今こそ見直したい石見焼 〜愛らしい台所の働き者〜
陶器製の水甕や蓋壺は、高度経済成長期前まで人々の生活を支える道具であった。台所では井戸水を汲み置いたり、味噌や梅干しは各家庭で作ることが多く醸造用や漬物・塩など様々な食品の保存容器として、また屋外では雨水の貯水や堆肥用など、使い方は様々に生活必需品だったのである。このような日本各地の暮らしの需要に応えたのが島根県の石見焼だ。ここでは、石見焼および伝統的な石見焼を作り続けている吉田製陶所の調査報告と今後の展望について考察したい。
1.石見焼とその歴史
石見焼は島根県西部にある石見地方の焼き物の総称で、平成6年(1994)に経済産業省指定の伝統的工芸品に指定された。古くからある代表的なものは、来待釉という赤茶色の釉薬に黒色の流し掛け模様の大型から中型の「はんど」と呼ばれる大きな甕・蓋壺(以下、壺とする。)・すり鉢や、透明の長石釉に青色の流し掛けの壺・片口・こね鉢で、これらを「石見の丸物」と呼んだ(註1)。石見地方には良質の粘土が豊富にあり、耐火度が高いため1300度の高温焼成が可能で、緻密で石のように堅牢な陶器ができる。その性質は水・酸・アルカリ・塩に強く、食品の醸造・保存容器に適しており、また庭や畑など野ざらしでも物ともしない強さが特徴である。
始まりは不明な点も多いが18世紀中期頃とされており、「はんど」に代表される大物の技術は備前からもたらされ「しのづくり」(註2)が確立した。19世紀初頭からは、北海道から九州・大阪へと物資を積んで商いをした西廻りの北前船によって各地へ流通するようになった(註3)。流通が増加した明治36年(1903)には組合が成立し規格化・量産化され、大正10年(1921)の浜田駅開業以降は鉄道輸送され更に販路が拡大し、昭和30年頃まで盛んに流通した。しかし、戦後アメリカナイズされた日本の生活にはプラスチックやポリエチレンの容器が出現し、上下水道が整備されると水甕や壺の需要は激減した。多くの窯元が廃業するか、または食器や大物技法を生かした傘立てなどの民芸陶器に転向し生き残りをはかることとなった。昭和12、13年(1937、1938)の最盛期には103軒あった石見焼の窯元は、現在7軒である(註4)。今では各窯元が、それぞれの個性で民芸陶器や大物技術を生かした風呂釜などを作り石見焼を守っている。
2.一途に伝統を貫く吉田製陶所の評価
(1)手作りの日用品
このような中、伝統的な流し掛け模様の甕や壺を一途に作り続けているのが吉田製陶所である。吉田製陶所は、昭和28年(1953)に初代が浜田市の現所在地にある丸もの工場を買い取り開窯し、当代の吉田好幸さんで三代目である。主に、5斗以下の水甕・5升から卓上用サイズまでの壺・切立(きったて)(註5)・こね鉢・片口・すり鉢と、伝統的な石見の丸物を、きめ細かい粘土作りから行っており、7年前から丸物は吉田さんが一人で作っている(註6)。
3升切立の製作工程を見せてくれた。「しゃくし」というヘラを添わせて一気にろくろ成形する。3升の大きさで3分、5升を5分の速さで仕上げるのが石見職人の習わしだという。また、素焼きをせずに釉薬を掛ける「生掛け」という製法で、素焼きの時間と燃料費が不要となる(註7)。吉田さんの製法は、石見の丸物づくり元来のスタイルを継承している点でも貴重である(註8)。
良質な土に恵まれ、無駄を省いた作業工程と石見焼職人の手早い技術が伝承されているからこそ、今もなお手作りで高品質なものを低価格で提供できているのだ。
(2)心和ませる愛らしさ
吉田さんの丸物の多くは温泉津長石が原料の透明釉を全体に用い、酸化コバルトで流し掛けの模様を施す。焼成すると、黄味がかったベージュに模様は落ち着いた青色を呈する。この配色は、和洋折衷の文化が花開いた大正時代に東京で最も人気だった石見焼の色である(註9)。現代の目で見てもシンプルで、私達の生活にも馴染むのではないだろうか。
秦秀雄(1898−1980)(註10)は著書『古伊万里図鑑』で、17世紀に日用雑器として作意なく作られた初期伊万里焼を賛美している。「普段着のままの平常心をもってひとつ古伊万里をながめてみよう。そうするとそこには、何も屈託のない自由な陶工の世界があることに気づくであろう。」(註11)と、鑑賞の心得を述べている。また、初期伊万里の魅力について「鑑賞用の美術品ではなく、使われるための丈夫な日用雑器で、職人の手で手早く、安く、数多く作ることでエネルギッシュな作品となり、自由で健康な美しさと歴史が潜んでいる。」(註12)と述べているが、これは吉田さんが続ける丸物作りにも当てはまると言える。規則的なデザインの中に、形やろくろ目、生掛けならではの釉薬の表情、模様の流れ方に違いがあり趣きを与えているのだ。
