
余喜の能登獅子-被災コミュニティの未来をデザインする獅子舞
はじめに
令和6年能登半島地震(1)が石川県にもたらした被害は甚大であり、被災地では復旧と復興の同時進行が求められている。山泰幸は、人々が復興したと実感するソフト面への配慮が被災コミュニティの復興には必要だと述べ、「復興儀礼」を提示する(2)。そうした儀礼の役割を担うものとして伝統行事が期待され、被災した余喜地区では獅子舞が巡行されている(3)。獅子舞は日本で最も多く伝わる民俗芸能で、「成年戒」の要素を含むといわれ、地域社会の重要な文化的シンボルとなっている。
本稿の目的は、余喜の獅子舞の特徴を『羽咋市獅子舞調査報告書』(以下、報告書)(4)を基にフィールドワークから捉え直し、「時間のデザイン」の観点から評価を加え、他地域との比較から「多様な伝承文化」を可能とする地域性を明らかにし、今後の展望を考察することにある。
1.基本データと歴史的背景および現状
1-1.余喜について(資料1)(資料1-1)
石川県羽咋市の余喜は、能登半島基部の西側に位置する碁石ヶ峰山麓の3町(大町・酒井・四柳)と邑知潟低地の2町(金丸出・下曽祢)が近世に合併した人口1500人強の地区で、弥生時代に農耕文化が定着し(5)、現在の羽咋と七尾を結ぶ水陸交通の要地だったと伝わる。古代は与木郷と呼ばれ、中世に大町保・酒井保・四柳保などが再編して与木院になったと考えられている(6)。
四柳の地名を冠する神社周辺に観音堂と地蔵堂(7)があり、中世には修験寺院の結びつきの強化を図る道興(1430-1527)が京都から訪れたことから、民間信仰の中心地だったことがうかがえる(8)。隣接する大町には延喜式内社の余喜比古神社や御門主比古神社があり(9)、山伏による雨乞いの儀式が伝わっている(10)。鎌倉時代に創建された酒井の永光寺(11)は、桃山時代に活躍した長谷川等伯(1539-1610)(12)の才能を育んだことで知られる能登畠山氏(13)の菩提寺である。余喜は加賀藩領となった近世でも鹿島郡域だったが、1956年に現在の羽咋市に編入している(14)。
1-2.余喜の獅子舞について(資料1-2)
報告書によって、余喜の獅子舞は、能登地方に伝わる能登獅子に位置づけられている(15)。鉦・太鼓・笛による祭囃子に合わせて生命力の強いムカデをイメージさせる獅子が対峙するのは、烏帽子を被る天狗である。烏帽子は中世武家社会における成人男性の被り物だが、近世の口能登で「烏帽子親(よぼしおや)」と呼ばれる擬制的親子制度が多数確認されており(16)、現在も余喜を含める一部地域でそうした相互扶助の関係が残されている(17)。
余喜の獅子舞巡行は春季祭礼の際に行われるが、金丸出は数年前から休止し(18)、酒井では前述の震災による生活再建のために断念した(19)。残る3町は、50~75人の従事者で執行している(20)。獅子と天狗がともに神輿を先導しながら町内を廻り、御旅所や招待家の庭で複数の演目が披露されたが、大町では青年団を中心とする獅子舞演舞を、下曽祢と四柳の2町では子獅子による演舞を披露している。
2.時間のデザインの評価(資料2)
2-1.成年戒のデザイン
余喜の祭礼は午後にはじまり、獅子舞奉納が宮出しと宮入りの際に各神社で行われ、終了するのは夕方もしくは深夜となる。四柳では、百足獅子とも呼ばれる獅子と天狗の気力と体力を、火を用いた山伏の修行をうかがわせる宮入り前の演舞(21)で強制的に限界まで追い込み、大町と下曽祢を含む百足獅子の一部地域に伝わる「獅子殺し」(22)では、天狗が獅子を退治するまで演舞が続けられていた。そうした獅子舞の「死」と「再生」の疑似体験から烏帽子親子関係の呪術的要素(23)がうかがえ、それが個人の成長を促すエドマンド・リーチ(1910-89)の通過儀礼(24)となっている点を高く評価する。
2-2.復興儀礼のデザイン
