「文化資産評価報告書」 テーマ:: 神戸市立御影公会堂(登録有形文化財)

中村 美奈子

1) はじめに
今回とり上げる御影公会堂は白鶴酒造株式会社七代目嘉納治兵衛(1862-1951)によって御影町の発展と地域社会活動の活動拠点として資材を投じて建設されたものである。公会堂以外にも嘉納家は御影地域の教区の発展のために幼稚園、小学校、中学校などをまとめて建てるよう貢献したのだった。また治兵衛の親戚である嘉納治五郎(1860-1938)は柔道の祖と言われているが、私立灘中学校を建設することに尽力したのである。
このように1酒造会社が御影の街の発展に尽力をつくしたことにより現在の御影の街が成り立っていることから、嘉納家の歴史を調べ、御影公会堂の成り立ちと意義を調査してみたのである。
2) 酒蔵の街 御影郷
  まずは嘉納家が酒造で成功するまでのいきさつから調べてみた。
1655年頃、摂津・御影村の生魚屋次郎太夫宗徳(後の嘉納家始祖)はまだ25歳で2町近くの田畑を持ち網元も兼ねる地元の期待の星だった。海では兵庫の船問屋と競って回船業に進出し、陸では西宮の運送業者と手を組んで荷物の運搬をやっていたのである。チャンスとなればいろいろな事業に興味をもつ野心家だった。
江戸時代の初期に、伊丹の山邑太左衛門が辛口の酒を酒造して「下り酒」として江戸に船で酒を運んで儲けていたのである。そこに目をつけた宗徳は同じように酒を造ることにしたのだが、伊丹の山邑家と同等の辛口酒はなかなか造ることができないでいた。酒造りで大事なものは、米と水である。米に関しては(お酒の原料である「うるち米」)お酒の原料として適しているでんぷん質が多いものとして摂津米、播州米がごく近接したところで収穫されていることにより手に入りやすかった。しかし水に関しては、そこそこの井戸を掘ったとしても山邑太左衛門の造る桜正宗には追い付かなかった。実は今でこそ普通に灘の酒といえば「宮水」と呼ばれているが、当時考えも及ばず宗徳はいろいろ研究した結果、西宮一帯からでる井戸水を使うことにより辛口のスキッとしたお酒ができることを発見したのである。
宗徳は.御影の地で酒造を始めるにあたって鎌倉時代に御影の地では沢の井の水でお酒を造って後醍醐天皇に献上した結果、喜んで受け取って(嘉納)もらったことの故事にならって自分の姓を「嘉納」と名乗ることで商売繁盛を願ったのである。以後宗徳は嘉納治兵衛と改名した。嘉納治兵衛は1659年に山邑家の桜正宗に対して菊正宗という商標で酒造蔵を建て(魚崎郷)本嘉納家と命名。二代目嘉納治兵衛良西の時代にはそれまでの材木屋などの稼業をやめ酒造を稼業とした。1743年には嘉納次郎右衛門に稼業を譲ったのち末っ子を分家し御影郷に白鶴酒造(以後白嘉納と呼ばれる)を創業したのである。
 のちに御影公会堂の創設者である7代目嘉納治兵衛(1862-1951)は奈良県出身で旧姓を中村正幸といい、明治20年6代目嘉納家長女と結婚し明治22年に7代目嘉納治兵衛を襲名したのである。加納治兵衛は御影公会堂以外にも1931年に白鶴美術館を設立し、桜正宗との共同出資で灘中学校の設立にも尽力したのである。

3) 御影公会堂建物の詳細
基本データ
 名称 神戸市立御影公会堂
 住所 神戸市東灘区御影石町4丁目4-1
創設者 白鶴酒造 7代目嘉納治兵衛
管理運営 神戸市東灘区役所
敷地面積 3126㎡
構造   地上3階、地下1階、塔屋  (別紙フロアマップ参照)
設計者  清水栄二(清水設計事務所)
竣工   1933年5月20日
国の登録有形文化財(2018年5月10日登録)

①建設に至るまでの過程
  嘉納家の敷地内に建てられた「御影町公会堂」は御影町の発展と地域社会活動の活動拠点として昭和8年(1933年)5月に完成。落成式典は綱島天満宮の祭礼と合わせて御影町のだんじり8基が運行し、新たな御影町のシンボルとなった。
費用については嘉納治兵衛氏が20万円出資、寄付金と御影町費より4万円の計24万円で現在の価値で換算すると約4億8000万円である。
 設計者は清水栄二氏(1895-1964)で東京帝国大学工学部建築科を卒業後1921年から1926年まで神戸市役所で初代営繕課課長として勤めていたが1926年に独立し、神戸市から依頼されるいろいろな建物を手掛けることになったのである。その中の一つが御影公会堂でアールデコを交えたモダンなデザインで船をイメージして設計したといわれている。大ホールの収容人数は430人で国際会館ができるまでは神戸で一番大きなホールとして認識されていた。また清水氏は大学時代に関東大震災の研究をしていたことから、御影公会堂も耐震についてよく考えられて建てられたのである。そのおかげで1995年の阪神・淡路大震災では震度7のゆれに対してもびくともせず窓ガラスの破損のみで建物自体の被害はなかったのである。

