以後、急速に刺繍は廃れ、刺繍の施されたパレスチナの伝統衣装を日常的に身にまとっているのは年配の女性に限られるようになった。その背景には、度重なる紛争により刺繍をする余裕が無くなった事と、イスラエル占領下にあるパレスチナは物価が高い為、刺繍の施された高価な衣装を購入できないという事情がある。刺繍が「無形文化遺産」に認定され、海外の富裕層に購入されるという経済効果はあるが、本来自分たちのアイデンティティを示す衣装を着ることが出来ないという課題が残る。
イドナ村周辺の農村地域で刺繍をしている女性たちの殆どは母親である。様々な制限を受けながら、自家用目的の刺繍ではなく、現金収入を得て家族を養う目的で刺繍に励んでいる。今後の活動としては、紛争地域での日々の生活や文化、社会情勢や歴史等、女性の目線から緻密で色鮮やかに表現している刺繍に、若者や子どもも携わる機会を広げることが重要であろう。その活動によって刺繍が継承され、制限された暮らしの中にあってもアイデンティティが確立されるからだ。又紛争地域であるが故に、いつ刺繍がまた衰退しても不思議ではない。その為、刺繍の歴史、文化、デザイン等をデータに残し、現代から未来へとイドナ村周辺の農村地域の刺繍を継承する責任がイドナ組合だけではなく、ユネスコが示したように、世界全体にあるだろう。
- 図1 パレスチナとイドナ村の地図等:パレスチナの女性を支援する会「サラーム」(https://www.facebook.com/salam.hiroshima05/)から2019年に筆者に提供された資料
- 図2 伝統的なパレスチナ衣装:パレスチナ、ベツレヘムのAl Bad Museum の展示物(2019年1月22日、筆者撮影)。イドナ村と同じく、黒字に赤の刺繍。
- 図3 現在購入できるパレスチナ衣装:エリコで2019年1月に筆者購入(2019年1月19日、筆者撮影)。イドナ村からは遠い地域だが、イドナ村を含めパレスチナ全般で現在はこのような多様なパターンが見られる。
- 図4 「魔除け」「糸杉」のモチーフによる刺繍の表面(左側)とその裏面(右側):イドナ村で筆者購入(2022年7月19日、筆者撮影)。刺繍の技術は裏面に表れる。この作品は表か裏かわからない程で、技術のレベルが高い。
- 図5 イドナ組合の刺繍 モチーフ(上段から)「月」「コーヒー豆」「月」「花」「糸杉」「魔除け」:筆者所有品(2022年7月10日、筆者撮影)
- 図6 イドナ組合の作品(リュック) モチーフ「(キリストの誕生を示す)ベツレヘムの星」:筆者所有品(2022年7月10日、筆者撮影)
- 図7 イドナ組合での刺繍作成の様子(2018年6月26日、筆者撮影)
- 図8 津軽こぎん刺し モチーフ「竹の節」:筆者所有品(2022年7月10日 筆者撮影)
参考文献
【註】
[1]イドナ村女性協同組合は、専従スタッフ4名、刺繍担当者45名、縫製担当者6名からなる組合である。製品作成過程は、専従スタッフから刺繍担当者に見本と布、糸を通常5セット手渡され、家庭に持ち帰り1週間で仕上げる。次に縫製担当者に刺繍が手渡され家庭で製品に仕上げる。専従スタッフが最終チェックをし、日本、イスラエル、アメリカに発送する。
[2]水元敏子氏は1995年にNGO団体「地に平和」の派遣員としてパレスチナに渡り、現地でパレスチナ工芸を支援するNGO団体「スンブラ」のマネージャーとしてパレスチナ女性の職業訓練に携わった。1997年に「イドナ村女性組合」を設立し、支援活動を行っている。
[3]イドナ村周辺の農村地域は、ヘブロン市の西方に位置している。現地の人々は難民ではなく、先祖代々この土地に住んでいるイスラム教徒である。女性は殆どの日々を家庭内で過ごす風習があり、7人から15人もの子供を産み育てる。オリーブの栽培はしているが家庭で消費する量であり、オリーブを売って生計を立てることは難しい。男性の失業率が60%以上と高く、貧困にあえぐ家庭が多い。
[4]クロス・ステッチとは、布の目にそって糸を×の形にクロスさせて刺す刺繍の技法。
[5]天然絹糸は蚕の繭であり、光沢のある動物性繊維。染色は、赤色:アカネの根、ザクロ、カイガラムシ、紺色:藍、黄色:サフラン、土、ブドウの葉、茶色:樹皮、黄緑色:漆、といった身近にあるもので染められていた。フランスの輸入糸はDMC社の製品。
[6]ガザ地区は、ヨルダン川西岸地区と同じく「オスロ合意」に基づいて「パレスチナ自治区」となったが、2007年以降、イスラエル軍により封鎖されている。
[7]イスラエルによる占領以前の歴史を以下、略述する。
パレスチナは、「ペリシテの地」という意味であり、紀元前12世紀に住んでいたペリシテ人の名前から付けられている。また、旧約聖書の「カナンの地」としてユダヤ教、キリスト教、イスラム教にとって重要な地である(なお「旧約聖書」はキリスト教の立場からの名称であり、本来はユダヤ教の聖典である。キリスト教は正典として、イスラム教でも一部が啓典として三教共に大切にしている書物)。イドナ村周辺地域も歴史は古く、青銅器時代から人が住んでいたことが古代遺跡から明らかになっている。パレスチナの青銅器時代は、紀元前3650年から2300年かけての時代である。そこでは既にパレスチナでは「都市化」が進んでいた。そのため、エジプトやメソポタミアをはじめとする多様な文化や文明の影響を受けており、その中には藍染めや織物、刺繍の技法も含まれている。