山が提示するのは、ファン・へネップ(1873-1957)の通過儀礼を採用した復興儀礼であり、その象徴として祭祀施設の再建を一例にあげているが(25)、震災の被害が比較的多く見られる邑知潟低地側の下曽祢で行われた復興祈願の獅子舞巡行(3)から、へネップの概念を発展させたリーチの概念を見出すことができる。町会役員および地域住民の協力の下に成り立つ当該地域の獅子舞は、町民の約半数(26)が祭りの担い手となっている。平時から地域住民の絆を深め、災害時の復旧・復興を担う共助の精神強化に寄与する獅子舞は、復興感を得られる復興儀礼ともなっている点が評価に値する。
3.多様な伝承文化-芦津集落との比較から探る特筆(資料3)(資料3-1)(資料3-2)
鳥取県無形民俗文化財に指定されている花籠祭りと麒麟獅子が、智頭町の芦津集落の人々によって䖝井神社の例祭に奉納されているが、そうした文化財は、持続可能な保存・活用の方向へと進められている。小林稔は、人々の暮らしぶりに直結する無形民俗文化財の場合、地域プライバシーを確保する必要性を文化財保護行政の視点から言及しており(27)、江戸時代に林業地として栄えた芦津集落では、そのプライバシーは山村再生課(28)によって厚く保護されている。町役場が民泊の窓口業務を担うことで安全性が保たれる上に、民泊を機に移住した人々が集落の新しい担い手となっている(29)。2024年の例祭は、花籠祭りを担う12軒の頭屋と、大正時代に鳥取市の宇部神社から習ったと伝わる麒麟獅子を担う獅子舞保存会の計30人で斎行された(30)。集落の人々は町役場と協働しながら、伝承すべき古い芸態の持続に取り組んでいる。自地域の民俗行事とともに文化財に位置づける他地域から継承した獅子舞は、例祭に限らずイベント会場でも披露されている(31)。
余喜の獅子舞に文化財指定はなく、年齢階梯制が残る地縁に基づいた組織によって民俗芸能が保持され、四柳では数年前から参加している女子が、男性に限って継承されてきた獅子舞継続に貢献している(32)。2023年に閉校した余喜小学校を文化交流拠点として活用しながらも(25)、近隣の他町に頼ることなく自町で祭礼を完結させている。したがって、山伏による雨乞い儀式とのつながりを見せる大町の獅子舞(33)、能登畠山文化の影響をうかがわせる酒井と四柳の獅子舞(34)、報告書の記載にあるように市内では珍しい鳥烏帽子が伝わる金丸出や下曽祢(35)などの独自性が、町単位で行われた文化の住み分けによって守られている。余喜の特筆は、そうした地域資源となる多様な獅子舞文化が代々継承されてきたことである。
4.今後の展望
震災後に獅子舞を巡行した3町に祭礼従事者の推移や問題点を尋ねると、大町町会長の今井俊一氏は「今後は青年団員の減少が問題」(36)、下曽祢町会長の森武之氏は「毎年5人ずつ人口減少している」(37)、四柳町会長の藤田典知氏は「町会費から捻出する祭典費より人口減少が問題」(38)と返答があった。人口流出が加速する被災コミュニティを再生するためにも、動画を活用した帰属意識の向上が求められる。羽咋市では地域文化資源の保護に向け、2015年から2018年にかけて市内獅子舞の映像記録が作成され(39)、奉納芸能を休止・中止した金丸出(40)や酒井(41)の映像も公開されている。
そうした地域への愛着を深める映像とは別に、2024年の余喜の春季祭礼の様子が発信されている(42)。全国各地の獅子舞の撮影を自費で行う川渕泰之氏は、「小さい頃から共に育った穴水町甲のキリコ祭り(43)と獅子舞が、大昔に少子高齢化で廃絶した」と述べ、2006年頃から動画を公開している(44)。地域を超えた交流が、他地域から足を運んで行われる映像制作を通して生まれている。求心力のある獅子舞が被災地においても観光資源となり、地域活性化につながることが期待される。
おわりに
