
秋野不矩美術館における展示活動について
はじめに
秋野不矩(1908~2001)は、昭和初期から平成にかけて活躍した日本画家である。
戦後間もない頃、「世界性に立脚する日本絵画の創造を期す」と宣言して始まった「創造美術」の結成に参画、54歳(1962年)のときにインドの大学の客員教授に招かれて以降はインドに魅せられ、インドの風景や人々の生活を描いた。93歳で亡くなる前年にはモチーフを求めてアフリカへ旅するなど、人生の最後まで絵を描くことに真摯に向き合った女流画家である。
本稿では、そうした秋野の画業を紹介する秋野不矩美術館の展示活動(1)について評価し、かつ、他の美術館と比較してどのような点が特筆されるのかを述べるとともに、今後の展示活動の展開について考察する。
1 基本データと歴史的背景
(1)秋野不矩について
秋野不矩は明治41(1908)年に静岡県磐田郡二俣町(現:浜松市天竜区二俣町)に生まれた。秋野の生家は小高い山の上の一軒家で、貧しさのなかで母が買ってくれた色鉛筆が嬉しかったことや、小学6年生のときに図画の先生が見せてくれたゴッホやゴーギャンの画集が初めて知る絵の世界であったことを述懐している(2)。
その後、就職により一旦は美術の道をあきらめるが、絵を描くことへの情熱を捨てきれず、千葉と京都で師につき、28歳(1936年)の時の文展で天竜川の河原で遊ぶ長男を描いた《砂上》が選奨を受賞する(3)。
1948年に上村松篁や広田多津ら13人とともに結成した「創造美術」は、国が行う展覧会の権威や師弟関係に縛られず、自分の思うような絵が実力でもって描ける世界を創ろうとするものであり(4)、日本画壇に対する若い画家たちの挑戦であった。54歳以降、大地と人々の営みに惹かれて14回インドを訪れ、寺院や土の家、大河と水牛、人々の生活と祈りなどを描いた。
(2)秋野不矩美術館について
秋野不矩美術館は、郷土の偉人である秋野の顕彰のために、1998年に天竜市(2005年に浜松市と合併)が設置した美術館で、秋野の故郷である市北部、天竜川沿いの小高い山の上に建っている。
この美術館は建築家の藤森照信氏(1946~)により設計されたもので、ワラと土を混ぜて塗られた外壁や、半丸太をくりぬいた雨どいなど、自然との融合を意識した外観となっている(5)。展示室は壁の漆喰と床の大理石で真っ白な空間であり、そこに天窓からの外光が差し込み室内中央の床を照らしている。この展示室は靴を脱いで素足で作品を鑑賞する運営がなされている(6)。
2 展示活動の評価
(1)展示テーマについて
秋野不矩美術館では、所蔵品展とテーマに添って借用作品も含めて展示する特別展が行われている。
過去の所蔵品展のテーマを整理してみると、インドに関連したものが60%、秋野の家族や故郷に関連したものが13%、秋野の画法に関連したものが12%と分析される。また特別展では、「上村松篁展」(1998)など秋野と交流のあった画家をテーマとしたものが35%、「革新表現に挑む女流画家たち」(2016)など女流画家にスポットを当てたものが19%、「日本画40年展」(2002)など日本画全般を扱ったものが19%、「西田俊英展」(2022)など現在活躍する日本画家を紹介したものが10%と分析される(7)。
(2)展示解説について
2024年4月に、年間テーマ「有為転変―変化してやまぬ創造の源」の第1期「流転」(8)を鑑賞した。二曲一隻の屏風に描かれた《姉妹》(1946)では、第二扇(左)と第一扇(右)に描かれた女性の対比から、第二扇は女性の髪型や正座する佇まい、着物の伝統的な造りから「姉」であり「伝統」、第一扇は胸元に絞り柄が入る着物と、膝を崩す座り方から「妹」であり「革新」であると推察し、伝統と革新の狭間での表現の「流転」が解説されていた。
つぎに、同年7月に第二期の「脈」(9)を鑑賞した。暗雲が立ち込め氾濫するダヤ川を水牛が渡る《渡河》(1992)と、滔々と流れる大河ガンジスを描いた《ガンガー》(2000)を並べ、秋野が同じテーマを繰り返し描き、多様に変化する自然の表情を追及したことや、年を追うごとに表現の抽象性が増していることを解説していた。この展示では、いにしえからインドの大地を流れる河と、それを描き続ける秋野の画業の変遷が「脈」として示されていた。
(3)展示活動の評価