品質は頼もしくあり、楚々として温かみのある愛らしい佇まいは器としての魅力を備えていると言えるのではないだろうか。
3.他産地の陶器壺と石見焼の比較
筆者が住む地域のホームセンターに陶器壺が売っている。赤茶色の地色に、黒色で流し掛けのような模様が施されており石見焼に似ているが、型成形で、ペンキを塗ったようにのっぺりとした色は鑑賞に耐えるものではない。商品には、「陶器の性質として漬物をつけている時に容器の表面に塩が滲み出る場合がまれにありますが、有害物質の溶出等は一切ありません。」と注意書きがあり、海外製品のものだった。
国産も含めて、多くの陶器壺は長期間の塩分に耐えられずに染み出してくるものが多いという。「民藝の先生」と言われた久野恵一(1947−2015)も「塩の保存に耐えられるのは、石見地方で作られた陶器だけだった。」と著書で述べている(註13)。
硬く焼き締まり、水・酸・アルカリ・塩に強い他に類を見ない石見焼の品質は特筆すべき点で、200年以上日本各地で使用されてきた実績があり安心して使用できるのだ。
4.今後の展望
(1)発酵食品を支える道具
健康志向や新型コロナウィルスの影響もあり、免疫機能を上げるために発酵食品が見直されている。自宅で過ごす時間に自家製の味噌作りは人気になったが、手軽さのためプラスチック容器を使っている場合が多い(註14)。
陶器の壺は発酵に適しており、光を遮断し食品の劣化を防ぎつつ発酵に必要な酸素をわずかに供給し、外気温の急激な変化から守りながら上手く熟成してくれる。せっかく時間がかかる発酵食品を作るのであれば、安心して熟成を任せられる石見焼は最適な容器と言える。
「和食;日本人の伝統的な食文化」は平成25年(2013)にユネスコ無形文化遺産に登録された。和食において発酵食品は旨味を作り出し健康に良い重要な要素であり、それを支える伝統的な道具がもっと重視されるべきではないだろうか。
(2)エコな容器
また、プラスチックが無かった時代に台所で使われていた容器の多くは陶器製であった。プラスチックごみの問題が叫ばれる昨今、身近な容器から変えていくといった個々の消費者の小さな行動が大きな変化に繋がるのではないだろうか。環境問題や人を含む生物への影響を考えた時、安全で丈夫で長持ちする石見焼はこれからの時代に合った容器と言えよう。
ーおわりにー
味噌作りの季節になると、吉田製陶所には国産の壺を求めて問い合わせがくるという。個人のお客さん、50軒ほどの問屋、展示販売会用の製作や発送作業等を一人でこなす吉田さんはいつも大忙しだ。とはいえ、関東に住む筆者の周りでは残念ながら石見焼の認知度は低く、扱っている店はごく稀である。どこかで見たことがある赤茶色の甕を知っている人は多いだろうが、使用している人、堅牢な陶器であること、それが「石見焼」だということを知っている一般の人は少ないだろう。かつて日本中が石見焼の実力を知り生活に取り入れたことを考えると、一部の陶器ファンや料理好きに認知されているだけが石見焼の実力ではないはずだ。脱消費社会とエコ生活実践の必要があるこれからの時代の容器として、再び日本各地の家庭に浸透し得るのではないだろうか。
現在、窯元7軒のうち後継者がいるのは3軒で、吉田製陶所に現時点ではいない。多くの人に認知され愛用者が増えることで、石見焼を作りたい職人が石見内外から出現し、伝統的な石見の丸物がこの先も継承されていくことを願う。
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【写真1】浜田市松原湾から撮影した外ノ浦入り口(2022年1月17日、筆者撮影)
ここから北前船で多くの石見焼が積出された。(註3参照) -
【写真2】吉田製陶所(2022年1月17日、筆者撮影)
築120年以上の工場で、ろくろ成形をする場所。石見地方特産の石州瓦に土壁、内部は土間。 -
【写真3】ろくろ成形(2022年1月17日、筆者撮影)
三升切立を3分で作る早業。 -
【写真4】成形後の乾燥(2022年1月19日、吉田好幸さん撮影)
半日で成形した数は70個。 -
【写真5】流し掛け(2022年1月17日、筆者撮影)
全体に釉薬をかけた後、3ヶ所に刷毛で模様をつける。 -
【写真6】窯出し(2022年1月7日、吉田好幸さん撮影)
中国地方では珍しい7.5㎥の大きなガス窯で焼成する。上段にある赤茶色の甕が来待釉で、ベージュ色が温泉津長石釉。丸模様も昔からある柄である。 -
【写真7】粘土づくり(2022年1月17日、筆者撮影)
原土を水に晒す水簸(すいひ)を行なった後、フィルタープレスで約6時間かけて脱水する。 -