和辻哲郎は、人としての個人的な「死」および社会的な「生」について、「有限的・無限的」という人間存在の両義性に着目しながら言及し(45)、中西裕二は、日本のいまを生きる人々が未来を創造的に生きるための「過去の時間のデザインの枠組み」の重要性について言及している(46)。地域社会が「生」へ向かうには、地域の風土で培われた資源を人から人の手で未来へつなげていかなければならないが、そうした未来を創造的に生きるための社会的資源の一つが、余喜では過去の時間のデザインが埋め込まれた獅子舞なのである。
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(表紙)
大町の獅子舞:石川県羽咋市大町(すべて2024年5月3日)
1)10)御門主比古神社(筆写撮影)
2)御門主比古神社(筆写撮影およびトリミング加工)
8)町内(筆写撮影)
9)町内(筆写撮影およびトリミング加工)
下曽祢町の獅子舞:石川県羽咋市下曽祢町(すべて2024年4月13日)
3)奈鹿曽姫神社(筆写撮影)
4)町内(筆写撮影および背景の人物生成消去)
四柳町の獅子舞:石川県羽咋市四柳町
5)町内(2024年4月29日筆写撮影)
6)四柳会館(2024年4月27日筆写撮影およびトリミング加工)
7)白山神社(2024年4月29日筆写撮影およびトリミング加工)
※イラストは『羽咋市獅子舞調査報告書』を参考に、筆者作成
はくい獅子舞保存活性化実行委員会編『羽咋市獅子舞調査報告書』はくい獅子舞保存活性化実行委員会、2019年、p.50(酒井町・四柳町)、p.51(大町・下曽祢町)、p.52(金丸出町)。 -
(資料1)基本データ(余喜について)
[図1]石川県周辺(地理院地図を利用、筆者加工)
[図2]羽咋市周辺(地理院地図を利用、筆者加工)
[図3]余喜地区(Google Mapより、筆者作成)
[表1]羽咋市全体と余喜5町の人口
羽咋市ホームページの住民人口「令和6年度12月分」を参照、筆者作成
参照:https://www.city.hakui.lg.jp/soshiki/shiminfukushibu/shimin/10/1/1779.html(2025年1月20日閲覧) -
(資料1-1)歴史的背景および現状(余喜について)
①四柳町
[図4]震災前の四柳神社入り口(2023年8月24日筆写撮影)
[図5]四柳神社の社標と歌碑(2024年5月5日筆者撮影)
[図6]道興の歌碑(2024年5月5日筆者撮影)
②大町(2024年8月24日筆者撮影)
[図7]夫婦石まつり:碁石ヶ峰山腹
③酒井町(2024年11月17日筆者撮影)
[図8]永光寺の楼門
[図9]能登畠山氏の五輪塔で手を合わせる住職の屋敷智乘氏
[図10]能登畠山氏の寺位牌 -
(資料1-2)現状(余喜の獅子舞について)
①獅子舞を休止・中止した2町
[図11]長曽会館:金丸出町(2024年4月16日筆者撮影)
[図12]日吉神社:酒井町(2024年4月24日筆者撮影)
②獅子舞を巡行した3町
[表2]2024年春季祭礼の従事者数
・人口数:羽咋市ホームページの住民人口「令和6年度5月分」を参照、筆者作成
参照:https://www.city.hakui.lg.jp/soshiki/shiminfukushibu/shimin/10/1/1779.html(2025年1月20日閲覧)
・祭りの従事者数:大町と下曽祢の町会長からの返信メール(2024年11月8日)と四柳町会長の電話インタビュー(2024年11月24日)より、筆者作成
[図13]四柳町の2024年獅子舞巡行コース
西井誠吾氏(四柳獅子舞保存会会長)の予定表を参考に、筆者作成
[図14]大町の獅子舞:御門主比古神社(2024年5月3日筆者撮影)
[図15]下曽祢町の獅子舞:下曽祢町内(2024年4月13日筆者撮影)
[図16]四柳町の獅子舞:白山神社(2024年4月29日筆者撮影) -
(資料2)時間のデザインの評価
①成年戒:エドマンド・リーチの概念より、筆者作成
参照:エドマンド・リーチ『文化とコミュニティ』青木保・宮坂敬造訳、紀伊國屋書店、1981年、p.157-161。
②復興儀礼のデザイン:山泰幸の概念より、筆者作成
