
「マニラ湾 〜自然、開発と保護、人々の関心から成り立つ景観〜」
はじめに
開発による自然、景観破壊の問題は世界各国で聞かれる問題である。本調査報告書では、マニラ湾一体の景観を例に取り、保護、保存だけにとどまらない景観のあり方について考察する。
1.基本データ
フィリピン共和国(以下、フィリピン)の首都、マニラが位置するルソン島にあるマニラ湾は、長い歴史の中で経済、政治を支えてきた国の玄関口である。192kmに及ぶ海岸線にはルソン島を流れる主要河川7つと繋がっており、豊かなマングローブ、サンゴ礁、砂州で構成される(1)生態系は、1521年にスペインに統治される前から天然の良港としてフィリピン人の生活と直結するものであった。(2)
2.歴史的背景
歴史的には、スペイン統治時代、マニラ湾入り口に位置する面積5.5平方キロメートルのコレヒドール島を始め、要塞都市イントラムロスと隣接する湾として国防を担い国の玄関口としての役割を担った。1898年にはスペインとアメリカ軍間のマニラ湾戦争の主戦場となり、その後、第二次世界大戦中には旧日本海軍とアメリカ軍との攻防の地となったなど、多くの破壊と犠牲を生み出してしまった場所でもある。(3)
3.評価点
3-1.天然港と融合する人々の営みが造る景観
このマニラ湾を語る上で欠かせない点は、マニラ湾が「世界三大夕日」に数えられていることだ。1960年代に世界を航海する船乗りの間で夕日の美しさが評判となったことでそう呼ばれるようになったというもので(4)、正式な機関が定めた呼称ではないものの、この「世界三大夕日」の一つであるという事実は、口コミで広がり、湾の価値を高めるものとして多くの文脈で活用されている。1970年代以降本格化した湾岸線一体の開発により、外資ホテルや巨大ショッピングモールが立ち並ぶようになり、マニラでもっとも盛り上がるエリアの一つになっている点や、その各施設がマニラ湾越しに夕日を見れるスポットであると謳っている点が、その証拠ともいえるだろう。(5)2019年には湾岸を一望できる人工ビーチ一体を散歩できる遊歩道もオープンし、連日、夕日を目当てに地元民から観光客まで数多くの人が集まっていることも確認できた。またそのビーチ一体では、数多くの露店が立ち並び現地住民にとって重要な経済圏にもなっている様子や、ベイウォーク沿いの国道はASEAN諸国の中でも最悪レベルといわれる(6)夕方の渋滞の予兆が見られるなど、地元民の生活レベルの幅広さ、活きた生活の様子が伺える景観であった。
自然に形成された地形を基盤として、フィリピンの歴史を象徴するような出来事の蓄積、近年の急速な経済発展によって生み出されている都市空間、さらにそれらと結びついた人々の生活の営みが同時に見られる点に、マニラ湾一帯の景観の特徴がある。このような景観は、単に自然の美しさによって評価されるものではなく、社会的・歴史的出来事が多層的に集積している文化的景観として捉えることができ、刻一刻と姿を変え続けている。本調査報告書では、その点を積極的に評価したい。
3-2.観光資源としての開発によって生み出される景観
しかしそのような観光地化の流れの中では、開発による環境問題や住民と行政間の問題も数多く指摘されている。まず挙げられる問題として特筆すべきは、水質問題、湾岸部の埋め立て工事による土壌汚染と、景観の破壊についてである。開発が相次いで行われ続けた2000年代には、フィリピンの環境天然自然省の指導を中心に水質の改善が図られ始めたものの、むしろ貧困層の非公式な住居者による移住も相まって生活排水の排出は加速し、事態は改善は見られなかったとされる。(7)こうした背景から、先述した人工ビーチは2019年にオープンしたものの、水質の問題から現在も遊泳が禁止されたままだ。そして湾岸の埋め立てに関しても、特にこの数年は工事再開と中止が繰り返されている状況にある。年間にいくつもの台風が通過する亜熱帯気候のフィリピンにおいて、洪水被害は深刻であるが、この埋め立て工事によって自然の排水路を遮断することにつながる見解が出されており、埋め立てによってマニラ湾湿原、干潟、生態系など自然防御力さえも失うことが問題視されている。(8)人口増加や工業化に伴う地下水の過剰な汲み上げによる地盤沈下が報告されている(9)ことも、埋め立てを批判的に捉える声が大きい要因といえるだろう。こうした人命に関わる課題の延長に、マニラ湾の景観破壊も指摘されている。先述したように、マニラ湾一体はマニラ湾に沈む夕日を一望できる景観を売りにしている場所が多く存在するが、この埋め立てにより、海と夕日を遮るかのような土砂の山が点在する景色へと変わってしまった場所も多い。元々存在した海岸に沈む夕日という自然風景が、経済発展とともに観光資源として価値を再定義されその場所を象徴する存在となった。そして同時に、環境破壊や埋め立てによる景観変化は、その価値を揺るがす要因ともなっている。
