製糸の真実を伝える— 岡谷蚕糸博物館
はじめに
幕末から明治にかけ、日本は海外の技術を移入し「近代国家」への転換を図った。その柱の一つで外貨獲得に大きく貢献した製糸業(1)を牽引したのが、岡谷(長野県岡谷市)(2)である。
現在、日本の製糸業は産業としてはごく細り、国内稼働工場は僅か4ヶ所のみ(3)となった。そんな中、岡谷の製糸の再生・発信に奮闘する場所がある。岡谷蚕糸博物館(以下、蚕糸博)(4)だ。
岡谷の製糸を伝える蚕糸博の取り組みを報告し、その意義を考察する。
歴史的背景
1859年の横浜開港当時、蚕の病が蔓延していた欧州に向け、日本の生糸は飛ぶように売れた(5)。結果としての粗製濫造が問題化する中、生糸生産を殖産興業の礎と位置づけその品質向上を急務とした明治政府は、欧州機械製糸技術の導入と国内各地への伝搬を期して官営模範工場設立を決定、1872年、富岡製糸場(6)の操業を開始した。
同年、長野県初の機械製糸場(7)が創業し、岡谷でもこの前後から製糸に乗り出す者が急増する(8)。その一人片倉市助が庭先で始めた10人繰りの座繰り製糸が、後に世界一となるシルクメーカー片倉の濫觴であった(9)。
又、1875年開業の中山社の繰糸機は、武居代次郎が欧州機のしくみを採り入れつつ日本の実状に合わせて開発したもので、その後全国に広まった「諏訪式繰糸機」の原型だった(10)。「諏訪式」の開発と、結社(11)による経営基盤強化で、岡谷は瞬く間に日本最大の製糸地帯に躍り出る。その糸は「信州上一番格」と言われ、横浜の市場にこれが無い日は無いことから、日本生糸格付けの基準とされた(12)。
岡谷の製糸は益々発展し、地域に収まりきらず郡外・県外へと進出した(13)。大正期、日本の輸出生糸量は世界生産高の過半数に及んだが、その約1/4が岡谷出身の製糸家によるものだった(14)。中でも片倉の貢献は大きく、一代交配蚕種(15)に慎重だった養蚕家達に片倉の責任で製造した蚕種を無償提供し、その繭の完全引き取りを約す形で実用化に乗り出して有用性を実証、又、繰糸機の革命と賞される御法川式多条繰糸機の誕生を支え、自動繰糸機開発でも先陣を切った(16)。その自動繰糸機の実用化には蚕試岡谷(17)の技術が寄与した。こうして岡谷は、日本の製糸業を生産量だけでなく品質と技術に於いても世界一へと導いた(18)。
第二次大戦では工場の多くが閉鎖や軍需用への転換を余儀なくされ、戦後、高度経済成長期の国内需要増などで復興の兆しもあったものの、日本の製糸業は1975年以降は衰退の一路を辿った(19)。
岡谷市は、片倉から三代兼太郎収集の蚕糸業関連品959点(富岡製糸場創業時から使われ、機械入替時に2釜のみ保管されたフランス式繰糸機を含む)を寄贈された(20)のを機に、諏訪製糸研究会や全国の蚕糸業関係者らの協力の下、1964年に蚕糸博を開館、2014年のリニューアルオープンに際し、館内に(株)宮坂製糸所を併設した。
特筆される点
「製糸の真実を伝える」ための蚕糸博の様々な実践。中でもユニークなのが館内で実際の製糸場が稼働していることだ(21)。製糸の歴史と、産業としての姿(Factory)は、真実(Fact)を伝える両輪なのだ(22)。では、真実とは、伝える意義とは何か。
—Factory—
繭を煮る湯気と匂いがたちこめる宮坂製糸所。博物館に入ってくれと言われた時はさぞ戸惑ったのではと想像したが、以前も見学者を受け入れていたためさほど抵抗はなかった、と宮坂社長は言う(23)。「仕事を見せるストレスもあるが、見てもらうことで自分達の仕事の意義を感じられる」。
見せるだけではない。館内「動態展示」エリアとの位置づけながら、見学用に供される一般的なそれとは一線を画した、言わば現場の「真実」がある。
現在ほぼ全ての製糸場が自動繰糸機での操業である中、ここは「諏訪式」「上州式」座繰(24)を行う唯一の工場で、自動繰糸では得られない独特の風合いの糸が評価されている。筆者はこれに大きく二つの意味を見る。モノづくりが同時に技術の伝承であること、「近代化」の過程で大量生産を目指した技術が、産業規模の縮小ゆえ逆に少量差別化の価値を生じていることだ。