参照:山泰幸「『象徴的復興』とは何か」、『先端社会研究』5号、2006年、p.157-158。
写真:酒井町の日吉神社
1)倒壊した社標(2024年4月21日筆者撮影)
2)修理を終えた社標(2025年1月1日筆者撮影)
写真:金丸出の神明神社
3)倒壊した社殿(2024年4月16日筆者撮影)
4)解体撤去された社殿(2024年11月10日筆者撮影) -
1)地理院地図を利用、筆者加工
2)花籠祭りの行進開始:鳥取県八頭郡智頭町芦津(筆者撮影)
3)花男たちに酒が振る舞われる:ちづの宿本綾木前(筆者撮影)
4)花籠が奉納される:䖝井神社(筆者撮影およびトリミング加工)
5)麒麟獅子の奉納舞:䖝井神社(筆者撮影および背景の人物生成消去)
6)麒麟獅子と子供たち:䖝井神社(筆者撮影) -
(資料3-1)多様な伝承文化(芦津集落と余喜の比較)※すべて筆者作成
[図17]文化財の保存と活用のイメージ図(芦津集落)
[図18]文化の住み分けイメージ図(余喜) -
(資料3-2)多様な伝承文化(余喜の独自性)
①大町(写真はすべて2024年5月3日筆者撮影)
[図19]神輿渡御:大町町内
[図20]宮司の祝詞の様子:碁石ヶ峰山麓
②四柳町(写真はすべて2024年4月29日筆者撮影およびトリミング加工)
[図21]獅子舞:白山神社
[図22]神輿:白山神社付近
③下曽祢町と金丸出町
[図23]下曽祢町の獅子舞:下曽祢町内(2024年4月13日筆者撮影およびトリミング加工)
[図24]金丸出町の獅子頭と天狗:金丸出町内(2024年4月16日筆者撮影)
参考文献
〈註〉
(1)2024年1月1日午後4時10分に能登半島沖で発生したマグニチュード7.6の地震で、石川県羽咋郡志賀町と輪島市で最大震度7を観測し、能登半島基部の羽咋郡宝達志水町や羽咋市で震度5強を観測している。
(2)山泰幸「『象徴的復興』とは何か」、『先端社会研究』5号、2006年、p.153-175。
(3)「被災した羽咋の神社で春祭り 伝統の獅子舞が披露|石川県のニュース」NHK
https://www3.nhk.or.jp/lnews/kanazawa/20240413/3020019911.html(2025年1月22日閲覧)
(4)はくい獅子舞保存活性化実行委員会編『羽咋市獅子舞調査報告書』はくい獅子舞保存活性化実行委員会、2019年。
(5)四柳で発見された遺跡から、縄文時代から近世までの集落や耕作地の層が確認されている。
・川畑誠 他編『羽咋市 四柳白山下遺跡Ⅰ』石川県教育委員会・石川県埋蔵文化財センター、2005年、p.1。
(6)『角川日本地名大辞典』を参考に、歴史的変遷をまとめた。
・角川日本地名大辞典編纂委員会編『角川日本地名大辞典(17)石川県』KADOKAWA、2009年、p.940(余喜)、p.401(酒井)、p.954(四柳)、p.195(大町)、p.263(金丸出)、p.450(下曽禰)。
(7)四柳観音堂は能登国三十三所観音霊場の12番札所であり、現在も巡礼者が訪れる。四柳地蔵堂では毎年8月24日に地蔵盆まつりが町会主催で執行されている。
・西山郷史・上陽子『能登国三十三観音のたび』能登ネットワーク、2005年、p.57-59。
・芸術教養講義7拙稿「四柳町の地蔵盆祭り」、2023年夏期。
(8)『羽咋市史』と『鹿島市史』に聖護院門跡の道興准皇の紀行文『廻国雑記』の記述があり、四柳で詠んだ和歌が記載されている。道興の和歌から、能登国での最終目的地が中世の修験道の山として知られる石動山(せきどうさん)であることが分かる。
・羽咋市史編さん委員会編『羽咋市史 中世・寺社編』羽咋市役所、1975年、p.92-94。
・鹿島町史編纂専門委員会編『鹿島町史 通史・民俗編』石川県鹿島郡鹿島町役場、1985年、p.157-159。
(9)延喜式内社については、『鹿島町史』や『角川日本地名大辞典』に記述がある。後者の見出し語「大町〈羽咋市〉」に、「式代社御門主比古神社・余喜比古神社が鎮座する」と記述されているが、余喜比古神社は現存せず、その御池址石碑が御門主比古神社付近に立っている。
