桂重英美術館 〜人と山と絵と、自然に抱かれた美術館〜 文化資産評価報告書
桂重英美術館は長野県松本市里山辺の北アルプスの稜線が一望できる高台にある。こよなく自然を愛した山岳風景画家桂重英(1909〜1985)がアトリエとして選んだ地で、2002年に遺族が開館した個人美術館である。同地で制作された作品とその題材となった風景が同時に眺められる美術館であること、そして小さな個人美術館ならではの発想と発展、持続的な活動も評価されよう。
1.基本データと歴史的背景
1-1.基本データ
桂重英美術館(長野県松本市里山辺5111-4)[図1]はJR松本駅から東に約4kmの田園地帯の高台にあり、美術館の西側からは北アルプスの山並みが一望できる。山岳風景画家であった桂重英の遺した約80点の所蔵作品の中から、季節やテーマにより展示替えをしながら、約20点が展示されている。入館料は400円(飲み物付き)で、予約(電話0263-25-6419)により開館している。
1-2.歴史的背景
桂重英は新潟県新発田市の代々続く医者の家にうまれたものの、生家に掲げられていた山本芳翠(1850〜1906)の絵画の影響などもあり美術の道へと進む。1929年日本美術学校洋画科を卒業、白日会展、二科展、1930年協会展に出品。1933年には第一回河北美術展で河北賞を受賞、安井曽太郎に師事。1935年、東京銀座にデザイン事務所を開設、戦争を経て1950年には新潟市でもデザイン事務所を設立し、鉄道省(現国土交通省)の依頼で、観光ポスターや時刻表、記念乗車券のデザインなども手掛けて活躍した。桂はそのデザインの仕事の中で、北アルプスに出逢い、その神々しい美しさに魅了されたのである。商業美術であるデザインで力を発揮していたが、本来やりたいことは純粋美術、山岳風景画を描くことであった。その思いは断ち難く、1966年、56歳で長野県松本市への移住を決断。その後は1985年に75歳で亡くなるまで約20年、自然の中に身を置き、憧れ続けた山々や風景を題材として多くの作品を描いた[註1]。
2.評価
2-1.桂重英が選んだ地
桂重英のアトリエは、桂が松本への移住を決めた後に、自ら納得する場所を探してまわり、選び抜いた場所なのである。美ヶ原の麓に位置する高台で、松本盆地を挟み西側に、北アルプスの雄大な嶺々が眺められるのである。アトリエから眺められる北アルプスの山々の美しいフォームと、近隣の細やかな自然に桂は日々感激していた[註2]。いつも変わらずにある山並みだが、季節、時間、天候により、その色彩は刻一刻と変化するのである。その色彩に桂は魅せられたのであろう。桂重英の妻桂春美氏によると、「特に春、重英はあちらもこちらも描きたいが、色が刻々と変わってしまうと、オロオロしていた」とのこと[註3]。桂重英が念願かなって、信州の自然の中で思う存分描いていた姿が想像できる。その桂の自然を描く喜びが、作品を通して鑑賞者にも伝わるのである。
2-2.アトリエ跡地の美術館
桂重英が慈しんだその地で、桂重英と生活をともにしていた家族は、1985年に重英が亡くなった後も、そのアトリエ跡地に住まい、遺された絵画を守り続けていた。
1995年、桂重英没後10年記念展の後に、作品の散逸を免れるため美術館構想が持ち上がり、桂のアトリエ跡地に2002年、遺族により桂重英美術館が開館した。美術館の建物は、自然に配慮し、景観に溶け込むようデザインされている[註4]。桂重英は人間も自然の一部と考えていた[註5]。その桂の思いは、自然、作品、美術館がひとつの流れにデザインされたことにより、現在も生き続けていると捉えられよう。
2-3.作品と同じ構図で現存する風景
また美術館からの眺めもデザインされている。その地で描かれたいくつかの作品の構図は、そこから眺められる風景と同じなのである。