しかしこうした揺らぎこそが、マニラ湾の景観を単なる観光的に優れた場所としてではなく、開発と環境保護が交錯する文化的景観として成立させているといえるのではないだろうか。これは3-1.の評価にも共通する時代の集積を感じられる場所であるといえ、また開発の葛藤を内包した状態そのものを、現代社会の景観のリアリティさとして評価したい。
3-3.住民の関心によって守られる景観
3-2.で挙げた開発の問題点の多くは、専門家が率先して声を挙げてきた事柄であるが、その声を聞き、反対運動として盛り上げているのは地域住民や市民団体である。工事の再開が議会で可決されるたびに大規模なデモが起き、工事の不当性を訴えてきた。また2025年の雨季にはフィリピン全土が甚大な台風の被害に見舞われ、その影響で都市の洪水問題の緊急性が改めて可視化されたにも関わらず、国の洪水対策の公共工事に不正があったことが明らかになった。これを受けて数万人規模のデモが繰り返し行われており(10)、洪水問題と地続きの埋め立て工事に関する国民の関心は強まっているといえるだろう。地域社会に根ざした開発であるかどうかを住民自身が監視し続け、政府との対立がリアルタイムで可視化されている状況は、マニラ湾一帯の景観形成、維持に地域住民が主体的に関与していることを示している。すなわち、マニラ湾の景観は完成された対象として存在しているのではなく、市民の関心と行動によって絶えず評価・更新され続ける文化的景観として成立していると評価できる。
4.釧路湿原との比較
北海道の釧路湿原国立公園は、釧路川とその支流を抱く日本最大の湿原を取り囲む丘陵地からなる。(11)手つかずの広大な自然がなによりの魅力であり、その湿原には国の天然記念物に指定されているタンチョウを始め、様々な動植物が生息する、自然に形成された保護されるべき環境だ。近年、メガソーラーの設置による自然破壊の懸念を受け、2025年12月には6つの自然保護団体が建設中止を訴える署名を提出する(12)など、自然保護の監視を市民も行っている。このような、保護すべき景観、自然環境の成り立ち、経済発展の中で行われる開発や環境保全において一般市民による関心が大きな役割を担っている点はマニラ湾の状況とも共通する点があるだろう。一方で市民とその場所の結びつき方に関しては、釧路湿原のそのままの形に価値を置く、人的介入を最小限に留める保全の為の抵抗を行うのに対し、マニラ湾の場合は開発や環境破壊といった変化そのものが景観の歴史となり、その是非をめぐる議論や対立、行動が景観の一部として組み込まれている点に特徴があるといえるのではないだろうか。
5.今後の展望
以上の評価、比較よりマニラ湾一体の景観に関しては、自然保護か開発かといった二項対立では語ることのできない景観であることが明らかとなった。今後、どのような形で開発が再スタートするかは未定ではあるものの、現在の開発に対する市民の声をどのように取り込んでいくのかについては注視していきたい点である。特に、市民による関心や抗議行動を単なる反対運動としてではなく、景観形成の一要素として制度的にどのように位置づけるか次第で、社会的・歴史的出来事が多層的に集積している文化的景観として更に評価されていくのではないだろうか。
6.まとめ
マニラ湾一体の景観を、自然美や観光資源としてではなく、歴史・経済発展・市民の関与が交差する文化的景観として評価した。経済成長が著しいフィリピンでは、今後も都市開発が加速し、フィリピン国内各地で同様の開発をめぐる摩擦が繰り返されることが予想される。それと同時に今回の事例のような市民が政治や公共空間のあり方に対して声を上げる土壌は、独自の景観や空間を生み出す重要な役割を果たしていくだろう。豊かな自然資源とピープルズパワーが織りなす景観を、今後も観察していきたい。
参考文献
(1)Rina Garcia Chua,The Surviving Sunset of Manila Bay and the Ethics of Environmental Justice in Philippine Ecopoetry,Akda:The Asian Journal of Literature, Culture, Performance, Vol.1 No.1,(2021):49-63
https://www.dlsu.edu.ph/research/publishing-house/journals/akda/ (2026年1月16日閲覧)