特殊な生糸の開発など新たな創造も生まれている(25)。そこには、「外から移入し地域ぐるみで発展させ、結果、地域を離れたと見えながらも息づいていた岡谷の技術が、ここでしか出来ないモノづくりに結実し、今また外の関心を呼び込んでいる」(26)という時空的なつながりと展開が見てとれる。
「博物館+製糸場」の実現に壁がなかったわけではない。宮坂製糸所の設備移転には多額の費用がかかるが、一民間企業の引越し経費に市税は投入できない。どうするか。髙林館長は(一財)大日本蚕糸会へ陳情を繰り返し、最終的に会頭の理解を得、補助事業認定(補助金受給)に成功した。
—Fact—
館長の粘りの基にあるのは無論、「岡谷の製糸の真実を伝えたい」の思いだ。それは蚕糸博の理念として徹底されている。貴重な機械を展示するだけではなく、機械や技術を生み出した人達や工女達の紹介(27)にも力を入れ、モノ・技・人から製糸の真実に迫る工夫を凝らす。希望があれば必ず—予約不要で特定の時間制でもなく、団体以外の個人来館者に対しても—スタッフが解説や実演(28)を行う。こうした努力が、展示を、過去の遺物の陳列ではなく、息づかいの聞こえる「真実」にしている。
更に、館内の体験イベントや館外との連携、「出前講座」等の普及活動にも積極的だ(29)。特に大事にしているのが子供達に向けての取り組みで、市内外の学校の希望に応じて蚕糸学習活動(30)の素材や場の提供を行っている。子供達は、蚕の飼育から始め、繭工作や糸繰りなどで命をいただいて新たなモノをつくるということを学び、宮坂製糸所の見学で製糸業を体感し、歴史を知ることで自分達の地域を改めて見つめ直す。「真実」に触れた子供達は自ら、先人達はどうしたのか、自分ならどうするか、これからどうしたら良いか、と考え始める。その様子に学芸員の林さんは手応えを感じている。これが「伝える意義」の大きな一つだ。
評価
岡谷の製糸は、○○遺産だから素晴らしい、残すべき、なのではない(31)。新たな創造につなげてこそ資産だ。そのためにはまず長短含めた真実=本質を知ること。知ってはじめて、それを活かす資格が得られ、引き継ぐ意味もわかるのだから。真実を伝えるとは、活かすための学び、即ち、岡谷の製糸という先人達から渡された広大で深い源泉に真摯に向き合うこと、伝える意義とは、それが更に新たな土壌となること、ではないか(32)。だから蚕糸博は、過去から今へ、未来へ、と伝える努力を惜しまないのだ。
蚕糸博を貫く「伝える」理念と、「理念の具現化」—敷居の低さ(33)、動態展示や実演、展示の工夫と丁寧な解説、講演・講座などの取り組み—に努める姿勢を評価する。
展望
蚕糸博の理念と姿勢は評価するが、せっかくの資産を地域全体で活かすには至っていないように思う。髙林館長は蚕糸文化と観光とのマッチングを構想している(34)ものの、現状では「近代化産業遺産」を幾つか訪ねるだけになってしまいそうだ。課題の一つは現在の岡谷市が殆ど「糸都」の姿を留めていない(35)ことだが、「失われたものにも製糸の姿を見る試み」(36)などはどうだろうか。
又、製糸業の今後としては、岡谷の技術力と新しい発想の融合による糸づくり(37)に期待するが、更にそれが養蚕も含めた「地域の糸」になっていけば良いと考える。
まとめ
宮坂製糸所の座繰による糸が高い評価を得ていることは上で述べた。時代の流れで自動繰糸機を導入する際、「諏訪式」を僅かに残したこと(加えて、廃業する工場から「上州式」の技術を受け継いだこと)(38)が奏効したわけだが、それはただの幸運だろうか? 筆者は必然だったと考える。思い起こすのは、富岡製糸場の機械刷新時にフランス式繰糸機が2釜残されたこと、それを始めとする蚕糸業関連の品々を三代兼太郎が保存したこと、それを託され生まれたのが蚕糸博だということだ(39)。何かを残したいとの思いを実現するのは容易ではないが、その遂行が時を経て新たな価値を生むのではないか。
