文化資産としての長崎くんちの伝統と継承
1.はじめに
「長崎くんち」(以下くんち)は、毎年10月7日~9日の3日間におこなわれる長崎の氏神「諏訪神社」の秋季大祭である。くんちでは、「踊町」と呼ばれるその年に奉納踊りを披露する町があり、現在、長崎市内に全部で59ヶ町存在し、7つの組に分けられている。奉納踊りは,各町工夫を凝らしたものとなっており、長崎独特の文化を伝えるものとして、昭和54年2月に国の重要無形民俗文化財に指定されている。
本稿では、380年余の伝統を誇り、長年受け継がれてきたくんちの伝統と継承及び、くんちにおける長崎市民の郷土愛を、文化資産の評価対象として考察する。
2.くんちの概要
2-1.くんちの起源
くんちの始まりは、江戸時代の寛永11年(1684年)9月」7日に、二人の遊女が諏訪神社に舞を奉納したことと言われている。神輿渡御には銀屋町など11町が御供町として従い、大波止に設けられたお旅所にて湯立神事が行われ、9月9日には榎津町など10町を御供町とし神輿は滞りなく還御された。
「くんち」の語源は、「旧暦9月9日の重陽の節句に合わせて祭りを行うことから、9日をくんちと呼ぶ。神事ということで『お』と尊称を付して呼ぶこともあり、『お宮日』とあてることもある」(註1)と諸説ある。
2-2.歴史的背景
1571年に開港して以来、キリスト教の普及が盛んになり、長崎の住民の多くはキリシタンであった。キリシタン大名の大村純忠(1533~1587)がイエズス会に長崎を寄進したことから、寺社の全てが焼き払われるなどキリシタンの勢力は強かった。その後、徳川幕府のキリスト教禁止令により、長崎の町には神社仏閣が建てられ、キリシタン弾圧が次第に強まり、南蛮貿易により利益を得ていた町の人々や貿易商人の立場は微妙なものとなった。長崎奉行は諏訪神社の神事を長崎町民の神事と認定することで、長崎の住民をすべて諏訪神社の氏子とし、くんちへの参加は義務とされた。
3.くんちの構成
諏訪神社の祭礼は、主に、神職によって古式に則り厳粛に執り行われる「神事」と、氏子が日頃の神様の御加護に感謝して神前に供する「奉納踊り」の2つの要素によって成り立っている。(註2)
くんちの運営に携わるのは、神事を斎行する「諏訪神社」、神事を取り仕切る「年番町」、渡御で御神輿を担ぐ「神輿守町」、演じ物を奉納する「踊町」が中心となって執り行い、年番町・神輿守町・踊町を総称して「年当番町」という。
3-1.年番町
くんち期間中のみならず、正月元旦の歳旦祭に始まり、毎月1日の月並祭などに参列し、1年間を通じて諏訪神社の神事に従事する。くんち期間中は、諏訪神社・お旅所での踊馬場の運営、渡御における御神輿行列の従列人のお世話やお旅所の警備を行う。踊町を務めてから4年後の年に回ってくる。
3-2.神輿守町
渡御の際に、諏訪神社に祀られている「諏訪」「住吉」「森崎」の3体の御神輿を担ぎ、周囲を警護する役割を担う。江戸時代の長崎町割旧市内80ヶ町の周辺である旧長崎村にあたる6つの連合自治会が、6年に1度奉仕している。
3-3.踊町
その年に奉納踊りを披露する当番の町で、7年ごとに回ってくるよう全踊町が7つに区分されている。江戸時代の町建てが基本となっており、町界町名変更に伴い幾度か踊町の編成が行われてきたが、旧町の名称と区域による町や、新たな町名と区域による町など様々であり、現在の住居表示の町とは一致しない。
「龍踊り」や「鯨の潮吹き」、「竜宮船」など各踊町が思考を凝らして敬意を表した演じ物を奉納しており、町のプラカードの役割を果たす傘鉾の垂れや飾りには、豪華な織物や長崎刺繍が施されている。
4.文化資産としての評価
政治的要素が強く、義務から始まった長崎くんちは、くんちのBGMといわれるシャギリの音色を聞くと、わくわくして居ても立っても居られないほど、いつしか市民の誇りとなり娯楽となっている。
本章では、よさこい佐世保祭りと比較することで、文化性、市民性の観点からくんちの特性を評価したい。
4-1.よさこい佐世保祭りの概要
九州では最も大きなよさこい祭りの一つであり、毎年10月下旬の金・土・日曜日の3日間開催されている。
1997年に「おくんち佐世保祭り」にて、「さるくCity4-3遊歩隊」・「上京町喧嘩独楽」の2チームにより長崎県佐世保市で初めてよさこい様式の演舞が披露され、2017年には過去最多の220チーム、約7,500人の踊り子が参加し、佐世保市の一大行事となっている。
4-2.文化性についての評価