・角川日本地名大辞典編纂委員会編『角川日本地名大辞典(17)石川県』KADOKAWA、2009年、p.195(大町)。
・鹿島町史編纂専門委員会編『鹿島町史 石動山資料編』石川県鹿島郡鹿島町役場、1986年、p.67。
(10)毎年8月25日に行われる「夫婦石まつり」は、近代から現代にかけて、大町町会長が碁石ヶ峰山腹にある巨石の前で司祭を代々務めてきた雨乞い神事で、羽咋市の無形民俗文化財に指定されている[図7]。
(11)永光寺(ようこうじ)は、羽咋市酒井町にある曹洞宗寺院である。足利尊氏の祈願所であり、能登畠山氏の五輪塔と位牌が現存する。
・本谷文雄編『図説 永光寺ものがたり-歴史と文化財-』永光寺、2002年、P.42。
・三宅国吉編『能登畠山史要』畠山一清、1942年、p.27。
(12)等伯は、能登畠山氏の家臣である奥村宗道の子として誕生し、染物屋の長谷川家の養子となる。
・七尾市史編さん専門委員会編『図説 七尾の歴史と文化』七尾市役所、1999年、p.64-65。
(13)能登畠山氏は、170年にわたって能登国を統治した守護大名で、第七代当主義総(1491-1545)が全盛期を築いた時代に等伯が幼少期を過ごしている。等伯の生地で、2023年に能登畠山氏の企画展が開催されている。
・「能登畠山氏とゆかりの文化」石川県七尾美術館
https://nanao-art-museum.jp/nhandc(2025年1月29日閲覧)
(14)能登畠山氏滅亡および市町村合併で羽咋町域となった経緯などは、郷土史を参考にまとめた。
・羽咋市史編さん委員会編『羽咋市史 中世・寺社編』羽咋市役所、1975年、p.81。
・羽咋市史編さん委員会編『羽咋市史 近現代・通史編』石川県羽咋市、2008年、p.85。
(15)はくい獅子舞保存活性化実行委員会編『羽咋市獅子舞調査報告書』はくい獅子舞保存活性化実行委員会、2019年、p.16。
(16)余喜でも烏帽子親の習俗は僅かに残るが、近いうちに消滅するといわれている。
・干場辰夫「[8]能登の烏帽子親-擬制の親子関係を結ぶ習俗(県北部)」、加藤秀俊 他編『全国の伝承 江戸時代の人づくり風土記-聞き書きによる知恵シリーズ(17)ふるさとの人と知恵 石川』石川組本社、1991年、p.283-286。
(17)高野淳「(木曜手帳)烏帽子(よぼし)の子と実の子」、『北國新聞』【日刊】第47310号(9)、2024年12月5日。
(18)金丸出町会長の服部岩男氏への長曽会館でのインタビューより(2024年4月16日)。
(19)酒井町会長の川口雅登氏への電話インタビューより(2024年4月20日)。
(20)大町町会長の今井俊一氏と下曽祢町会長の森武之氏からの返信メール(2024年11月8日)と、四柳町会長の藤田典知氏への電話インタビューより(2024年11月24日)。
(21)報告書の市内獅子舞インデックス〈余喜地区〉の四柳町の欄に、火を用いた演舞の写真が掲載されているが、2024年の祭礼で披露されていない。
・はくい獅子舞保存活性化実行委員会編『羽咋市獅子舞調査報告書』はくい獅子舞保存活性化実行委員会、2019年、p.50。
(22)学芸員の中野智幸氏によって報告書の第一部に、獅子殺しは羽咋市内の三系統(加賀獅子・越中獅子・能登獅子)の内、越中獅子に多い格闘色の強い演目であること(p.13)、余喜の3町(大町・金丸出・下曽祢)に伝わることが記されている(p.27)。2024年の祭礼は震災の影響もあり、下曽祢では獅子殺しを披露していないが、大町では震災に関係なく途絶えているという。
・中野智幸編「第一部 羽咋の獅子舞概説」、はくい獅子舞保存活性化実行委員会編『羽咋市獅子舞調査報告書』はくい獅子舞保存活性化実行委員会、2019年、p.13(③越中獅子)、p.27(演目一覧)。