繭から繰る糸のようにつなげられてきたモノ、技、思いを、蚕糸博は、更につなげ、伝える。それらは、例えば蚕糸学習活動で地域の産業文化や先人達の工夫を学んだ子供達が大人になる時、新しい形をとりながらも活かされていくに違いない。
参考文献
註
(1)製糸とは生糸生産。蚕種・養蚕・製糸をトータルで「蚕糸業」という(広義には絹織物などの絹業を含む場合もある)。資料1参照。
(2)本稿では、1936(昭和11)年の市政施行前も原則として「岡谷」を用いる。
(3)2018(平成30)年1月現在、群馬県の碓氷製糸(株)、山形県の松岡(株)、長野県の松沢製糸所と(株)宮坂製糸所の4社。規模が最大なのは碓氷製糸で、松岡がそれに次ぐ。長野県の2社はいずれも小規模工場。本稿では宮坂製糸所を取りあげる。
(4)基本データファイル参照。
蚕糸とは蚕の吐く糸のこと(絹を表す)で、蚕は、養蚕家ではお蚕(かいこ)・お蚕(こ)様などと呼ばれることが多く、蚕糸博でもお蚕(かいこ)様と呼んでいる。
蚕糸博の展示は製糸が主だが、「蚕糸」の名が示す通り、蚕の飼育などを含めた分野横断的で重層的な営みとして製糸業を捉えている。
(5)当時、日本の生糸は未だ「牛首」や「座繰り」(資料4、5参照)による糸むらの多いものだったが、これが開港直後から輸出品目の筆頭となった背景には、生糸の主要産国であったフランス・イタリアでの微粒子病(蚕の病気。罹患した幼虫は斑点に覆われ繭が作れなくなる)流行と、中国が第二次阿片戦争中で代替供給地になり得なかったという歴史の偶然があった。
但し、その後の日本製糸業の発展は決して偶然ではない(註17、43参照)。
(6)歴史経緯上、複数の呼称があるが、本稿では「富岡製糸場」に統一して表記する。民営化の後、三井、原を経て、片倉が所有。資料3、4及び資料5の#3参照。
(7)深山田製糸場。そのイタリア式繰糸機と六工社のフランス式繰糸機とを折衷して開発されたのが、後述の武居代次郎による諏訪式繰糸機。深山田製糸場と六工社については資料3,4,5参照。
(8)深山田製糸場創業の翌1873(明治6)年に早くも全県で291もの製糸場が出来ており、内108が諏訪郡(参考文献④*中の『長野県統計書』資料より)と、長野県、特に岡谷・諏訪地域で爆発的に製糸の気運が高まったことがわかる。
*以下、丸囲み数字は参考文献/サイトの番号。
(9)「製糸王」「シルクエンペラー」と称された片倉一族については資料2,3,4,5参照。尚、片倉の事業体としての名称は変遷変更を重ねているが、本稿では特に必要な場合を除き「片倉」と表記する。
「座繰り」については資料5参照。
(10)武居代次郎は「糸師」(資料4参照)の家の出で、生糸生産や生糸貿易への感度が高かったことに不思議はないが、「キカイ道楽」と呼ばれたほどの機械製糸研究への傾注、又、中山社を開業する直前(資金元の小野組の倒産)と開業後(火災)、二度の大きな困難に直面しても諦めず再建(火災後)を果たした粘り強さは、岡谷人気質(資料6の図1参照)に由来するのかもしれない。
諏訪式繰糸機については資料4、5参照。
尚、「諏訪式繰糸機」「諏訪製糸研究会」等に於ける「諏訪」は、現材の諏訪市ではなく、岡谷を含む旧諏訪郡地域を指す。
(11)資料3のⅳ参照。
(12)岡谷を日本一の生糸産地に押し上げる原動力となった「諏訪式繰糸機」は、特別な舶来モノであった洋式製糸を日常化したものだ。これが「普通機」と呼ばれ普及し、これで作られた効率重視の中級品であった岡谷産生糸が「普通糸」と言われ日本の基準糸とされたことは、外来技術の一般化や、量産化・標準化といった「近代化」の側面の象徴だと言える。又、それが現代に於いて、独自性の高い少量個別対応の糸づくりに活用されている事実も興味深い(本文で後述)。
(13)資料3の年表及び資料6の図2参照。
(14)㉘中の「大日本蚕糸会報第351号資料」、③ほか。
(15)資料3のⅷ参照。これにより繭の量と質が飛躍的に高まった。
(16)御法川式多条繰糸機、自動繰糸機については資料5参照。
