
「蒲原神社」の盛衰と「六郎の御託宣」について
・はじめに
新潟市中央区長嶺に鎮座する「蒲原神社」は、平安時代に編纂された『延喜式神名帳』に名を連ねる「青海社」(オウミノヤシロ)が発祥とされている。1)本報告は、「蒲原神社」の盛衰と当神社の祭礼「蒲原まつり」で行われている「六郎の御託宣」を日本史における文化資産として評価報告するものである。
1. 基本データと歴史的背景
・「青海社」とは
現在の蒲原神社は新潟平野の信濃川右岸側に位置し2)、平安時代の「寛治図」寛治三年(一〇八九)と江戸時代の「天保図」天保六年(一八三五)で比較すると3)両地図で「青海」の地名が確認出来るのは寛治図で、天保図では地名としては確認出来なかった。『越後国式内神社考』(小池内広著)によれば、「青海首(オウミノオビト)」という人物を祀ったとされており、当時一帯を青海郷と称していた。青海首は神武天皇に仕え、海上嚮導軍機(海上戦での作戦および指揮)で大功をたてたことからこの地に領地を与えられたとの記述がある。4-1)さらに、内陸の新潟県加茂市には「青海神社」があり、「青海首一族」が一帯を開拓し建立したとある。5)
これらのことから、当時は新潟平野の内陸部まで海岸線が入り込んでいたと推察される。
・蒲原神社の盛衰
「青海社」は創設期から鎌倉時代まで地域の宗廟として繁栄した。4-2)『延喜式』には「蒲原ノ津」(蒲原の湊)の記載があり越後国海路として「敦賀の津」(福井県若狭地方の敦賀湊)までの航路と運賃の記載があり、都に近い敦賀までの海路が有った。4-3)前出の「天保図」を見ても、新潟平野に張り巡らされた河川を利用した水運の発達により物資や人の交流が盛んで、「蒲原ノ津」の賑わいと「青海社」の年に一度の「蒲原祭」が地域の大祭として根付いていたことが伺える。
鎌倉末期まで「青海社」は蒲原ノ津の金鉢山に有ったといわれ、南北朝期に南朝方が金鉢山に城を築いたことから北朝の勝利後「青海社」も危うく廃絶される危機に直面し、社名を社内に合祀していた「五社神社」に替え潜居した。6)7)戦国時代末期の天正十年(一五八二)、一帯を治めていた新発田因幡守重家は上杉家と敵対関係にあった織田信長と結び上杉景勝と越後の覇権を争った「新発田合戦」のさい、金鉢山の「五社神社」が「青海社」であることを知り戦勝祈願し、社殿と社領などを寄進して神社を復興させた。しかし、水運で活用されていた河川は江戸初期の寛永十年(一六三三)に入ると近傍に流れる大河信濃川と阿賀野川が合流したことにより金鉢山を含めた信濃川東岸が浸食を受け水没し、やむなく近くに「仮遷宮」したが土地を失った氏子や村民はまたしても四散した。約五十年後の元禄二年(一六八九)再度、藩主の庇護を受け現在の長嶺地区に「五社神社」の再建と遷宮式が盛大に行われたという。明治期には子供の火遊びにより神社が焼失し、現在の社殿が建てられた。「蒲原祭」は「蒲原まつり」となり、昭和四十三年に「五社神社」を「蒲原神社」に改め現在に至っている。6)
・「六郎の御託宣」の起こり
蒲原神社の起源「青海社」が最も繁栄していたと思われる鎌倉時代初期の文治五年(一一八九)、源頼朝の奥州征伐 に加わった畠山重忠8)は武功を立て、その恩賞として奥羽の一部を領土として賜った。重忠は弟の六郎重宗を派遣しその領地を治めさせていた。9)その十六年後、謀反の疑いを掛けられた畠山重忠一族が滅ぼされる「二俣川の合戦」が起こった。10)これにより奥州に派遣されていた六郎重宗一行は一転、追われる身となる。十七年後の承久四年(一二二二)、畠山六郎重宗一行が「青海社」に参籠する。11)神社口伝では、畠山六郎重宗一行は船で「蒲原ノ津」に上陸し「青海社」に参籠したと伝わっている。12)現在、「蒲原神社」には「伝畠山六郎重宗夫妻坐像」として2体の木像が伝えられており、平成二一年(二〇〇九)に新潟県指定有形文化財になっている。13)本座象2体は、伝承では畠山六郎重宗が参籠のおり自分の姿を彫ったとされていたが、近年の木像修復のさい像内から制作者「大仏師尾張法眼湛賀」の名と制作年「建武元年(一三三四)七月十三日」の建造年次が明らかとなり、制作に奉加した五〇〇名以上の名が記された墨書も発見された。さらに、宝永七年(一七一〇)新発田藩主の「殿様御順見覚書」および「畠山公縁記」からは本像についての記述が有り、そこには「畠山重忠」の像と記載されており「重忠」と「重宗」の名称が後世に混乱され変更されたと想定している。11)
