広島市 平和大通りの樹木 〜復興と平和の象徴〜
広島市 平和大通りの樹木 〜復興と平和の象徴〜
Ⅰ.はじめに
広島県広島市のほぼ中心に位置するこの通りは、幅員100mのうち45〜50%が植樹帯の緑豊かな大通りである。東の鶴見橋から西の新己斐橋まで3.93㎞にわたり、様々な種類の樹木が都心に緑の軸線を描いている。[註1](写真1)
この通りを彩る樹木は、原爆によって焦土と化した広島の地に「再び緑を」と始まった供木運動をきっかけに、国内外から支援で寄せられたものであり、広島の“復興の象徴”となっている。また、緑地帯にアオスジアゲハなど昆虫が生息し、夏には白神社前の被爆樹木にとまる蝉を、近隣の園児たちが取りに訪れたりと(写真2)”街の植物園”として市民に親しまれている。(写真3)このような営みが樹木を通じて行われており、1986年には建設省「道の日」実行委員会により、「日本の道100選」に選ばれている。
以下では、平和大通りの象徴である“樹木”に焦点をあて、その歴史性と市民からの親愛性を評価し、今後さらにこの通りで人の営みが行われ、歴史や先人の想いを継承していくにはどうするべきかを考察する。
Ⅱ.平和大通りと樹木の歴史
広島市は1945年に空襲による延焼を防ぐために、民家などを壊して幅100mの防火帯をつくった。しかし原爆には役に立たず、それどころかここで建物疎開作業を行っていた動員学徒5千数百人が犠牲となった。[註2]後に平和大通りの基盤となるこの100mの幅員は、こうした悲惨な歴史の爪痕でもある。戦後は、戦災復興の都市計画により、道路として活用することが決まり、1951年には公募によって「平和大通り」の名称が決まるも、整備・舗装は思うように進まなかった。そんな中、市民からは「住宅難の時代にどうしてこんな広い道路がいるのか」など批判の声が相次ぎ、計画は縮小に傾く。しかし、再度開発続行が決まると、それならば「ここから緑を増やしていこう」と、1957年〜58年に市が近隣市町村に呼びかけ、“供木運動”へと進展する。この呼びかけは国内にとどまらず海外にも届き、高木など約2500本と多くの低木が寄せられた。そうした経緯から、市民はこの通りの樹木に親しみを持っている。広島県被団協の坪井直理事長は「元気に育つ樹木は被爆者に勇気をくれた。」と述べている。[註3]
市民にとってつらい過去をもち、批判の対象であったこの通りを、復興の象徴へと変貌させた供木運動をはじめ、支援によって寄せられた樹木を筆者は高く評価する。
Ⅲ.他の通りとの比較
平和大通りと同じように、100mの幅員をもつ愛知県名古屋市の久屋大通と若宮大通と比較すると、まず緑地帯の作り方の違いが明らかになる。日本の道100選に選ばれた他、パリのシャンゼリゼ通りと平成元年に姉妹提携を結んでいる久屋大通は、中央部の公園がクスノキ、歩道部は2列のケヤキの並木を形成する魅力的な通りである。若宮大通りはイチョウやトウカエデの並木となっており、[註4]樹木が同じ種類で構成されたこれらの通りは”整備された都市の通り”としての魅力がある。一方平和大通りは、高木だけで約90種類2000本の樹木がこの通りに根付いており、低木を含めると150種類にもなる。[註5]その中には、アルゼンチンから贈られたアメリカデイゴをはじめ珍しい木も多い。こうした様々な樹木が緑地帯を形成しており、季節が変わるごとにそれぞれの樹木に見頃の花や実ができ、人の目を楽しませてくれる。また、名古屋市の2つの通りの木が落葉樹なのに対し、平和大通りの樹木の多くは常緑樹のため、沿道建物は美観形成基準[註6]に基づき、樹木と調和する色彩が用いられるよう配慮されている。(写真4、5)
そして最も興味深い点は、通りの樹木を見守る市の調査・記録管理の違いである。広島市が数年に一度、樹木の種類や数を記録し更新しているのに対し、名古屋市は二つの大通りの樹木に関して、道路内の緑地帯が占める割合や上記に挙げた以外の種類、数を記録しておらず、把握していなかった。[註7]広島市は、公表している木についても再調査し、2015年の調査では樹木の名前の訂正も行っている。[註8]細かな記録管理には、樹木に対する親愛性や、後世に残そうとする想いが表れている。