(17)第二次大戦中著しく減衰した製糸業だったが、1946(昭和21)年、「蚕糸復興5カ年計画」が決定され、2年後、製糸業復活を願う地元の強い要請により、岡谷市に製糸試験場が設置された。これが農林省蚕糸試験場岡谷製糸試験所=蚕試岡谷である。蚕試岡谷は、度重なる組織再編を経つつ、63年間にわたり蚕糸に関わる研究を行ってきた。特に、高性能繊度感知器(蚕試式感知器)の開発は自動繰糸機実用化の画期となった(資料5参照)。
現在の蚕糸博は、旧蚕試岡谷の建物を活用している(基本データファイル参照)。
(18)専ら緯糸用(経糸にはより高い品質が求められる)だった日本生糸だが、一代交配蚕種による繭改良と多条繰糸機の実用化で、この頃、欧州に代わり世界最大の生糸消費地となっていたアメリカの高級絹靴下用需要に応える最高級の品質を獲得する。結果、日本の生糸は実に「世界の87%を消費するアメリカ需要の93%を占めるに至った」 (「」内引用 ③より)。更に自動繰糸機という革新的技術を開発し世界に輸出するまでになった日本製糸業の発展は、岡谷なしにはあり得なかった。資料3、5も参照。
(19)製糸業の衰退には幾つかの要因がある。元々、「生死業」の別名があるほど、海外の経済状況等に左右されやすく不況の影響を直接かぶりやすい産業であること。洋装化による絹需要減少。化繊の台頭。又、原価の割合が非常に高く、利益率が低い。そのため、人件費の高騰などで価格競争力を失い、安価な海外生糸*に対抗できなくなったのである。
*日本は1963(昭和38)年に初めて中国・韓国から輸入を開始し、早くも1967(昭和42)年には輸入額が輸出額を上回った。2016(平成28)年の国内生糸生産数量は317俵、輸入数量は6,548俵、輸出は0である(㊻に掲載のデータによる。1俵=60Kg)。
(20)資料3のⅺ及び資料4参照。フランス式繰糸機については資料5の#3参照。
(21)博物館に実際の工場が入っていることに驚き、この発想がどこから来たのか、どうやって実現したのか関心を持ったことが、本稿の考察のきっかけだった。
(22)「博物館内に併設した製糸工場(Factory)で、わが国蚕糸業の歴史・技術の真実(Fact)を伝え、シルクの世界を肌で感じて頂きたい」(蚕糸博パンフレットより)。
(23)資料7のⅢ〜Ⅴ参照。リニューアル以前から、実際の製糸場を見たいという人に旧蚕糸博が宮坂製糸所を紹介するなど、協力関係が築かれていた。
(24)座繰(ざそう)と座繰り(ざぐり)の違いについては資料5参照。宮坂製糸所の上州座繰機については資料7のⅢを、諏訪式と上州式の座繰の様子は資料1のB〜H及び資料7のVを参照。
(25)資料7のⅣ参照。
(26)資料6の図3参照。
(27)蚕糸博では工女さんからの聞き取り調査等も行っており、「女工哀史」のレッテルでのみ見られがちな工女達の「真実」の姿に迫ろうとしている。2017(平成29)年には企画展「岡谷の工女さん —製糸業を支えた女性たちの仕事とくらし—」を開催した。
(28)ミュージアムエリアの体験コーナーで繰糸の実演を見学できる。
これも又、単に楽しく見せるためだけのものではない(資料7のⅡ参照)。
(29)各方面との連携については資料2,4参照。
又、蚕糸博は、シニア大学や各種施設での講演、企業でのセミナー等の「出前講座」を、年15回以上行っている。
(30)蚕糸博が主導するのではなく、あくまで各学校(学年・クラス)の関心や方針に沿い、年間20〜80ほど(年度により異なる)の取り組みが行われている。養蚕体験などでは時期が重なるため一日数校を訪問することもしばしばで、林さんは「(ピーク時は)大晦日の蕎麦屋か林か、と言われます」と苦笑しつつ、様々な切り口から自主的に考える力を深めていける蚕糸業は、格好の学びの素材なのだと語ってくれた。
(31)岡谷の製糸は近代化産業遺産 (資料2参照)、蚕糸博所蔵機は機械遺産(資料5参照)等に認定されているが、本稿では「○○遺産だから価値がある、のではない」との意識に立ち、特に「近代化」については主として岡谷の製糸を批判的に見るためのキーワードとして用いた。
