金比羅大権現の修験道

山口 光春

 1.基本データーと歴史的背景
 琴平山の中腹の地質は、標高400mから上が讃岐質安山岩で、下は花崗岩だ。金刀比羅宮は花崗岩の変化した花崗土上に存在する。所在地は香川県仲多度郡琴平町字川西892番地の1だ。本宮は1878年の再建で、桧皮葺の大社関棟造だ。古代の琴平山の祭神として平安時代から大物主命が、相殿として崇徳天皇が祀られている。神域は大門から始まり、神域の登り口は標高60mだ。本宮の標高は236mで、石段は785段目になる。第5代別当の宥盛が祀られている奥社迄は、石段が1368段目になり、安山岩の地質になって標高は450mだ。中世の神仏習合でこの地の真言宗松尾寺と合併した。神道と仏教を共存する象頭山の金毘羅大権現と言った。飛鳥時代から琴平山は修験道の拠点だ。
中世から琴平山の裾野の小松庄は、琴平山と愛宕山の谷筋にある墓所墓寺だ。現生利益を求める請願は強く三十番社より大きな神の登場が必要だった。


 2 事例の評価
 古代、中世、近世を経て隆盛した経緯や内容の中で、修験道が活躍した事例が積極的な評価の理由だ。金刀比羅宮は古代の1001年に一条天皇の勅命で藤原實秋が、本殿や鳥居の修復をして琴平神社の形態が整った。
 2-1 何が問題か
 中世末期に修験者が金毘羅堂を建立し、既存の松尾寺の三十番社を吸収して松尾寺金光院とした。戦国末期には琴平山で金毘羅神を祀る様になっていた。宝物館に1573年の金毘羅宝殿建立の棟札があり、造営者は第3代の金光院宥雅と記録される。金光院宥雅は地元の武将長尾氏の弟だ。修験者が武将の支援を受け番神として金毘羅堂を建立した。さらに宥雅は、金毘羅神の縁起が松尾寺金光院の開祖の第1代宥範の時代からあると記録を捏造した。当時の宗教基盤は真言宗の松尾寺の観音堂だ。本尊の十一面観音立像が祀られ守護神の三十番社が存在した。三十番社を巡り、主導権争いが発生し金光院が勝った。優雅は金光院松尾寺の院主になった。修験者が本尊と共に松尾寺の祭礼を引き継いだ。さらに琴平山は戦国時代末期の1578年から1584年に、土佐の長曾我部元親の侵略を受け御堂は荒廃した。優雅は大阪の堺に亡命したので、正式の別当と認知されない。元親の家来で土佐の修験者の宥盛が、讃岐統一の院主になった。真言宗の学僧で金刀比羅宮公認の第4代別当の宥盛は、御堂を1611年から1613年にかけて再興した。修験者が形成した建物や風習の変遷が問題だ。

 2-2 どの様に検討したか
 金刀比羅宮の参道の位置は中世から現在迄、一部を除き同じだ。創建当時の建物の由来が解るものは、金毘羅宝殿の棟札以外にはない。検討方法として、当時の「境内配置変遷図」[註-1]で建物の配置を年代別に探って見た。正保頃(1644~1647)の境内図には三十番社、観音堂、行者堂がある。参道は真直ぐだった。元禄末(1704)頃の境内図では、参道が南周りに拡張されて、寄進された石碑を置く参道の面積が増えた。金毘羅大権現の隆盛の証拠だ。さらに1846年作の『金比羅参詣名所図會2』[図-1]には、観音堂や行者堂の記載がある。初期の修験道の継続の証拠だ。また歌川広重の1834年作の『東海道五十三次・沼津』の「黄昏図」[註₋2]には、当時の風俗として背中に大天狗の面を背負った白装束の巡礼の描写がある。日暮れの満月の下を急ぐ金毘羅参りの巡礼の姿に、当時の修験道による天狗信仰の風習があった。
 