Ⅳ.市民の営み
そもそも、平和大通りの樹木の記録を始めたのは市民であった。平和大通りに近い竹屋公民館を拠点に、ことぶき大学の有志や樹木に関心を寄せる16名で結成した「樹の会」は、支援によって多数の地域から頂いた樹木の数や種類が記録されていないことに目を向け、1984年から3年に渡って調査・研究し、2冊の図鑑を発行している。[註9,10]
このときの調査がなければ、今も樹種や数は記録に残っていなかったのではないか。それは、広島市 都市整備局 緑化推進部 緑政課の丸本さんが「昨年の樹木の調査でも樹の会の調査内容を参考にさせてもらって調べました」との言葉にも表れている。
当時の会長・安田房子さんは、「皆、樹についての知識は全くなかった。(…中省略…)参考資料図鑑を集め、暑い夏、木枯らしの吹く冬、一本一本の樹の位置と名を記入して歩いた。しかし、図鑑ではわからない樹が多く、樹の芽のでる時期、花の咲く時期、実のつく時期を徹底的に調べた」と述べている。[註9]その後、メンバーの高齢化などで活動に区切りがうたれたが、2004年に竹屋公民館主催の「樹木ボランティア養成講座」などの参加者が会の名称や活動内容を引き継ぎ、新たに活動を続けている。現在の代表・六重部篤志さんは(財)日本自然保護協会 自然観察指導員でもあり、月に一度の探索では、参加者に樹木の特徴や、見分け方を細かく教えられ、新しく植樹されたものや、老朽化でなくなった木を記録し伝えられている。(写真6)今年1月の参加者は約30人で、鶴見橋から平和記念公園前の南側緑地帯の樹木を調査した。(写真7)調査に同行して驚いたことは、樹木の老朽化や新しい植樹によって、現在も数十本単位で樹木の数が年々変化していることである。
Ⅴ.課題
植樹から半世紀以上がたち、寿命を迎える木もあり樹種は減り続けている。六重部さんによると、「こないだの調査で9種類増えて、全部で35種類の樹木がなくなっとる」、「珍しい木があったんだけど」と残念がられていた。台風被害や自然淘汰で減った木の他には、市が人為的に切ったものもある。2005年には平和記念公園南側緑地帯にフランス人のクララ・アルテールが制作した「平和の門」を設置するためにヒマラヤスギ、ユリノキ、桜の計4本を伐採した。[註3]当時の広島市議会でも設置場所について「なぜこの場所なのか」という声があがった。[註11]このときの市の強制的な姿勢には、樹木の管理をする一方でなぜ、という疑問が残る。平和大通りの復興の象徴である木を伐採して、その上に作品を設置するのは、この通りの理念にも反している。樹木について、市と市民がこうした件について、決定する前に議論する場をつくるべきであろう。
また、樹木ガイドの育成不足も課題である。現在、樹の会の会員は40名程だが、六重部さんが一人で解説をされている。毎年、樹種や数を調査・記録している樹の会は、樹木の管理状況について市に助言できる市民の代表といえる。六重部さんと同じレベルまで植物にたけた知識をもつのは難しいであろうが、それでも今後、復興の歴史や市民からの親愛性とともに大きく育ったこの通りの樹木について、伝え広めていく者を絶やさず増やす必要がある。
Ⅵ.おわりに
竹屋公民館は来月、13年ぶりに「樹木ガイドボランティア養成講座」を主催する。植物研究家の峠田宏さんなどを講師に据え、平和大通りの樹木の観察の仕方や、供木運動と戦後の復興事業などの歴史、ボランティア活動の魅力など、多角的に学べる内容になっている。今後の展望として、養成講座は定期的に開催されるべきであろう。そうすれば、ガイドの育成促進や樹の会の後継者づくりが期待できる。探索やガイドの機会が増えれば、平和大通りで樹木を通じて人の営みがさらに増えるであろう。
また、これまで平和大通りの樹木を見守ってきた樹の会・竹屋公民館・市が連携して、樹木について議論する場をつくるべきであろう。市は、これ以上樹種が減らないように努め、工事などの際には伐採ではなく他の場所への再植樹が求められる。
戦後、広島のまちの緑化はこの通りから始まった。その歴史や、先人の善意と努力を伝え続け、平和大通りの復興と平和の象徴である樹木を、これからも市と市民が共に守り育てていかなければならない。