但し、近代化産業遺産選定の目的自体は、「産業近代化の過程を物語る」建造物や機械、先人達の努力といった有形・無形の存在の「歴史的価値をより顕在化させ」「地域の活性化に役立てる」こと(「」内引用 ㉞より)であり、蚕糸博の目指すところと矛盾しない。むしろ、有名無実化しがちな「目的」の実現に向け精励しているのが蚕糸博だ。
(32)筆者にもようやくその一片がわかり始めた「真実」は、命と向き合うこと、モノづくりの試行錯誤、道具や技の工夫、日本の近代史の中で果たした役割はどのようになされたのか、その功罪、など、まだまだ広く深いが、それはイコール引き出しの多さでもあり、地域の資としての豊かさだと言える。
(33)前述の通り個人でもいつでも案内が受けられ、諏訪地域6市町村の中学生以下と岡谷市内在住・在学の高校生は入館無料など、気軽に訪れやすい設定となっている。又、シルクのエキスパートでありながら権威的なところがない髙林館長をはじめとして、筆者の取材にも協力的で、大変有り難かった。
(34)基本データの通り、蚕糸博入館者数はこの規模の地方博物館としては、かなり多い*。4年目の実績も順調だが、髙林館長は満足せず更なる試みを検討中で、その一つが旅行業者とのタイアップである。
*例えば、2002(平成14)年に開館した駒ヶ根市の駒ヶ根シルクミュージアム(延床面積2,330.76㎡)の初年度以降4年間の入館数は22,653人、14,495人、10,992人、13,067人である(駒ヶ根シルクミュージアム図録(㉝)より。図録発行時点での最新状況である2014(平成26)年の数字は12,092人)。
(35)国内で「糸都岡谷」、海外からは「Silk Okaya」と呼ばれた昭和初年の岡谷には、1,000本もの製糸場の煙突と、100棟以上の白壁土蔵造り3〜6階建ての繭倉庫が立ち並んでいたという(②)。繭倉庫群などが残っていれば、と惜しい限りだ。
(36)無くなってしまったものでも意識して伝える (そこのショッピングビルは製糸工場だった、角の商店は繭倉だった、某には片倉がよく買い物に来た、工女さん達の間の人気は××だった・・・のように)ことで、何かが生まれてくるかもしれない。ハコモノ(例えば白壁土蔵の町並みの再現)に向かう前に、まず記憶や意識の中での「岡谷の製糸」の再生が重要ではないか。
観光とのマッチングでは、転換・転用産業(註44に後述)等を辿るのも面白いのではと考える。又、「シルクロード」(資料2参照)の整備にも必須となる各地との連携は、既に富岡を始めとして様々に進行中だが、一層の工夫の余地がある。
(37)資料7のⅣで挙げたような、ここにしかない糸づくりの新たな展開(実は宮坂社長から次なるアイディアを伺った!)が楽しみだ。
尚、宮坂製糸所では、研究機関からの依頼で遺伝子組換えカイコの繭も繰糸している。遺伝子組換えカイコは、製糸業を発展させてきた品種改良の延長線上にあるものだろうし、岡谷の製糸再飛躍の契機となり得るものかもしれない。発光する繊維が作りたい→クラゲの遺伝子を組み込む、強靱な繊維→クモの遺伝子、それは本稿で筆者が評価した「意図の具現化」だと言えなくもない。ただ、遺伝子組換えによるモノづくりについて論じるには筆者の知識も考察もまだまだ不足している。従って、現時点で筆者としては、技術力と地域力による方向での発展を期待している。
(38)資料7のⅢ参照。
(39)資料3、4及び資料5の#3参照。
(40)眠の回数は品種によって異なるが、多くは4回。金色姫説話*で語られる金色姫の四度の受難になぞらえ、眠を「シシ(タカ・フナ・ニワ)休み」、眠から起きることを「シシ(タカ・フナ・ニワ)起き」などと言う。