この館における展覧会は、インドに関連したテーマが中心となっている。これは秋野が50歳代以降約40年にわたり精力的に描き続け、多くの作品が残されていることから当然のことといえるが、そのほかにも秋野の家族や故郷、画法(人物描写や色)、青甲社や創造美術などゆかりの画家、女流画家、現在活躍する日本画家など様々な視点から企画がなされている。
また展示解説では、その作品が制作された時代において秋野が作品に込めた想いの分析や、同じモチーフで制作時期が違う作品や本画と素描、小下図を並べて比較することで、制作時期や制作過程での作者の思考の変遷や推移を解き明かそうとする試みがなされていた。
このように自然との融合を意識した展示空間において、秋野の画業を様々な視点から紹介するとともに秋野の想いや思考に迫ろうとすることは、来館者が秋野不矩を深く知ることにつながるものであり、高く評価されるものである。
3 秋野不矩美術館の特筆点
秋野不矩美術館の特筆点について、秋野と生年が同じである日本画家東山魁夷(1908~1999)の個人美術館である「東山魁夷館」の例を参照して考察する(10)。
筆者は2024年12月に東山魁夷館「コレクション展第Ⅳ期」(11)を鑑賞した。この展覧会では、《白馬の森》(1972)の本画を中心に《白い馬の見える風景》の習作などが展示され、秋野不矩美術館と同様、作品やその制作過程について深く探求されていた。また、展示空間は木を基調にした床とライトグレーの壁面で統一され、鑑賞後にラウンジから見る庭園は、遠方の山並みと一体化して雪景色となり、魁夷が愛した信州の自然を感じさせるものであった(12)。
そのうえで筆者は、秋野不矩美術館の特筆点として、同館における秋野の想いが込められた展示空間を挙げる。
秋野は、インドの貧しくて素足で土を踏む子どもたちと接するなかで、彼らは「土や水、風や太陽、雨、草木そして咲く花々。自然はきびしく苛酷である一方、やさしい恵みをたれていることを身をもって知っている」とし、「生きる尊さをもっと身近に思いおこし感じる生活が必要ではないか」と結んでいる(13)。
同館の外観とともに展示室の足裏から感じる大理石の冷たさや、肌に感じる天窓からのかすかな光には、インドの苛酷ではあるが恵みをもたらす自然と、そこで育まれた宗教とともに生きる人々の生活を描いた秋野の想いが組み込まれている。そうした意味において、長野県立美術館との一体的な整備による近代的な東山魁夷館と比べ、同館の空間デザインのユニークさは特筆されるべきものである。
4 今後の展望とまとめ
現在、秋野の高校の同窓生により、秋野が画家を目指す前のできごとを中心に調査が進められている。
そのなかで、火災により焼失し白黒の画像しか残されていない第11回帝展初入選作《野を帰る》(1930)が、同窓生の記憶を基に同校生徒により復元され、焼失前の「黄」や「赤」の色鮮やかな作品として観ることができる(14)。そしてこの作品からは、《廃墟Ⅲ》(1990)(15)の黄色い草原のなかに印象的に使われている朱の文字や、原野のなかでたくましく生きる人々など、晩年にインドを描いた作品との共通性を感じる。
秋野は赤が好きで朱をよく使うという。そして、インドには濃い良い色の赤土や白けたような黄土があるといい(16)、粗くてザラザラした絵具を使って、ザクザクした油絵のような絵を描きたかったと述べている(17)。
幼少期に天竜川の白砂や、麦畑や桑畑が広がる大松の下で兄妹と遊んだ秋野の原体験(18)が、のちのインドでの制作活動につながっていることは容易に想像できる。今後は、現在行われている調査により得られる「新たなまなざし」で、今一度、若き日の修業時代や新たな日本絵画の創造を目指した時代の作品を見つめ直し、そこにどのような想いが込められ、表現方法がどう変化していったのかをより深く考察することが必要である。そうすることが、昭和初期から今日に至る日本画壇の創造と革新の歴史を、秋野の視点から見つめ直すとともに、秋野の画業が再び注目されることにつながるものと考える。
参考文献
註
(1)本稿において「展示活動」とは、展覧会に加え、建物や展示室など展示活動のための空間も含むものとする。
(2)秋野不矩『画文集 バウルの歌』、筑摩書房、1992年、p.162-164。
(3)秋野不矩『画文集 バウルの歌』、筑摩書房、1992年、p.177。
(4)大阪府「なにわ塾」編『日本画を語る 秋野不矩』、株式会社ブレーンセンター、1990年、p.60-64。