よさこいの演舞は、鳴子を持ちさえすれば衣装も曲も自由であり、踊りのジャンルも問わない。形式に捉われない新しいスタイルを確立し年々進化しているが、地域に根付き次世代へ継承していく手法は確立されていない。
くんちは、鎖国中も国内で唯一、中国、オランダとの交易を続けるなど、様々な文化交流の中で栄えた長崎の町とともに発展していった。踊町の一つである江戸町は、出島の門前町であったことから「オランダ船」を奉納しており、町の紋章には、江戸町をオランダ語で表記した「JEDMATSI」の頭文字「JDM」を組み合わせたものが使用されている。また、かつて中国船の出入港で賑わっていた大黒町は「唐人船」を、「鯨の潮吹き」を奉納している万屋町は、江戸時代の古式捕鯨の様子を表している。
このように、くんちの奉納踊りは、日本の「和」、中国の「華」、オランダの「蘭」が混じり合って表現される長崎の「和華蘭文化」が至るところで表現されている。
4-3.市民性についての評価
くんちは毎年6月1日の「小屋入り」から始まる。
小屋入りは、踊町が演し物の稽古を始めるにあたり、町の世話役や出演者が諏訪神社・八坂神社の両神社で清祓をうけ、稽古の無事と本番の奉納の大役の達成を祈願する行事である。長崎では小屋入りの日が衣替えとなっており、長崎市内の中学校では、小屋入りの日から夏服着用となる。一年中着物で過ごしていた祖母は、小屋入りの日を境に、袷から薄物の絽に変えていた。
くんちが終わると、薄物から袷へ衣替えとなり、「暑さ寒さも彼岸まで」ではなく、「暑さ寒さもくんちまで」と、くんちが季節の変わり目と考えられており、「小屋入り」が俳句の季語となっているのも、長崎ならではである。
この小屋入りの日は町の至るところからシャギリの音が鳴り渡り、このシャギリの音を聞くとワクワクし、じっとしていられなくなる。このような状態は、くんち馬鹿と呼ばれるほどくんち好きが多い長崎市民の証のようなものであるが、それはどこから来るものだろうか。
この世に生を受けてから、家族とともに訪れるお宮参りに始まり、七五三、初詣、厄祓いなど、住んでいる町が踊町ならなおのこと、諏訪神社との関わりが深くなる。
また、くんちは、幼い子供からお年寄りまで家族総参加の祭りでもあり、人生そのものがくんちの中に存在していると言っても過言ではない。
5.おわりに
終戦の年の1945年10月7日は、原爆投下からわずか59日しか経っていないにも関わらずくんちが行われた。お旅所である大波止は進駐軍が使用していたため、神輿は市中を一巡して還御するだけであったが、くんちが町の復興につながり、町の危機を乗り越える原動力となった。長崎の人々の力強さが感じられる出来事である。
現在は、くんちは一部の人の祭りであると比喩されることもあり、神輿守町や踊町以外の住民との温度差も感じられる。
傘鉾の垂れや船頭の衣装を豪華に飾る「長崎刺繍」の技術保持者である嘉勢照太氏は、「長崎刺繍はアートではなく伝統工芸の一部である。だから、独創で作ってはいけない。昔のものを大切にしつつ、人に気づかれない程のわずかな新しいエッセンスを加えることが重要である。」と述べている。(註3)
くんちの起源や歴史とともに、変わらないように変えていかなければならない事を、長崎市民に広く伝えていく努力をしていかなければならない。
参考文献
<注釈>
(1):『祭・芸能・行事大辞典』朝倉書店
(2):土肥原弘久著『諏訪神事「長崎くんちのしくみ」変わらないように変わるために』ゆるり書房 2016年(P.8)
(3):『長崎新聞とっとって』2017年6月4日
<参考文献>
・土肥原弘久著『諏訪神事「長崎くんちのしくみ」変わらないように変わるために』ゆるり書房 2016年
・土肥原弘久著『平成29年長崎くんち「神様を擔ぐ男達」』ゆるり書房 2017年
・堀 憲昭編『長崎遊学マップ6「もってこーい」長崎くんち入門百科』(株)長崎文献社
・大田由紀著『長崎くんち考』(株)長崎文献社 2013年
・『樂 Vol.37』 有限会社イーズワークス 2017年
・『長崎市史 風俗編 上』清文堂出版 1981年
・『長崎事典 風俗文化編』(株)長崎文献社 1988年
・赤瀬 浩著『鎖国下の長崎と町人』自治と繁栄の虚突 長崎新聞社 2000年
・『長崎文化の構造』(株)タウンニュース社 1995年(P.92、109、110)
・YOSAKOIさせぼ祭りHP:http://yosa.jp/(2018.07.07閲覧)