*金色姫説話あらまし(⑯より要約・抜粋):天竺の金色姫は、姫を憎む継母により一度目は獅子の山、二度目は鷹の山に捨てられるがいずれも無事に帰ってくる。三度目は島に流されるが漁師に助けられ船で戻る。ついに継母は庭の穴に姫を埋めるが、土中から光が発するのを見た父王が掘り出すと、姫はまだ生きていた。王は姫を妃である継母から遠ざけようと、桑の木の船で大海へ送り出す。姫は辿り着いた国で亡くなるが、姫の霊魂が蚕になった(漂着後に姫の世話をした夫婦に養蚕を教えた)などとされる。金色姫の桑船が辿り着いたのが常陸国(茨城県)だといい、金色姫説話は蚕影神社(つくば市。全国の蚕影神社の総本山)の縁起となっている。
(41)蚕は、馬のように1頭2頭と数える。蚕と馬との強い関係性には、蚕が頭をもたげた様子が馬の頭部に似ているから、蚕の背に馬蹄形の紋様があるから、などの説がある。農家では家の中で馬を飼い、馬の体温で暖かい二階で蚕を飼育したように、馬と蚕は共に暮らしに不可欠な存在であった。又、養蚕起源伝説として中国の『挿神記』の馬娘婚姻譚*もよく知られ、これが日本に伝わり「オシラサマ」の話になったと言われる。
*馬娘婚姻譚あらまし(⑯より要約・抜粋):出征した父の帰りを待ちかねた娘が、飼い馬に、父さんを迎えに行って連れて帰ってくれたらお嫁さんになってあげる、と言ったところ、馬は父親の元へ駆けつけ連れ帰る。娘の約束を聞いた父は怒り、馬を殺し皮をはいで庭に干した。娘がその近くを通りかかると、馬の皮は娘を包む込み舞い上がった。木に引っかかった馬皮が見つかったが、既に娘は蚕となり糸を吐いており、その繭からは美しい糸がとれた。今飼われている蚕はこの蚕の流れを汲むものだといい、馬皮の引っかかった木が桑だという。
(42)蛹も、食用(宮坂製糸所売店でも佃煮が販売されている)や釣餌として活かされている。
(43)第十九銀行については資料3のv、倉庫業については資料1の貯繭についての説明及び資料6の図1を参照。
(44)製糸業で培われた技術を活かした様々なモノづくりは現在も岡谷の主力産業だが、意外にも、味噌の醸造も製糸業から発展した産業だ。製糸工場では多くの従業員の賄いのために味噌を作っており、味噌の大量生産技術を持っていた。
増澤式多条繰糸機については資料5の#6参照。
(45)この片倉館の隣に三代が建設したのが、蚕糸博の母胎とも言える懐古館(資料3のⅺ及び資料4参照)である。
山一争議については資料3のⅹも参照。
(46)「当社ハ同心脇(協)力良糸ヲ製造シ、荷額ヲ多クシ貿易上ノ弁利ヲ得ル為メニ結社ス」 (⑨に収録の「明治十六年 諏訪郡平野村開明社創立主意書并工場取調書」より、「本社*創立主意」)。尚、引用文中の(協)は校注。
*開明社
(47)揚返しと括造りは、資料1の説明及び宮坂製糸所での作業工程J〜Lを参照。
(48)繰糸機の開発だけではなく、優良蚕種育成の努力の積み重ねが(ほかに、煮繭法など様々な改良も)、製糸業の発展に大きな意味を持った。300mほどだった繭糸の長さが、1,500mもの糸がとれる繭が出来るようになるなど、とりわけ一代交配蚕種実用化は画期であった。
尚、記憶に新しい「富岡製糸場と絹産業遺産群」の世界遺産登録も、製糸場単独ではなく、蚕の飼育法(清涼育)を研究し近代養蚕農家の原型となった田島弥平旧宅・やはり蚕飼育法(清温育)を研究し普及教育の拠点であった高山社跡(資料2参照)・天然の冷風を利用した蚕種孵化時期調節により養蚕の多回数化を可能にした荒船風穴が、同時に登録されており、製糸業が多分野(選外となったが碓氷峠鉄道跡も輸送技術として候補とされていた)の技術革新と連携の上にあることを示している。
(49)冬の松本工場で寒さのため凍りついた動力水車を、始業前に氷を割って動かしておくのは所長(今井五介)の役割だった、三全社の建設を任された佐一(後の二代兼太郎)はモッコ担ぎを率先して行った、などの逸話が残されている。
(50)註27参照。
(51)現在は新増澤工業(株)。資料2「新増澤工業(株)所蔵機械」の項を参照。
(52)①より(要約)。
(53)㉓の、加藤幸三郎「序説」 より。
(54)日本純粋種の蚕「小石丸」の繭は、小さく、とれる糸も少ないため、一般の養蚕からはほぼ姿を消し、皇后による養蚕にのみ残されていたが、繊細なその糸が正倉院御物など古代裂の復元に最適であるとして修理事業に用いられ、一躍脚光を浴びた。