②改修工事について
 改修工事は建築されてから90年の間に2回行っている。1度目は第二次大戦後、2度目は阪神・淡路大震災後である。1度目は昭和20年の神戸大空襲時で外壁と内部(地下1階および1階の一部を除く)が消失していたが御影町に自力で修復する財力もなかったのでしばらくは放置されていたのだが、2年後消失を免れた部分を利用して御影幼稚園の仮園舎として利用された。(24年まで)その後昭和25年に神戸市が政令都市となったことにより御影、住吉、魚崎等が合併して東灘区となり、神戸市の予算で、昭和26年から31年にかけて改修工事が行われた。予算は約7000万円、現在に換算すると約5億円である。この改修により御影公会堂は神戸市立となったのである。
 2度目は平成28年(2016年)から翌29年3月という工期で耐震・改修工事を行った。改修内容は外壁の修理と塗装のやりなおし、エレベータの設置とバリアフリー化、玄関を開き戸から自動ドアに変更、そして地下には柔道の創始者「加納治五郎コーナー」を作ったのである。2度目の改修については、神戸市からの予算の問題もあって建物自体の存続も危ぶかったのだが国の登録有形文化財の指定になるということで補助金もでるということで改修工事をすることになつたのである。2018年5月に登録有形文化財の指定を受ける。

③ 戦後から現在までの公会堂の利用状況
 昭和32年11月に地下一階に市民総合結婚式場が開設され簡素で安価な結婚式場として多くの市民に利用された。結婚式の費用は平均3000円で、一番安いプランでは神主さんではなく館長がとり行うこともあったといわれる。それでも1日8組、ピーク時は年間1000組を超えたといわれている。昭和58年8月の閉鎖までには挙式総数2万組もあったのである。実は私の叔父さんもこの公会堂で挙式を挙げたのを覚えている。
 御影町が大正時代から主催していた「尚歯会」(しょうしかい)は地域のお年寄りに年一回演芸などを鑑賞して楽しんでいただく会で御影公会堂ができてからは公会堂のホールで行われるようになり、現在では演芸だけでなくお土産もついて神戸市の主催で行われている(主に70歳以上)。
 そして2度目の改修工事後は、それぞれのホール及び部屋などを安価な料金で周辺住民に利用してもらっている。例えばそろばん教室とかソーシャルダンスの教室とかお茶、お花など様々なお稽古事に利用されている。
4)おわりに
 ここまで調べてみて、御影公会堂もさることながら灘五郷についてもかなり興味をもってしまった。本当に御影郷がほんの近くにあること、弟が菊正宗に勤めていることから酒造会社の話はかなり知ってはいたものの今回御影公会堂建設に白鶴酒造が貢献したことについて驚いていると同時に加納治五郎記念コーナーがなぜあるのかわかってよかったと思ったのである。

  • 1_1_%e8%b3%87%e6%96%99_page-0001 御影公会堂内部写真(2020-10-21 筆者撮影)
  • 1_2_%e8%b3%87%e6%96%99_page-0002 御影公会堂内部写真(2020-10-21 筆者撮影)
  • 2_%e5%b7%ae%e6%9b%bf_%e3%83%95%e3%83%ad%e3%82%a2%e3%83%9e%e3%83%83%e3%83%97_page-0001 御影公会堂フロアマップ(御影公会堂hpより)

参考文献

https://mikage-kokaido.jp/ 御影公会堂ホームページ
「御影公会堂資料」 著:神戸市立御影公会堂 事務局 杉本憲一さん(インタビュー含む)  『加納治五郎』 著:道谷卓(東灘区役所記念事業実行委員)
『生一本 灘五郷-人と酒』著:神戸新聞社社会部 長谷正行
出版社:神戸出版センター 昭和57年11月⒑日
『灘の酒』のじぎく文庫 著:中尾進彦 
出版社:神戸出版センター 昭和54年7月1日

『灘の酒 用語集』名酒研究会 昭和54年10月1日

『灘五郷歴史散歩-日本酒のふるさと』 著春樹一夫 出版社:創元社

(2021-1 参照)
http://www.hakutsuru.co.jp/community/ 白鶴酒造株式会社ホームページ
https://www.kikumasamune.co.jp/ 菊正宗酒造株式会社ホームページ

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