パレスチナは、オスマン帝国(14世紀から20世紀まで存在し、小アジアを中心に勢力を拡大したイスラム教の大帝国)によって16世紀以降支配されていたが、帝国末期の100年間で刺繍のデザインは確立し、女性のコミュニケーション・ツールとして広く普及していった。
第一次世界大戦中のイギリスは中東問題をめぐる外交政策として、ユダヤ人、パレスチナ人を含むアラブ人、フランスに対してそれぞれ異なる約束をした、所謂「三枚舌外交」を行った。その結果アラブ人にオスマン帝国に対する反乱を起こさせたが、大戦終結後、パレスチナはイギリスの委任統治領となった。
第二次世界大戦後の1948年にイスラエル建国宣言を受けて、第一次中東戦争が勃発し、多くのパレスチナ人が土地を奪われ、刺繍をする余裕もなくなった。
[8]パレスチナ・ヨルダン川西岸地区は、1993年のオスロ合意に基づき「パレスチナ自治区」となった。しかし、60%以上の土地をイスラエル軍の支配下に置かれており、2002年以降、イスラエルとパレスチナを隔てる巨大な分離壁が建設され、常に監視されている。また、移動の制限、水や電気の制限もされている。
[9]1948年5月24日に、ダヴィド・ベン=グリオン(初代首相)によってイスラエルの独立を宣言し、建国された。
[10] 国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)は、1950年に「Sulafa」という刺繍プロジェクトを立ち上げた。これは、パレスチナ難民の女性たちが刺繍を通して収入を得、また、伝統文化や技術を次世代に継承する活動。
[11]国際連合教育科学文化機関=ユネスコで2003年に『無形文化遺産の保護に関する条約』が採択され誕生した。「この条約は無形の文化遺産の価値を認識し、国際社会が協力して人類の遺産として保護し、未来へと受け継いでいくことをめざしたもの」(七海ゆみ子『無形文化遺産とは何か』彩流社、2012、7頁)。
[12] 蒲生裕恵「パレスチナ女性の教育と労働 一紛争下の日常生活をめぐって」『岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要』第27号、2009年
[13]こぎん刺しは津軽の農村地方、現在の弘前市を中心とする狭い地域でのみ行われていた技法である。岩木川を境に東こぎんと西こぎん、三縞こぎんの3つの模様が生み出された。
[14]弘前こぎん研究所監修『津軽こぎん刺し 技法と図案集』誠文堂新光社、2013、9頁。
[15]思想家、柳宗悦(1889-1961)は、民衆が日常的に使用している道具の中に美の世界を見出した。1925年に「民芸」(民衆的工芸)という新たな言葉を作り、重要視されてこなかった日曜雑器に価値を見出そうと始められたのが民芸運動。
[16]ナクバはアラビア語で「大災厄」の意味。1948年のイスラエル建国を巡る戦いによって、難民となったことを想起する日(5月15日)。
【参考文献】
泉山幸代著『パレスチナの民族衣装について:型・刺繍技法を中心に』北海道短期大学研究紀要、1990年
蒲生裕恵「パレスチナ女性の教育と労働 一紛争下の日常生活をめぐって」『岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要』第27号、2009年
七海ゆみ子著『無形文化遺産とは何か ユネスコの無形文化遺産を新たな視点で解説する本』彩流社、2012年
パレスチナの女性を支援する会『サラーム』パンフレット、2015年、2022年
道明美保子監修『国別 すぐわかる 世界の染・織りの見かた』東京美術、2004年
誠文堂新光社編『アジアのかわいい刺繍』2013年
山縣良子著『クロス・ステッチの世界 パレスチナ刺繡 解説編』駱駝舎、2018年
山縣良子著『クロス・ステッチの世界 パレスチナ刺繡 モチーフ編』駱駝舎、2018年
山本真希著『パレスチナ刺繍とは』中東常緑センターニュース、2020年
『聖書 新共同訳―旧約聖書続編つき』日本聖書協会、1993年
川守田礼子「青森県の刺し子『南部菱刺し』に関する文献研究」『八戸工業大学紀要』、2021年
鈴木真枝、石田舞子、小畑智恵編『そらとぶこぎん 第5号』津軽書房、2021年
弘前こぎん研究所監修『津軽こぎん刺し 技法と図案集』誠文堂新光社、2018年
・「イドナ村女性組合」設立者 水元敏子氏対話インタビュー(取材日:2022年5月8日)
・「イドナ村女性組合」設立者 水元敏子氏電話インタビュー(取材日:2022年7月1日)
・パレスチナこどものキャンペーン:「ヨルダン川西岸地区」を知ろう
https://ccp-ngo.jp/palestine/westobank-inhormation/ (確認日:2022年7月7日)
・オンラインイベント:パレスチナ子どものキャンペーン「UNESCO無形文化遺産『パレスチナ刺繍とは』」、於「SDGsよこはまCITY 夏」(よこはま国際協力・国際交流プラットフォーム運営委員会主催)、Zoomにて参加(取材日時:2022年7月2日11:00-12:00)