(55)1997(平成9)年放映のNHK『新日本探訪』。
(56)現代の皇室でも皇后が養蚕を行っていることは註54の通り(天皇は稲作)。
又、蚕神信仰に於いては、金色姫の流れを汲む波や船に乗った姿など女神として描かれていることが殆どで、養蚕の神としての馬鳴菩薩も、女性の(或いは女性的な)姿で造形されていることが多い。
(57)ほかにも、「長野県産繭使用 42デニール 京都の糸問屋さんからのオーダーです」「180デニール 牛首紬用の節糸をとっています。石川県の織物屋さんのオーダーです」など、その都度ボードが掲げられている。個別の要望に対応する糸づくりは、やり甲斐がありそうだ。ちなみに、絹の壁紙(=絹布紙)とは「ごく薄い絹の織物に、越前和紙を裏打ちした壁紙」。「緯糸に宮坂製糸所で繰糸した「玉糸」を使用している。玉糸の特徴である節や糸むらが織物表面に不規則に現れている」。 (「」内引用、宮坂製糸所内の説明板より)
参考文献・ウェブサイト
①伊藤正和・小林宇佐雄・嶋崎昭典『ふるさとの歴史 製糸業 岡谷製糸業の展開—農村から近代工業都市への道—』(郷土の文化財18)、岡谷市教育委員会、1994年
②髙林千幸監修『シルク岡谷 製糸業の歴史』(①の改訂版)、岡谷市・岡谷蚕糸博物館、2017年
③阿部勇編著『蚕糸王国信州ものがたり』、信濃毎日新聞社、2016年
④新津新生『蚕糸王国 長野県—日本の近代化を支えた養蚕・蚕種・製糸—』、川辺書林、2017年
⑤会田進・嶋崎昭典編著『初代片倉兼太郎』、初代片倉兼太郎翁銅像を復元する会、2003年
⑥宮坂勝彦編『製糸王国の巨人たち/片倉兼太郎』(信州人物風土記・近代を拓く 第1期第22巻)、銀河書房、1989年
⑦『保存版 諏訪の昭和史』(信州の昭和シリーズ8)、武田安弘監修、郷土出版社、1998年
⑧伊藤正和・柳平千彦『図説・諏訪の歴史(下)』(長野県の歴史シリーズ7)、郷土出版社、1983年
⑨『長野県史 近代史料編 第五巻(三) 蚕糸業』、長野県史刊行会、1980年
⑩『長野県史 近代史料編 第六巻 商業・金融』、長野県史刊行会、1990年
⑪『復刻 平野村誌 下巻』、岡谷市、1984年
⑫『岡谷市史 中巻』、岡谷市、1976年
⑬中部産業遺産研究会編『ものづくり再発見 —中部の産業遺産探訪—』(産業考古学シリーズ5)、アグネ技術センター、2000年
⑭上條宏之監修『信州の近代遺産』、しなのき書房、2006年
⑮藤森照信『信州の西洋館』、信濃毎日新聞社、1995年
⑯篠原昭・嶋崎昭典・白倫編著『絹の文化誌』、信濃毎日新聞社、1991年
⑰畑中章宏『蚕 絹糸を吐く虫と日本人』、晶文社、2015年
⑱志村和次郎『絹の国を創った人々—日本近代化の原点・富岡製糸場—』、上毛新聞社、2014年
⑲富岡製糸場世界遺産伝道師協会編『まるごとわかる 世界遺産【富岡製糸場と絹遺産群】建築ガイド』、上毛新聞社、2014年
⑳田村仁『月刊 たくさんのふしぎ(2016年6月号) 富岡製糸場 生糸がつくった近代の日本』、福音館書店
㉑『月刊 文化財 平成27年1月号』、文化庁文化財部、2015年
㉒馬場明子『蚕の城 明治近代産業の核』、未知谷、2015年
㉓永原慶二・山口啓二編『講座・日本技術の社会史 別巻2 人物篇 近代』、日本評論社、1986年
㉔中岡哲郎『近代技術の日本的展開 蘭癖大名から豊田喜一郎まで』(第1章、第3章)、朝日新聞出版、2013年
㉕玉川寛治『製糸工女と富国強兵の時代 生糸がささえた日本資本主義』、新日本出版社、2002年
㉖『皇后様とご養蚕』、(宮内庁協力)扶桑社、2016年
㉗和田英『富岡日記』、筑摩書房、2014年
㉘嶋崎昭典「我が国の製糸業の変遷とこれからの生きる道」 (第60回製糸夏期大学講演、2007年)
http://www.naro.affrc.go.jp/archive/nias/silkwave/hiroba/Library/SeisiKD/60SKD2007/2_Shimazaki.pdf