桂重英の作品「梅雨あがる」(油彩8F 1979年)[図2]や「春暮」(油彩6F 1982年)[図3]は、同地から北アルプスの眺めを描いたものであり、作品鑑賞とともに目をあげ西側を仰げば、今まさに観ていた作品に描かれていたものと、同じ眺めの北アルプスの嶺々がそこに現存するのである[図4]。季節や時間にもよるが、桂が40年も前に画布にのせた色彩と同じ光彩を眺められる瞬間があるのは格別である。
また美術館の近隣で描かれた「冬日老樹」(油彩80F 1973年)[図5]は、美術館から徒歩2分の名刹廣澤寺の参道で、樹齢400年を越える欅の大木と北アルプスを描いた作品である。美術館で「冬日老樹」を鑑賞した後、廣澤寺参道[図6]へと足を運べは、作品と同じ構図の自然風景そのものを味わうことができるのである。桂重英が心動かされて制作した同じ地点に佇めば、桂が感じていたであろう自然に対する畏敬の念を、時空を超えて共に感じるひとときを過ごせるのである。自然の中で喜びにあふれ絵を描いていた桂の後ろ姿が目に浮かぶようである。
2-4.新しいつながり
桂重英は「いい音を聴くと色が出てくる」と語るほど[註6]音楽も好きであったことから、美術館ではミュージアムコンサートが企画されることもある。展示作品や季節に合わせたテーマで、プログラムが組まれることもあり、音楽が流れることで、絵画はいつもとはひと味違う光を放つのである。聴衆はまた新たな作品との出逢いを体験するのである。
入館料は飲み物付き400円とリーズナブルで、月に何度も訪れるリピーターもいる。作品鑑賞の他、庭の椅子でティータイムをしながら、雄大な北アルプスの眺望に身を任せたり、桂の家族と画家の思い出などを語り合ったりと、自然豊かな美術館の空間でゆったりと時間を過ごせるのである[註7]。従来の美術館という枠組みを超えた新しい発想と言えよう。桂が植え、慈しんでいた庭の木々も、美術館の敷地に残されており、樹木や植物の成長は、美術館外観に彩りを添えている[図7]。こうして桂重英亡き後、時を経ても美術館では新しいつながりが生まれ続けているのである。
3.比較
長野県北安曇郡松川村の安曇野ちひろ美術館[註8]は、いわさきちひろの作品を中心に展示する大きな美術館である。いわさきちひろが安曇野で描いた作品は多くはないし、ちひろが制作時に作品のモデルをつとめた子どもたちは、成長し大人になってしまったであろう。しかし美術館の周りには、広々とした芝生や小川もデザインされており、現在の子どもたちが遊ぶ姿は、ちひろの描いた子どもたちの姿とも重なるのである。これと比較すると、桂重英美術館の規模は小さく、展示されている作品には、その地で制作されたものも多くある。何より特筆すべきは、作品の題材となった山々や自然そのものが、その地に現存していることであろう。
4.今後の展望
桂重英美術館の所蔵作品は約80点、桂重英美術館で約20点が常設展示されている他では、近隣の安曇野の穂高ビューホテルで、2009年より毎年、桂重英絵画展が開催されている。いつもは作品が描かれた地で、家族のようにくつろいで眺めていた作品だが、他の空間に展示されると、またひと味違った見え方をするのである。同じ作品でも展示される空間により見え方が異なる、空間が及ぼす影響は大きい。今後、桂重英作品を遺していくためにも、美術館以外での展示は発展が望めるであろう。作品自体が知り合いを増やすのである。新たに桂重英の絵画に出逢った人々は、その作品が生まれた地である桂重英美術館へも足を運んでみたくなるであろう。
また桂重英の遺したデザイン作品[註9]や文章[註10]の紹介なども企画すれば、新しい鑑賞の視点がひらけるのではないだろうか。桂の生き方やデザイン制作に対する姿勢にも、興味深いものが多い。
若い世代への継承については、校外学習などで子どもたちが美術館を訪れたなら、豊かな自然とそこからうまれた絵画作品に触れ、地域愛も育まれ、また新たな広がりをみせるものと考察される。
5.まとめ