(23)干場辰夫によれば、よぼし親子関係を結ぶ理由には、成年に達して新しく生まれ変わる〈呪術的理由〉と、相互扶助の関係を結ぶ〈機能的理由〉の二つの説があるが、前者の説は、能登での検証は困難だと述べている。
・干場辰夫「[8]能登の烏帽子親-擬制の親子関係を結ぶ習俗(県北部)」、加藤秀俊 他編『全国の伝承 江戸時代の人づくり風土記-聞き書きによる知恵シリーズ(17)ふるさとの人と知恵 石川』石川組本社、1991年、p.285。
(24)エドマンド・リーチ『文化とコミュニティ』青木保・宮坂敬造訳、紀伊國屋書店、1981年、p.157-161。
(25)山泰幸「『象徴的復興』とは何か」、『先端社会研究』5号、2006年、p.157-158(復興儀礼)、p.169-170(宗教的象徴の問題)。
(26)下曽祢の町民150人中、祭りの従事者数は70人である( [表2] 参照)。町会長の森武之氏からの返信メール(2025年1月8日)によれば、下曽祢の被災後の祭礼執行には反対意見もあったという。それでも「町を盛り上げるため、奥能登へエールを送るため」に町民の協力を仰いで獅子舞を決行した森氏は、同年5月に発足した「まちづくり連絡協議会」の会長として、余喜全体の活性化にも取り組んでいる。
・「余喜の朝市『よき交流』活性化へ空き施設活用 まちづくり協が月1回開催|地域|石川のニュース」北國新聞
https://www.hokkoku.co.jp/articles/-/1409881#goog_rewarded(2025年1月11日閲覧)
(27)小林稔「指定解除の実際-まつりと無形民俗文化財の葛藤」、石垣悟編著『まつりは守れるか-無形の民俗文化財の保護をめぐって』八千代出版、2022年、p.189-207。
(28)「山村再生課」鳥取県智頭町ホームページ
https://www1.town.chizu.tottori.jp/chizu/sanson_saisei/(2025年1月14日閲覧)
(29)「ちづの宿本綾木」のオーナー夫妻の綾木修二氏と貞子氏は、関東から智頭町にUターンして民泊を営み、頭屋として当該集落の伝統行事を支えている。両氏は、「民泊の窓口が役場の山村再生課となっているのは全国でも珍しい」と述べる。(2024年11月28日現地インタビューより)
(30)従事者数は、芦津集落世話人の寺谷道夫氏への電話インタビューより(2024年11月11日)。
(31)朝日デジタルに、イベント会場で披露された芦津集落の麒麟獅子が紹介されている。
・石川和彦「鳥取・芦津の麒麟獅子舞を披露 智頭の石谷家住宅 [鳥取県] (2020年11月23日)」朝日新聞デジタル
https://www.asahi.com/articles/ASNCQ6SY1NCQPUUB004.html(2025年1月7日閲覧)
(32)四柳会館で獅子舞の指導を行っていた同町獅子舞保存会会長の西井誠吾氏へのインタビューより(2024年4月27日)。
(33)(10)にある通りに現在も町会長と町会役員によって行われている大町の夫婦石まつりは、かつては巨石のある山腹に位置したという御門主比古神社で山伏によって行われたと伝わる。春季祭礼では、その山腹を望む忠魂塔の前で宮司が祝詞を読み上げ[図20]、獅子舞奉納も行われた。
(34)「能登畠山文化」とは京文化を能登に移入したことで知られる能登畠山氏が築いた文化のことで、畠山氏の菩提寺がある酒井[図8,9,10]、神輿の屋根に畠山氏の家紋があしらわれている四柳[図9,10,21,22]に、その影響が窺える。
(35)報告書に、天狗に代わって神輿の先導役をする七尾市中島の猿田彦(お熊甲祭)についての記述があり、お熊甲祭の公式ウェブサイトから、金丸出や下曽祢の鳥烏帽子と猿田彦のものが酷似していることが分かる[図23,24]。
・中野智幸編「第一部 羽咋の獅子舞概説」、はくい獅子舞保存活性化実行委員会編『羽咋市獅子舞調査報告書』はくい獅子舞保存活性化実行委員会、2019年、p.20。
・「【公式】お熊甲祭(おくまかぶとまつり)|国指定重要無形民俗文化財・熊甲二十日祭の枠旗行事」お熊甲祭公式ウェブサイト