- 写真1:鶴見橋から平和大通り西方面への眺め。常緑樹が多く、冬でも葉をつけている木が多いことがわかる。2017年1月21日筆者撮影
- 写真2(非公開)
- 写真3:近隣のオフィスで働く人たちが、樹木の木陰で昼休憩をとる姿がよく見られる。 2016年8月29日筆者撮影
- 写真4:沿道の建物は、樹木にあうベージュやチャコールグレーといった優しい色合いで統一されている。 2016年8月29日筆者撮影
- 写真5:昭和57年発行の『平和大通り街並み景観調査報告書』でもあげられているように、ポレスターマンションの煉瓦色は樹木に映えている。広島クリスタルプラザの高さがややとびぬけているが、色が空の色に溶け込んでいるため圧迫感を感じさせない。 2016年8月29日筆者撮影
- 写真6:平和大通り樹の会が発行している『平和大通りの樹木』の見開き。(全9ページのうちの6ー7ページ目)平和大通りの南北の緑地帯の区画ごとに樹木の名前を明記している。写真もあって、わかりやすい。これを基に木の名前を訂正したり、数の変動を記録している。存在しなくなった木は修正され消されている。 2017年1月31日筆者撮影
- 写真7:1月の探索の様子。中央で手を伸ばして説明されているのが六重部さん。参加者の方々も葉脈を確かめたり、落ちている茎を拾って中の繊維の数を確認するなど科学的に観察し、熱心に六重部さんの言葉に耳を傾けメモをとられている。 2017年1月11日筆者撮影
- 写真8:平和の門のそばには、樹木を伐採した跡が残っている。 2016年8月29日筆者撮影
参考文献
註1:平和大通り樹の会 企画編集『平和大通りの樹木』平和大通り樹木のしおり作成プロジェト、広島市中区役所市民部区政振興課、(財)広島市ひろ・まちネットワーク広島市竹屋公民館、2012年
註2:中国建設弘済会 編集『中国地方 地域づくりと土木のあゆみ 暮らしを支えた叡智』中国建設弘済会、2007年
註3:『中国新聞』桜井邦彦 書「広島平和大通り 20年で樹木21種220本消失(社会説)」、2005年11月19日朝刊
註4:名古屋市HP http://www.city.nagoya.jp/ryokuseidoboku/page/0000081394.html、2016年12月閲覧
註5:平和大通り樹の会HP
http://www.geocities.jp/kinokaihiroshima/、2017年1月閲覧
註6:広島市都市整備局 編集『平和大通り沿道建築物等美観形成要網』広島市都市整備局、1983年
註7:名古屋市役所 緑政土木局 緑地部 緑地事業課 上岡さん、2016年8月30日
註8:広島市 都市整備局 緑化推進部 緑政課 丸本さん、2016年8月30日
註9:平和大通 樹の会 編集『平和大通 樹木のしおり』広島市竹屋公民館、1987年
註10:平和大通 樹の会 編集『平和大通 続 樹木のしおり』広島市竹屋公民館、1988年
註11:広島市議会 会議録 平成17年第5回 9月定例会 10月03-03号http://gikai.city.hiroshima.jp/voices/、2016年12月閲覧
・広島市都市整備局 編集『平和大通り街並み景観調査報告書』広島市都市整備局、1982年
・クララ・アルテール 作『クララアルテール 戦争か、平和か?』広島市現代美術館、2005年
・広島市HP http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/index.html、2016年7月閲覧
・広島市 道路交通局 道路部 道路計画課 計画係 白松さん、2016年8月30日
・平和大通り 樹の会 代表 六重部篤志さん、2016年8月17日、2017年1月11日
・『中国新聞』桜井邦彦 書「平和大通り 樹巡り案内(交流説)」、2005年11月16日朝刊
・広島市竹屋公民館 2017年1月18日
・広島市議会議員 平野博昭 (No.161)平成17年12月1日「平和大通りの平和の門について」http://www.hirano-hiroaki.com/my_thinking/20051201.htm、2016年8月閲覧