埼玉県出雲伊波比神社に伝わりつつ”けられる流鏑馬神事の考察について
1.流鏑馬神事の歴史
我が地元にある埼玉県入間郡の臥竜山上に鎮座する出雲伊波比神社は、第12代景行天皇の時代に倭建命が東国から凱旋した際に立ち寄り、天皇から賜ったヒイラギの鉾を納め社宝とし、大己貴命を祀って侍臣武日命に命じて創祀させたといわれている。また、江戸時代まで「飛来大明神」や「毛呂明神」とも呼ばれていた。その後、埼玉県最古の神社として昭和13年に国宝に指定されており、昭和28年には国指定重要文化財となっている。
流鏑馬神事は、もともと化政期には八幡社と飛来大明神社の二つが建っており、それぞれの流鏑馬神事がちがう日におこなわれていたため、春と秋に開催されることになったのである。伝承によると康年6年(1063)源義家が奥州征伐の凱旋の際に当地を訪れ、戦勝のお礼として八幡社を建て、流鏑馬を奉納したのが始まりとされている。また、平成17年3月には埼玉県により無形民俗文化財に指定されている。
2.基本データ
流鏑馬神事は毎年春と秋に開催されており、春は3月第2日曜日、秋は11月3日、祝日文化の日と決められている。
春におこなわれる流鏑馬は、「7つまでは神の子」とされ、馬に乗る乗り子は7歳までの男の子がおこない、白・紫・赤の3色でつくられた花笠と赤い陣羽織を着て、静止している馬上から的に一本だけ矢を射る「願的(がんまとう)」がおこなわれる。
秋の流鏑馬では、15歳前後の長男の男子が射手をつとめ、祭礼区とよばれる3つの地区から各一頭ずつ出された馬を、一の馬(白で源氏を表わす)、二の馬(紫で藤原氏)、三の馬(赤で平氏)と呼び、一の馬が最優位にたち、祭りをリードする。
午後2時頃になると、華やかに盛装した一行があらわれ、一の馬によって神頭といわれる矢を一本だけ射る「願的」がおこなわれ、そのあと3頭による矢的(やぶさめ)がおこなわれる。矢的のほかにも扇子やノロシといった長い紙帯をなびかせて走ったり、袂にみかんを入れてまきながら馬場を駆け抜けたりと日没まで馬上での芸がおこなわれる。また、流鏑馬神事は武士の稽古、出陣、合戦、凱旋といった一連の様子も表している。
射手のほかにも乗り子や馬の世話をする「口取り」が各祭礼区から若者たち10~15人ほど出され、弓、鞍を持つ「矢取り」も祭礼区の年配者各1名が出され、すべて忌み事のない家から選ばれるのである。
3.流鏑馬神事に対しての評価
毎年おこなわれている流鏑馬神事は、毛呂山町の住民や近隣住民など、さまざまな地域からも見学に訪れ、人々のこころのよりどころになっている。また、見学する側だけでなく、行事
を作る側にもこころのささえになっているのではないだろうか。
見る側は一日や二日の数時間見学すれば終わりだが、作る側は一日や二日で終わらないのである。流鏑馬神事がおこなわれる約2ヶ月前から地域の人たちの協力で、さまざまな作業が始められているのである。
流鏑馬に必要な弓、馬、的、着物、といった祭具作りは一日や二日ではできない。ましてや町の人たちの協力がなければ、流鏑馬をおこなうことは不可能なのである。
祭具だけでなく、ほかにも馬の口取りといった「お清め」、神事をおこなう者の「お祓い」と「みそぎ」、等々が町の関係者によってとりおこなわれている。これらはすべて行事が始まる前にやることで、また、行事が終われば片付けるといった作業もおこなうので、作る側にとっては大変な作業といえる。
これらの行事をおこなうことで、何かしらの犠牲を払わなければならないこともあるのではないだろうか。作業する日に参加できない用事もでてくるだろう、体調が悪い日も中にはいるのである。すべてが順調で終わることはないのだが、それを見る人に何事もなかったように神事を終わらせる人たちの苦労が慮られる。
4.他の同様の事例と比較することの意義
流鏑馬神事は全国各地でもおこなわれているが、流鏑馬に限らず馬を使ったお祭りが福島県南相馬市の「相馬野馬追」という祭りが存在する。
このお祭りは、平安時代中期に平将門公(相馬小次郎)が下総国葛飾郡小金原の牧で野馬を捕らえて、御神馬として神前に奉納したのが由来とされ、現在まで受け継がれている。
馬追も流鏑馬とおなじような儀式から神事がはじめられる。神社に参拝し、みんなで祝杯をあげ、準備が整うと大将からの出陣の命令が出され、軍者による振旗を合図にいざ、出陣となる。総勢約400人からなる軍者と馬による迫力あるお祭りである。また、昭和53年には国の重要無形文化財に指定されている。