㉙嶋崎昭典「日本の製糸技術」(繊維学会誌vol.63, No.8、2007年)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/fiber/63/8/63_8_P_218/_pdf
㉚髙林千幸「(独)農業生物資源研究所 生活資材開発ユニット(蚕試岡谷)における63年の歴史と製糸技術研究」(日本シルク学会誌 vol.19、2011年)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/silk/19/0/19_0_51/_pdf
㉛林久美子「蚕糸学習活動とその展開」(日本シルク学会誌vol.25、2017年)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/silk/25/0/25_91/_article/-char/ja/
㉜岡谷蚕糸博物館HP http://silkfact.jp
パンフレット、リーフレット、ビラ、岡谷市発行のマップ等
㉝「駒ヶ根シルクミュージアム 常設展示図録」、2015年
㉞近代化産業遺産 <経済産業省HP
http://www.meti.go.jp/policy/local_economy/nipponsaikoh/nipponsaikohsangyouisan.html
㉟平成19年度「近代化産業遺産群33」 <経済産業省HP
http://www.meti.go.jp/policy/local_economy/nipponsaikoh/pdf/isangun.pdf
㊱地域と歩む。其の七 <信州大学HP
http://www.shinshu-u.ac.jp/zukan/communication/uedacity.html
㊲丸子地区の養蚕業 <上田市立丸子郷土博物館HP
http://museum.umic.jp/maruko/kindai-seishi/story1.html
㊳世界遺産 富岡製糸場 <富岡市観光HP
http://www.tomioka-silk.jp/tomioka-silk-mill/
㊴シルク・ミュージアム・サミット2001in岡谷 <農研機構HP
http://www.naro.affrc.go.jp/archive/nias/silkwave/hiroba/summit01/report.htm
㊵信州シルクロード連携協議会HP http://shinshu-silkroad.jp
㊶「信州の蚕糸業とシルクロード」講座 「岡谷・諏訪はなぜ製糸日本一になったのか」 <信州シルクロードアーカイブ
https://www.mmdb.net/silknet/archive/ueda/page/A0529.html
㊷絹の道広域連携プロジェクトについて <経済産業省HP
http://www.kanto.meti.go.jp/seisaku/sightseeing/kinu-no-michi_project.html
㊸宝絹HP http://www.takaraginu.com/aboutsilk/index.html
㊹シルクのまちづくり市区町村協議会HP https://silktown.jimdo.com
㊺(一財)大日本蚕糸会HP http://www.silk.or.jp
㊻「シルクレポートNo.56」(2018年1月号) <蚕糸・絹業提携支援センターHP
http://silk-teikei.jp/pdf/silk56.pdf
㊼日本シルク学会HP http://jssst.sakura.ne.jp/htdocs/
㊽片倉工業(株)HP
>片倉工業と富岡製糸場が歩んだ歴史 https://www.katakura.co.jp/tomioka.htm
>シルクと暮らす http://www.katakura.co.jp/silk/
㊾実績紹介(岡谷蚕糸博物館 シルクファクトおかや) <乃村工藝社グループHP
https://www.nomurakougei.co.jp/achievements/detail/7