2. 積極的に評価する点
「蒲原神社」の起こりである「青海社」は、蒲原地域の宗廟とされてきた。その社名も神武天皇に仕え日本海側の東征時の軍功から、越後の一部地域を与えられ青海郷とした「青海首」(オウミノオビト)が発祥とされている。5)大和朝廷の影響を強く受けた当地に於いての民衆の心の拠り所であったと伺える。その「青海社」が鎌倉時代前期の繁栄していた頃、歴史的にも悲劇の武将と云えられている「畠山重忠」の弟、「畠山六郎重宗」一行が十数年の流浪の末に辿り着く先が「青海社」である。さらには南北朝時代、危機を乗り越えるため社名を「五社神社」に改名したことで社運は一時期衰退したが、戦国期に地域の領主である新発田氏から「青海社」の末裔として庇護をうけた。江戸時代に入り、河川の影響により所在地の金鉢山を含め一帯が決壊・水没し仮遷宮するも、またもや新発田藩主溝口公から復興の手を差し伸べられ寺社領が復活するなど、「禍福は糾える縄の如し」14)をこれほど経験した神社は稀有な存在と考える。さらに、それぞれの時代でも「六郎の御託宣」は伝え継がれ、現代に至っても神社や地域の氏子たちに引き継がれており、これら歴史の継承を地域の文化資産として評価するものである。
3. 他の同様な事例との比較(何が特質されるか)
神社祭礼での御託宣をワードに事例を検索すると、新潟の「蒲原神社」と京都の「石清水八幡宮」の二社が該当した。他は、神籤(みくじ)が一般的に行われており、石清水八幡宮では“世は変われども神は変わらず”という八幡大神からの御託宣が伝えられているもので、神社の神主が祭礼において氏子や参拝者の見守るなか執り行われるのは「蒲原神社」のみで有った。15)16)
名誉宮司金子隆弘氏によれば、六郎重宗が行った当初の御託宣は「神のお告げ」として表され、その年の農作物の作柄に関する良・不良が伝えられたという。12)六郎重宗没後は、五穀豊穣を司る「六郎神社」として祀られた。
御託宣の手法としては、祝詞後に十二本の籤が納められた大筒から、神主が一本の籤を引く形式になって以来、代々受け継がれている。昭和初期には、御託宣の結果が米相場にも影響し官憲の取締の対象になった。6)本報告における特質される他者との違いは、代々伝わり今なお氏子や参拝者の前で行われる御託宣の継承である。
4. 今後の展望について
「蒲原神社」の宮司を務める金子氏の系譜は、参考文献4)-4から正保元年(一六四四)の「金子河内守吉信」を中興の祖として江戸時代までは代々「河内守」と「讃岐守」を交互に継承し、現在「金子隆弘」氏(九五歳)で十四代目を数える。戦後の代に入ってからは、神社宮司の傍ら医師となり医院を経営する兼業となった。
名誉宮司「金子隆弘氏」宮司「康弘氏」禰宜「隆仁氏」(隆弘氏の孫)がそれぞれ神職を担い、隆仁氏は神職を唯一専業としている。隆仁氏は氏子の高齢化と若い市民の神社離れに危機感を感じており、「これからの蒲原神社を発展させていくためには、発信に力を入れ応援していただける事業者や若い人たちと共に、地元新潟を盛り上げていきたい」と抱負を語っている。17)六郎重宗が起こした農耕の作柄を占う御託宣を始めとした人々との繫がりの中で、神社のあり方を模索する若き後継者を今後も応援していきたい。
5. まとめ
「蒲原神社」は越後新潟の地において、幾度となく存亡の危機に遭いながらも、その時々の領主の庇護と氏子や民衆の支持を受け復活してきた。さらに祭礼時の「六郎の御託宣」は、鎌倉幕府創立当初に活躍した板東武者の代表格ともいえる畠山重忠の弟のその後の物語でもある。
これら史実を踏まえ、今後は畠山六郎重宗が参籠した足取りを解き明かすことにより、御託宣をより具体的に後世に残すきっかけになろうかと考える。
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資料-1 蒲原神社所在地と蒲原神社本殿
「新潟県新潟市の山一覧|マピオン電話帳 (mapion.co.jp)」より2024.8.21 筆者検索・加工
蒲原神社本殿 2024.8.21 筆者撮影 -