(5)資料1「浜松市秋野不矩美術館 写真」(2024年12月14日筆者撮影)
(6)浜松市秋野不矩美術館HP「建物の見どころ・フロアマップ」、公益財団法人浜松市文化振興財団。
https://www.akinofuku-museum.jp/museum/highlight/(2025年1月24日閲覧)
(7)資料2「浜松市秋野不矩美術館 所蔵品展・特別展テーマ分析」(筆者編集)
(8)浜松市秋野不矩美術館HP「有為転変―変化してやまぬ創造の源Ⅰ~流転~ 作品目録」、公益財団法人浜松市文化振興財団。
https://www.akinofuku-museum.jp/mgr/wp-content/uploads/2024/03/%EF%BC%88%E6%9C%80%E7%B5%82%E7%89%88%EF%BC%89R6%E5%B9%B4%E5%BA%A6-%E7%AC%AC1%E5%9B%9E-%E6%89%80%E8%94%B5%E5%93%81%E5%B1%95%E7%9B%AE%E9%8C%B2.pdf(2025年1月24日閲覧)
(9)浜松市秋野不矩美術館HP「有為転変―変化してやまぬ創造の源Ⅱ~脈~ 作品目録」、公益財団法人浜松市文化振興財団。
https://www.akinofuku-museum.jp/mgr/wp-content/uploads/2024/03/%EF%BC%88%E7%B8%AE%E5%B0%8F%EF%BC%89%EF%BC%88%E6%9C%80%E7%B5%82%E7%89%88%EF%BC%89R6%E5%B9%B4%E5%BA%A6-%E7%AC%AC2%E5%9B%9E%E6%89%80%E8%94%B5%E5%93%81%E5%B1%95%E7%9B%AE%E9%8C%B2-%E3%82%B3%E3%83%94%E3%83%BC.pdf(2025年1月24日閲覧)
(10)資料3「秋野不矩美術館・東山魁夷館 基本データの比較」(筆者編集)
(11)長野県立美術館 東山魁夷館HP「東山魁夷館コレクション展2024 第Ⅳ期」。
https://nagano.art.museum/exhibition/higashiyama202404(2025年1月24日閲覧)
(12)資料4「長野県立美術館 東山魁夷館 写真」(2024年12月21日筆者撮影)
(13)秋野不矩『画文集 バウルの歌』、筑摩書房、1992年、p.24。
(14)『秋野不矩青春紀行』、静岡県立天竜高等学校同窓会 二俣木の花会、2024年、p.50。
(15)浜松市秋野不矩美術館HP「作品ギャラリー」、公益財団法人浜松市文化振興財団。
https://www.akinofuku-museum.jp/akinofuku/gallery/(2025年1月24日閲覧)
(16)大阪府「なにわ塾」編『日本画を語る 秋野不矩』、株式会社ブレーンセンター、1990年、p.153。
(17)大阪府「なにわ塾」編『日本画を語る 秋野不矩』、株式会社ブレーンセンター、1990年、p.34。
(18)秋野不矩『画文集 バウルの歌』、筑摩書房、1992年、p.161-162。
参考URL
・浜松市秋野不矩美術館HP、公益財団法人浜松市文化振興財団。
https://www.akinofuku-museum.jp/(2025年1月24日閲覧)
・秋野不矩の会HP、一般社団法人秋野不矩の会。
https://www.akinofukunokai.com/(2025年1月24日閲覧)
・創画会HP「創画会について」、一般社団法人創画会。
https://www.sogakai.or.jp/organization.html(2025年1月24日閲覧)
・東山魁夷館HP、長野県立美術館。
https://nagano.art.museum/higashiyama_kaii_gallery(2025年1月24日閲覧)
参考文献
・浜松市秋野不矩美術館 他 編『生誕100年記念 秋野不矩展』、毎日新聞社/浜松市秋野不矩美術館、2008年。
・天竜市立秋野不矩美術館 他 編『秋野不矩展―創造の軌跡―』、毎日新聞社/天竜市立秋野不矩美術館、2003年。
・天竜市立秋野不矩美術館 他 編『文化勲章受章記念 秋野不矩展』、毎日新聞社/天竜市立秋野不矩美術館、2000年。