(2)About the Bay、THE VALUE OF MANILA BAY、https://mbo.emb.gov.ph/?page_id=18 (2026年1月16日閲覧)
(3)フィリピン 絶望の市街戦 ~マニラ海軍防衛隊~、NHKアーカイブス、2007年放送、(2026年1月16日閲覧) https://www2.nhk.or.jp/archives/movies/?id=D0001210015_00000
(4)北海道釧路市、世界三大夕日、日本経済新聞、2015年1月31日https://www.nikkei.com/article/DGKKZO82593630Q5A130C1NNP000/ (2026年1月17日閲覧)
(5)世界三大夕日に危機 マニラ湾、埋め立てに高まる批判、日本経済新聞、2024年10月23日
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGM094AU0Z01C24A0000000/#:~:text=%E8%8D%92%E6%B6%BC%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%9F%E6%B9%BE%E5%86%85%E3%81%AE,%E3%81%A7%E5%9F%8B%E3%82%81%E7%AB%8B%E3%81%A6%E3%82%92%E4%BF%83%E9%80%B2%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82&text=%E4%B8%80%E6%96%B9%E3%81%A7%E7%92%B0%E5%A2%83%E4%BF%9D%E8%AD%B7%E5%9B%A3%E4%BD%93,%E3%81%99%E3%82%8B%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%92%E7%A4%BA%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82
(2026年1月17日閲覧)
(6)マニラ、アジアで最も交通渋滞が深刻な都市に選定、ビジネス短信、日本貿易振興機構(ジェトロ)、2019年10月03日
https://www.jetro.go.jp/biznews/2019/10/2a9843e2ec2077c1.html (2026年1月19日閲覧)
(7)Manila Bay: The Environmental Impact of Land Reclamation,EARTH.ORG,2023年6月20日
https://earth.org/manila-bay/ (2026年1月19日閲覧)
(8)Stop Manila Bay reclamation; value lives, heritage of Filipinos, manila bulletin
https://mb.com.ph/2026/01/16/stop-manila-bay-reclamation-value-lives-heritage-of-filipinos
(2026年1月19日閲覧)
(9)東南アジアの都市 水没の危機、公益社団法人日本地下水学会、
https://jagh.jp/archive/side_story/%E6%9D%B1%E5%8D%97%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%AE%E9%83%BD%E5%B8%82%E3%80%80%E6%B0%B4%E6%B2%A1%E3%81%AE%E5%8D%B1%E6%A9%9F/
(2026年1月19日閲覧)
(10)フィリピン 国の公共工事に不正疑いで大規模デモ 17人拘束、NHK ONE、2025年9月21日
https://news.web.nhk/newsweb/na/na-k10014929141000 (2026年1月20日閲覧)
(11)釧路湿原国立公園、国立公園一覧、環境省
https://www.env.go.jp/nature/nationalparks/list/kushiro-shitsugen/ (2026年1月28日閲覧)
(12)メガソーラーの駆け込み建設「中止を」釧路市の自然団体、17万筆超の署名を北海道に提出、産経新聞、2025年12月11日
https://www.sankei.com/article/20251211-QBG72MJADBNYRK2VC7JBU65TS4/ (2026年1月28日閲覧)