資料-2 寛治図と天保図(新潟県立図書館編『県立図書館で調べよう 新潟県の古地図 「寛治図」・「康平図」から近代まで』より) -
資料-3 金子氏略系譜(『蒲原の変遷と蒲原神社(講演要旨)』) -
資料-4 神社明細帳(新潟県立図書館ライブラリ) -
資料-5 名誉宮司にお伺いした内容(2024.8.7) 筆者記録 -
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資料-6 蒲原祭りの今昔(名誉宮司へお伺いした時に頂く) -
資料-7 伝畠山六郎重宗(蒲原神社ホームページより) -
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資料-8 蒲原まつり風景とパンフレット
参考文献
1) 山下隆吉編『蒲原神社史』、蒲原神社、1986年6月20日
2) https://www.mapiom.co.jp/phonebook/M07003/15100 2024.8.19検索
「現在の蒲原神社所在地」と「蒲原神社本殿」 資料-1参照
3) 新潟県立図書館編『県立図書館で調べよう 新潟県の古地図 「寛治図」・「康平図」から近代まで』
新潟県立図書館、2021年3月 資料-2参照
4) 山下隆吉編『蒲原の変遷と蒲原神社(講演要項)』、蒲原神社、昭和五五年十月十日
-1講演参考資料(八)「越後国式内神社考」(古池内広著)
-2講演参考資料(七)「北越雑記」蒲原神社
-3講演参考資料(四)「蒲原ノ津(『延喜式』)」
-4「金子氏略系譜」(4頁):資料-3参照
5) https://aomi-jinjya.or.jp/history/yuisyo.html 2025.12.20検索
「青海神社」 青海郷総鎮守 延喜式内社 創建726年 由緒,年表
6) https://minekomi.sakura.ne.jp/gyoujiannnai.html 2022.7.30検索
「蒲原神社|蒲原まつりについて」蒲原神社 宮司 金子隆弘
7)「神社明細帳」新潟県立図書館ライブラリ:資料-4参照
8)北条氏研究会編『武蔵武士の諸相』勉誠出版 2017.10.27初版
・「鎌倉御家人畠山重忠と二俣川合戦」P91~P102
9)『鎌倉幕府の転換点』「『吾妻鏡』を読みなおす」NHKブックス2001年4月25日第2刷
10)同上P87 「二俣川の合戦」:『吾妻鏡』元久二年(一二〇五)六月二二日条:同上
11)「科学研究費補助員研究成果報告書」課題番号19720175
「中世越後における信仰関係資料に関する研究」代表研究者 前嶋 敏 新潟県立歴史博物館・学芸員・研究員 研究者番号30373476
12)「宮司 金子隆弘氏聞き取り」(2024.8.7)
・「蒲原祭りの今昔(H元.6 宮司 金子隆弘)」:本説では「二俣川の合戦」後、秩父地方から陸路落ち延び参籠したともある。
『吾妻鏡』ではその頃、六郎重宗は奥州にいたとの記載あり。10)参照
:資料-5・資料-6参照
13)「伝畠山六郎重宗夫妻坐像」:資料-7参照・・・・・15)蒲原神社ホームページより
14)https://kotobank.jp/word/禍福は糾うり縄のごとし-2236568#goog_rewrded
2025.12.20検索
禍福は糾える縄の如し(かふくはあざなえるなわのごとし)とは? 意味や使い方 - コトバンク
15)https://kanbarajinja.jp 2025.12.5検索
「蒲原神社」:「祭りと催し 七月一日 御託宣」
16)https://iwashimizu.or.jp/about/#id01 2025.12.20検索
石清水八幡宮について|石清水八幡宮 「歴史と信仰」
17)https://things-niigata.jp/other/kanbarajinja/ 2025.12.5検索
「Things.」2023.1019:「蒲原まつりで有名な「蒲原神社」のいろいろを、若き神主に聞く。」
18)TX芸術教養演習1「【伝統行事 A】(2024.8.22提出)
「蒲原(カンバラ)祭り 御神籤(オタクセン)」について」松井康彦
19)芸術教養講義7 (2022.8.21提出)
「「蒲原祭り・お託宣」新潟市 信仰」 松井康彦