https://okumakabuto.jp(2025年1月12日閲覧)
(36)大町町会長の今井俊一氏からの返信メールより(2024年11月8日)。
(37)下曽祢町会長の森武之氏からの返信メールより(2024年11月8日)。
(38)四柳町会長の藤田典知氏への電話インタビューより(2024年11月24日)。
(39)「文化遺産総合活用推進事業 実施計画(羽咋市)」文化庁
https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/joseishien/chiiki_kasseika/h29_sogokatsuyo/jisshikeikaku_chiiki/pdf/r1403300_07.pdf(2025年1月7日閲覧)
(40)参考URL [1] 参照
(41)参考URL [2] 参照
(42)大町(参考URL [5] 参照)と四柳の獅子舞(参考URL [6] 参照)の動画が配信されている。
(43)日本遺産に認定されている「能登のキリコ祭り」は、令和6年能登半島地震で甚大な被害を受けた能登地方6市町(七尾市、輪島市、珠洲市、志賀町、穴水町、能登町)に伝わる、キリコと呼ばれる巨大な燈籠が練り歩く祭礼である。
・「能登のキリコ祭り」日本遺産ポータルサイト
https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/culturalproperties/result/441/(2025年1月8日閲覧)
(44)川渕氏からの返信メール(2025年1月7日)には、2006年頃からYouTubeに動画配信を開始したことが述べられている。
(45)中西裕二「過去の時間デザインと未来」(p.41-44)、中西紹一・早川克美編『私たちのデザイン2 時間のデザイン-経験に埋め込まれた構造を読み解く』(芸術教養シリーズ18)藝術学舎、2014年、p.41-44。
(46)和辻哲郎『風土-人間学的考察』岩波書店、1979年、p.22。
〈参考文献〉
石垣悟編著『まつりは守れるか-無形の民俗文化財の保護をめぐって』八千代出版、2022年。
エドマンド・リーチ『文化とコミュニティ』青木保・宮坂敬造訳、紀伊國屋書店、1981年。
小川直之 他編『伝統を読みなおす2 暮らしに息づく伝承文化』(芸術教養シリーズ23)、藝術学舎、2014年。
折口信夫『日本藝能史六講』講談社、1991年。
鏡味治也 他編、日本文化人類学会編『フィールドワーカーズ・ハンドブック』世界思想社、2011年。
鹿島町史編纂専門委員会編『鹿島町史 資料編(続)上巻』鹿島町役場、1982年。
鹿島町史編纂専門委員会編『鹿島町史 通史・民俗編』石川県鹿島郡鹿島町役場、1985年。
鹿島町史編纂専門委員会編『鹿島町史 石動山資料編』石川県鹿島郡鹿島町役場、1986年。
加藤秀俊 他編『全国の伝承 江戸時代 人づくり風土記 聞き書きによる知恵シリーズ(17)ふるさとの人と知恵 石川』農山漁村文化協会、1991年。
川畑誠 他編『羽咋市 四柳白山下遺跡Ⅰ』石川県教育委員会・石川県埋蔵文化財センター、2005年。
川村邦光『日本民俗文化学講義-民衆の近代とは』河出書房新社、2018年。
角川日本地名大辞典編纂委員会編『角川日本地名大辞典(17)石川県』KADOKAWA、2009年。
世阿弥『現代語訳 風姿花伝』水野聡訳、PHPエディターズ・グループ、2005年。
中西紹一・早川克美編『私たちのデザイン2 時間のデザイン-経験に埋め込まれた構造を読み解く』芸術教養シリーズ18、藝術学舎、2014年。
七尾市史編纂専門委員会編『七尾市史 資料編』第五巻、石川県七尾市役所、1972年。
七尾市史編纂専門委員会編『七尾市史』石川県七尾市役所、1974年。
七尾市史編さん専門委員会編『図説 七尾の歴史と文化』七尾市役所、1999年。
西山郷史・上陽子『能登国三十三観音のたび』能登ネットワーク、2005年。