 2-3 結果どうなったか
 金光院宥盛は1613年に死亡した。維新迄は観音堂後堂に祀られていた。維新に至る迄、本社では、祝詞を上げず僧侶が経を唱えていた。明治になり廃仏毀釈から仁王門の名称は、大門と改名された。観音堂は明治8年に撤去された。仏教色は一掃され宥盛は、金刀比羅宮の奥社の厳魂彦神社に祀られた。金光院関連の建物は撤去され、社務所や宝物殿が出来た。ところで琴平町には先祖の墓所や墓寺がある小松庄で、農業に纏わる祭礼や固有信仰があった。現在の地名の伵条や東高藤付近だ。琴平山の中腹の本宮がよく見え生活の安全を祈願した。これらの信仰や仏道帰依の動向が、神仏習合を早く押し進めた一因だ。 明治15年になり神仏分離令以降の松尾寺金光院は、松尾寺普門院として金刀比羅宮の神域の外に法堂を継承する。金光院の名はなく修験道色もない。神仏分離令で一山六院のうち五院が廃却された。大正7年の『金毘羅宮御境内図』[図-2]では、ほぼ現在の金刀比羅宮の形態になっている。一番下の大門から上が神域なのも同じだ。普門院松尾寺は現在、神域の下にある。明治元年、松尾寺金光院の最後の別当だった宥常は、金刀比羅宮の宮司になり、名前も琴平宥常と改名した。松尾寺を継ぐ弟子の金光院宥暁への宝物の引継ぎで、社務所側と騒動になり諸仏は焼却された。諸仏返還の訴訟が起きたが、明治42年の最後の判決で、所有権を主張する正当性が無いと裁決された。一方、幕末の別当により同時代の日本美術の集積があった。宥盛の時代にお土産の飴、金毘羅歌舞伎、金毘羅うちわで全国に発信した様に、金刀比羅宮を後述する芸術で発信した。デザインした各書院にその集積がある。初代宮司の琴陵宥常は、幕末から維新を生き抜き、琴平町にとっては特別な宮司だ。
 

 3 比較事例 宇佐神宮と金刀比羅宮
 寺院の発達以前に国東半島の六郷山では、6世紀頃に修験道が生まれた。中央に位置する両子山に繋がる谷筋にある村を中心に発達した。それが六所権現としての山岳信仰に結びつく。六郷山修験道は地元の願望に答えた。八幡菩薩の次に御許山に任聞菩薩が登場した。それらの信仰と文化を六郷満山文化と呼ぶ。神や仏を同じく敬う神仏習合文化は、発祥の地の宇佐神宮で花を咲かせた。六郷満山の開祖は任聞菩薩で修験者だった。その地で創建された宇佐神宮と弥勒寺は、同じ地盤の文化を背負った。弥勒寺建立の法蓮は、玄奘の弟子の法相宗の道昭に師事した。弥勒寺は737年の建立で初代別当は修験道の法蓮だ。神宮寺の弥勒寺は、宇佐神宮と一体のものとして創建された。宇佐神宮は大分県北部、国東半島の標高647mの御許山山麓に鎮座する。八幡神自体が八幡大菩薩という仏だ。従って神仏習合は他の神社より早い。そこで国家や天皇に尽力した。平安時代後期には天台宗に統一された。法蓮が作った法生会は仏教の殺生戒に基づく儀式で毎年開催される。これは神仏混淆の時代が色濃く反映されている。放生会は地方により多少は呼び名が異なる。全国の八幡宮で現在も盛んな祭礼時の行事だ。神社に残る仏教的な遺産だ。そこが金刀比羅宮とは大きく違う。国東半島の宇佐神宮や琴平山の金毘羅大権現の神仏混淆の母体を作ったのは修験道だ。金毘羅大権現も宇佐八幡も神仏習合が着々と進んだ。神も仏も敬う立地に根差していた。ただ神仏習合時と神仏分離令後の身の振り方は違った。神仏分離令で弥勒寺はすんなり廃寺になった。宇佐八幡は官幣神社として独立した。放生会は残った。ところで宥盛や歴代別当は、金毘羅大権現の信仰拡大と寺領を増やす事に貢献した。松尾寺は金刀比羅宮神域外の元所有地に明治17年に移転した。明治43年の松尾寺訴訟の高松地方裁判所の最終判決で、宝物の所有権は本宮に落ち着いた。