このお祭りは3日間開催され、中でも2日目の本祭りでは、400騎余りでの神輿を上げて街中を進軍する「お行列」や騎馬者による「甲冑競馬」、さらに神旗を奪い合う「神旗争奪戦」が繰り広げられ、まるで、平安時代にタイムスリップしたかのような光景である。またまわりには大勢の観客が見物におとずれており、その騎馬者たちを見守っている。
この相馬野馬追は総勢約400人と規模が大きく、毛呂の流鏑馬では一の馬、二の馬、三の馬といった3頭だけで行うが、どちらも神事を行う上で事前の準備などがあり、祭りの規模にかかわらず、作る側の苦労が伴うのである。どちらにもさまざまな苦労があり、また、どちらにもそのお祭りを楽しみにしている大勢の人たちがいるのである。むかし、人に言われた言葉がある「他と比べない」である。比べることの意義とは、なにごとにも意味があり、すべてにおいて唯一無二の存在と受け止めることではないだろうか。
5.今後の展望について
毎年おこなわれている流鏑馬神事だが、昨年はコロナの影響で中止となり、またこれから先も感染拡大が起これば開催されるかは未定であり、このような事態は世界中でいま現在騒がれている状況である。どこにも今後、このような事態がおこらないといった確かな確証があるわけではない。
こういった思いもよらない事態が起こることも念頭に置いて、いつ、何が起こっても対応できる状態を備えておくことが必要である。
コロナウイルスの影響だけでなく、人口減少によってさまざまな行事が中止や廃止といった問題もあり、全国の町村の過疎化も深刻な状況にある。町村に若者がいないために行事や祭りごとを引き継ぐことができない状況である。
町村の過疎化によって次々と消えていく町の風習やしきたり、祭りごとなどが人口減少によって引き起こされてしまうのである。このまま人口減少が続けば、まちがいなく各地域の祭りごとなどが無くなってしまうだろう。いや、祭りごとだけでなく、町そのものが消えてしまうおそれもある。過疎化による吸収合併で町と町が統合され、ひとつの町が失われてしまう可能性も否定できない。人口減少問題解決に向けて、日本人全員が取り組むべき課題ではないだろうか。
6.まとめ
これらの神事、祭りごとが人口減少などの問題によって、各地域で年々減少していくことの寂しさが感じられるが、残されている風習や祭りごとを維持継続していくことの難しさも感じられる。また、コロナウイルスの影響がまだまだ残されている状況にあるが、一人ひとりが知恵や情報をもとに、いまの状況を乗り越えていかなければならないし、また、人口減少問題や行事運営に係る費用などの問題もあるが、数百年続いている行事、祭りごとを絶やすことがないように努めていかなければならない必要性を感じる。そして、地域住民のこころの支えとしてこれからのさらなる発展を期待している。
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「矢的(やぶさめ)」を表現した銅像が飾られている
2022年6月23日、毛呂山歴史民俗資料館にて筆者撮影 -
一の馬、二の馬、三の馬で流鏑馬がおこなわれる。乗り子である男子は小中学生の長男が選ばれている。前に立っているのは馬の世話をする「口取り」といわれる人たち。
2022年6月23日、毛呂山歴史民俗資料館にて筆者撮影 -
馬の「口取り」、ミタラセ池で馬の口をすすぐとされるお清めの儀式
2022年6月23日、毛呂山歴史民俗資料館にて筆者撮影 -
相馬野馬追から「神旗争奪戦」の様子
相馬野馬追公式サイトより引用 2022年7月8日
https://air-u.kyoto-art.ac.jp/airU/schooling/attend/homework-submission/8119100011 -
野馬追の最後におこなわれる「野馬懸」の行事。白装束を着た御小人たちが素手で馬を追い捕らえ、神馬として神前に奉納する。
相馬野馬追公式サイトより引用 https://soma-nomaoi.jp/about/gallery/ 2022年7月8日
参考文献
毛呂山歴史民俗資料館編『やぶさめ紀行ー毛呂の流鏑馬 児のやぶさめ』(株)文化新聞社、平成18年11月3日
埼玉県民俗芸能調査報告書第5集『毛呂の流鏑馬』埼玉県立民俗文化センター、昭和61年3月26日
毛呂山郷土史研究会発行「あゆみ」第34号、平成22年5月1日、
相馬野馬追公式サイト『相馬野馬追』 https://soma-nomaoi.jp/ 2022年7月8日
南相馬市公式サイト 『相馬野馬追』https://www.city.minamisoma.lg.jp/tourist/events/nomaoi/index.html 2022年7月8日