【写真8】筆者愛用の小壺(2022年1月27日、筆者撮影)
自家製味噌を小分けにする容器として、また、梅干しやティーパックを入れて使用している。
参考文献
【註】
・註1:石見地方は堅牢な石州瓦の産地でもあり、瓦に対してはんどや甕、蓋壺、片口、こね鉢などを「丸物」と言った。また、来待釉を使ったものは「赤もの」、長石釉を使ったものは「白もの」と言った。
・註2:しのづくりは石見焼の大物づくりならではの製法で、ろくろの上で棒状の粘土を巻き上げて成形と乾燥を繰り返し、2〜4段ずつ継ぎながら作っていく製法。
・註3:浜田市の松原湾に続く外ノ浦は山に囲われた細長い入江で、日本海が荒れた時の風待ちや中継港として浜田藩最大の貿易港であった。島根県立古代出雲歴史博物館『いわみもの』企画展図録 P71によると、外ノ浦にも多くの窯場があったという。(写真1)
・註4:石見陶器工業協同組合加盟の窯元数。
・註5:吉田さんによると、切立は昭和40年頃から作られ始めたという。壺より丸みが無く垂直な形で、蓋に突起がなく水平なので重ねて使用することができる。
・註6:食器、花器、ワインクーラーなど注文に応じて作ることもある。かつては4名がろくろに向かい、補助する人もいた。7年前に従業員の職人が高齢で辞めてからは、吉田さんが一人で作っている。粘土作りは先代の弟さんが週3回半日手伝いに来る。
・註7:食器など薄く作る小物は吉田さんも素焼きをする。現在、石見焼でも民芸陶器を作成する窯元の多くは素焼きを行っている。
・註8:昔は登り窯で焼いていたが、石見の登り窯は大物を大量に作っていたため大き過ぎて現在の生産状況と見合わずガス窯を使用している。吉田製陶所にも11室ある大きな登り窯があるが使用していない。
・註9:島根県立古代出雲歴史博物館編 企画展図録『いわみものー暮らしを形づくる石見のやきもの』、島根県立古代出雲歴史博物館 、2016、P82
・註10:秦秀雄は、古美術の目利きとして青山二郎、小林秀雄、白洲正子、北大路魯山人、柳宗悦らに信頼された人物である。
・註11:秦秀雄著『古伊万里図鑑』、ちくま学芸文庫、2020年、 P172
・註12:註10同書内で散り散りに述べられている初期伊万里の魅力を抜粋し列挙した。
・註13:久野恵一著、杉村貴行編『残したい日本の手仕事』、枻出版、2016 p70
・註14:味噌作り教室やウェブの動画投稿、市販の味噌作りキットを参照した。
【参考文献】
島根県立古代出雲歴史博物館編 企画展図録『いわみものー暮らしを形づくる石見のやきもの』、島根県立古代出雲歴史博物館 、2016
島根県古代文化センター編『近世・近代の石見焼の研究』、島根県教育委員会、2017
佐々木達夫編『陶磁器の考古学 第八巻』、雄山閣、2018
金子健一編『日本の伝統工芸ー受け継がれる匠の技』、山陰中央新報社、1996年
平田正典著『石見粗陶器史考ー原点の模索と丸物師の生活史』、石見地方史研究会、1979
平田正典著『異色石見焼祕帳ー石見焼陶工の裏芸の世界ー』、平田正典、1991
神崎宣武著『47都道府県やきもの百科』、丸善出版、2021
秦秀雄著『古伊万里図鑑』、ちくま学芸文庫、2020年
久野恵一著、杉村貴行編『残したい日本の手仕事』、枻出版、2016
久野恵一著『日本の手仕事をつなぐ旅 うつわ②』、グラフィック社、2016
熊倉功夫、吉田憲司共著『柳宗悦と民藝運動』思文閣出版、2005
日本民藝館監修『民藝の日本』、筑摩書房、2017
福井新聞オンライン(最終閲覧2022年1月26日)
https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/-/1436761
無印ネットストア(最終閲覧2022年1月26日)
https://www.muji.com/jp/ja/store/cmdty/detail/0280001004964
五味醤油HP (最終閲覧2022年1月28日)
https://yamagomiso.shop-pro.jp/?mode=cate&cbid=940468&csid=0
マルコメ オンラインショップ (最終閲覧2022年1月26日)
https://www.marukome-shop.jp/shop/pages/misokit.aspx
Google「手作り味噌」動画投稿検索ページ(最終検索2022年1月28日)
農林水産省HP (最終閲覧2022年1月26日)
https://www.maff.go.jp/j/keikaku/syokubunka/ich/
【取材協力】
吉田製陶所 吉田好幸さん
雪舟窯 福郷生雲さん
雪舟焼窯元 二代目福郷徹さん
石州宮内窯 宮内孝史さん
尾上窯 螺山勝實さん