 4 今後の展望
 境内に金毘羅市民信仰資料収蔵庫があるが非公開だ。創建時を押し進めた住民の伝説の証拠があるので公開時には見たい。芸術文化面では、歴代別当の努力と時代を見据えた慧眼が隆盛を後押しした。奥書院には伊藤若冲による障壁画が、表書院には円山応挙の障壁画がある。第10代別当の宥存の頃に、上方の芸術家が当地で制作した。幕末期には与謝蕪村等の文人達が社の内外に賑いを見せた。同時代の琴陵宥常は、美術作品の集積に多大な役割を果たした。讃岐で京文化と経済的な繋がりもあった。歴代別当が書院のデザインや文化に深く関与した姿勢が色濃く評価される。明治初期、琴平で創作した高橋由一の油絵も高橋由一館にある。その業績が偲ばれる。琴平山の再生と芸術を生かした文化向上に期待する。

 5 まとめ
 宇佐神宮と弥勒寺は一体のものとして誕生した。法蓮は修験者で弟子達も六郷山の修験の歴史を作った。弟子には華厳、躰能、覚満等がいて天台系修験と融合した。しかし六郷山に修験道開祖の役小角の痕跡がなかったのが独特だ。修験者が悟りを開眼する宗旨は不変だ。また神仏混淆の時代に修験道の拠点から神仏習合が生まれて金毘羅大権現も栄えた。明治以降、政策で仏教が分離された。しかし法蓮の放生会が残り、金毘羅大権現のデザインが残ったのは修験者の業績だ。

  • 1 [図₋1] 金比羅参詣名所図會2(1847年刊行 弘化4年) 最上部の本社正面の右側(北方向)が展望台で、琴平市内や琴平沖が見える。
  • 2 [図₋2]金刀比羅宮御境内図 大正7年(1918年)の作で、1878年の本宮の再建後の姿だ。 最下部が神域に繋がる大門だ。このさらに下の参道の左側手前に松尾寺普門院がある。
  • 3 象頭山全景 右端の最高部が大麻山、左端が琴平山,さらに左に小さな愛宕山がある。2020.10.12(筆者撮影)
  • 4 左端の琴平山の中腹で中央の電柱の付近に金刀比羅宮の屋根が、肉眼では薄く見える。2020.10.14(筆者撮影)
  • 5 註-1 境内配置変遷図は、この本の4Pに記載されている図面だ。香川県立図書館の意向で、図面のSNS掲載は不可能になった。SNS掲載可能な本の所在は明記した。

参考文献

[註-1]境内配置変遷図  『重要文化財表書院及び四脚門修理工事報告書』 著者 財団法人 文化財建造物保存技術協会 編集 宗教法人 金刀比羅宮発行平成14年8月 4p下段 香川県立図書館所蔵
[図-1]『金比羅参詣名所図會2』 暁鐘成/著 臨川書店 1847年刊行 象頭山全図 香川県立図書館所蔵のデジタルライブラリー資料からの転載
[図-2] 『金刀比羅宮御境内図』 塩田重吉作 出版者 塩田重吉 1918.5出版 香川県立図書館所蔵のデジタルライブラリー資料からの転載
[註₋2] 『東海道五十三次』⦅浮世絵⦆フリー百科事典『ウイキペディア』宿場番号12 沼津 保永堂版の副題 「黄昏図」  出典 『東海道五十三次』(浮世絵)₋Wikipedia参照 アクセス日2020.9/15
参考資料
琴平町観光案内図 琴平町観光商工課編
地図・空中写真サービス 国土地理院
新四国曼荼羅霊場第16番札所 松尾寺普門院 新四国曼荼羅霊場₋香川部会編集
こんぴら信仰 琴陵光重著 金刀比羅宮社務所編 1958.12
崇徳上皇 神社新報社 1958年 安津元彦・梅田義彦編集兼監修者
象頭山金毘羅大権現之神髄 川口秋次著 尾崎三郎出版 明治41年10月発行
町史ことひら2 近世・近代・現代資料編 1997.9出版 琴平町史編集委員会₋編
町史ことひら5 絵図・写真編 1995.12出版 琴平町史編集委員会/編
高橋由一 新潮日本文庫23 平成10年4月発行 日本アートセンター編集 佐藤孝信 新潮社坂本一道 執筆
宇佐八幡宮放生会と法蓮 中野幡能著 有限会社岩田書院出版 1998.10
八幡信仰と修験道 中野幡能著 株式会社吉川弘文館 平成10年2月発行
宇佐八幡と古代神鏡の謎 田村圓澄、木村晴彦、桃坂豊 著 戒光翔出版発行 2004.3
宇佐八幡神話言説の研究 村田真一著 仏教大学研究叢書26 2016.2 株式会社法蔵館制作 仏教大学発行

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