自然、山、風景があり、それに魅せられた画家がその地を選び移住、そこから生み出された作品が遺り、現在の桂重英美術館となっているのである。桂重英がこの世を去り37年の今年(2022年)、桂重英美術館は開館20周年を迎えた[註11.12]。眺めや周辺の自然も美術館の一部となっているのはもちろんのこと、桂重英とその家族、またそこに集う人々との交流も、桂重英美術館に新たな色彩を重ねていくことであろう。
- [図1]桂重英美術館外観(写真、桂重英美術館提供)
- [図2]桂重英「梅雨あがる」(油彩・キャンバス 8F 1979年)『桂重英画集』(桂春美 編集・発行、精美堂印刷株式会社、2012年)より
- [図3]桂重英「春暮」(油彩・キャンバス 6F 1982年)『桂重英画集』(桂春美 編集・発行、精美堂印刷株式会社、2012年)より
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[図4]美術館よりの眺め 北アルプス夕景(2021.5.8桂聰子撮影)
〜「春暮」[図3]と同じく春、田に水が張られまだ稲が植えられていない田に夕陽が映えている、信州ならではの眺めである〜 -
[図5]桂重英「冬日老樹」(油彩・キャンバス 80F 1973年)
アトリエの近くの廣澤寺の参道より
〜坂の上より西側の北アルプスを眺む〜
『桂重英画集』(桂春美 編集・発行、精美堂印刷株式会社、2012年)より - [図6]廣澤寺参道 樹齢400年のけやき並木(2022.4.15桂聰子撮影〜坂の下よりの眺め〜)春の山吹から始まり、けやきの新緑から落葉と四季折々の自然の移ろいも豊かな里山辺である
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[図7]桂重英美術館 庭(2022.4.11桂聰子撮影)
絵画鑑賞後は重英が植えて家族が育ててきた植物と共にティータイムができる空間となっている - 『桂重英画集』桂春美 編集・発行、精美堂印刷株式会社、2012年
参考文献
『桂重英画集』桂春美 編集・発行、精美堂印刷株式会社、2012年
松本市公式観光情報 新まつもと物語
https://visitmatsumoto.com/spot(2022.6.27閲覧)
桂重英美術館ホームページ
https://sites.google.com/site/katsuraflute/home/shigehide(2022.6.29閲覧)
註1『桂重英画集』P.114〜P.117 桂重英年譜より(桂春美 編集・発行、精美堂印刷株式会社、2012年)
註2.3 桂重英の妻、桂春美氏による(2022年5月3日、著者インタビュー)
註4 設計アトリエ・プラス・ゼロ 春日裕昭
註5.6.7 桂重英の妻、桂春美氏による(2022年6月7日著者インタビュー)
註8 安曇野ちひろ美術館公式サイト
https://chihiro.jp/azumino/(2022.6.30閲覧)
註9 桂重英デザインについて『桂重英画集』P.91〜96 Ⅶ デザインより (桂春美 編集・発行、精美堂印刷株式会社、2012年)
註10 桂重英の文章について『桂重英画集』(桂春美 編集・発行、精美堂印刷株式会社、2012年)より
P.5「信濃路と人と山と絵と私」
P.50「源隆方丈の憶い出」(龍雲山広沢寺報 昭和58年新年号 第18号)
P.74「五月の涸沢膝栗毛」(「岳人286号特集Ⅰ 陽春の北ア」1971年4月 東京新聞)
註11 信濃毎日新聞記事「桂重英美術館20周年」(MGプレス、2022年6月11日)
https://mgpress.jp/2022/06/11/%E6%A1%82%E9%87%8D%E8%8B%B1%E7%BE%8E%E8%A1%93%E9%A4%A820%E5%91%A8%E5%B9%B4-%E5%8E%9F%E7%82%B9%E5%9B%9E%E5%B8%B0%E3%81%AE%E6%80%9D%E3%81%84%E3%81%AF/
註12『山と溪谷』8月号P.208「山と人をつなぐ場所vol.05 桂重英美術館」(2022年8月1日 山と渓谷社発行)