野村朋弘編『伝統を読みなおす1 日本文化の源流を探る』芸術教養シリーズ22、藝術学舎、2014年。
野村朋弘編『伝統を読みなおす5 人と文化をつなぐもの-コミュニティ・旅・学びの歴史』芸術教養シリーズ26、藝術学舎、2014年。
はくい獅子舞保存活性化実行委員会編『羽咋市獅子舞調査報告書』はくい獅子舞保存活性化実行委員会、2019年。
羽咋市史編さん委員会編『羽咋市史 現代編』羽咋市役所、1972年。
羽咋市史編さん委員会編『羽咋市史 中世・寺社編』羽咋市役所、1975年。
羽咋市史編さん委員会編『羽咋市史 近現代・通史編』石川県羽咋市、2008年。
早川克美『私たちのデザイン1 デザインへのまなざし-豊かに生きるための思考術』芸術教養シリーズ17、藝術学舎、2014年。
早川公『まちづくりのエスノグラフィ-《つくば》を織り合わせる人類学的実践』春風社、2018年。
三宅邦吉編『能登畠山史要』畠山一清、1942年。
本谷文雄編『図説 永光寺ものがたり-歴史と文化財-』永光寺、2002年。
山泰幸「『象徴的復興』とは何か」、『先端社会研究』5号、2006年。
柳田國男『日本の民俗学』中央公論新社、2019年。
和辻哲郎『風土-人間学的考察』岩波書店、1979年。
〈参考URL〉
「はくい獅子舞保存会活性化実行委員会」配信動画
[1]「平成28年度金丸出町祭礼」YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=IKhCRvYfraU(2025年1月7日閲覧)
[2]「平成28年酒井町祭礼」YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=kmmC0FChK8k(2025年1月7日閲覧)
[3]「平成29年度大町祭礼」YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=OkqAqOIGuaU(2025年1月7日閲覧)
[4]「平成28・29年度四柳町祭礼」YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Jr0PLFeS9oI(2025年1月7日閲覧)
「祭りと大樹」配信動画
[5]「大町の獅子舞 2024/05/03, 石川県羽咋市」YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=5jCAvO9r96I(2025年1月7日閲覧)
[6]「四栁の獅子舞 2024/04/29, 石川県羽咋市」YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=OhzxkXIqF_Y(2025年1月7日閲覧)
〈取材協力〉 -余喜地区の春季祭礼関係(取材順)
2024年4月13日(下曽祢の祭礼日)
町会長:森武之氏
2024年4月16日(金丸出の祭礼日)
町会長:服部岩男氏
宮司:梶井重明氏(鹿島郡中能登町の宿那彦神像石神社)
2024年4月20日(酒井の祭礼日)
町会長:川口雅登氏
2024年4月27日(四柳の練習日)、29日(四柳の祭礼日)
町会長:藤田典知氏
獅子舞保存会会長:西井誠吾氏
2024年5月3日(大町の祭礼日)、8月24日(大町の夫婦石まつり)
町会長:今井俊一氏 (両日)
町会顧問:上野正範氏(5月3日)
町会顧問:上野茂氏(8月24日)
副町会長:今井淳一氏(8月24日)
町会役員(五十音順):島田雅昭氏、八野田武氏、若狭正勝氏(8月24日)
2024年11月17日(酒井町)
洞谷山永光寺 五百十七世
住職:屋敷智乘氏
2025年1月7日(獅子舞動画)
「祭りと大樹」YouTubeチャンネル管理人:川渕泰之氏
-芦津集落の花籠祭りと麒麟獅子(順不同)
ちづの宿本綾木
オーナー夫妻:綾木修二氏・貞子氏
芦津集落世話人:寺谷道夫氏
智頭町役場山村再生課内
智頭町森のガイドの会事務局:赤堀氏