吹きガラス職人 木村直樹の制作活動、及び作品「小樽緑青硝子」について

髙谷 美華

・基本データ
木村氏は、北海道小樽市の祝津という観光地から少し離れた場所に、『株式会社 Kim Glass Design』というガラス工房を構えている、代表取締役兼宙吹きガラス職人である。
ガラス工芸は小樽市を代表する土産物であり観光資源でもあるが、ガラスの原料が採れるわけではないため特産物とは言えない。
工房の規模は従業員2人の合計3人。5人いれば大規模と言われる小樽のガラス工房では、平均的な人数である。メインの溶解炉は2台あるが、作業内容とスタッフ数に応じて1台のみ使用となり、更に保温や焼成に使う炉が大1台、小2台。徐冷炉は大・中・小が1台ずつ。設備の規模としては必要最低限の装備である。

・歴史的背景
小樽市は貿易と鰊漁で栄えた街で、小樽ガラスは1900年に浅原硝子製造所が、漁業用の浮き玉をガラスで製造したのが始まりである。同時に、貿易のために輸出用のガラス製ランプの製造も盛んだった。やがて浮き玉はプラスチック製に、ランプは電気に、それぞれ取って代わられたために縮小を余儀なくされ、小樽にはガラス制作の設備と職人が残された。ガラス職人たちの生活を守るために、浅原硝子製造所の一人がラス販売に特化した有限会社北一硝子を設立して土産物の制作に舵を切って成功をおさめ、それを他の工房も次々と真似をしていったのが、小樽の特産品がガラスになった流れである。

・国内外の同様の事例
吹きガラスで世界的に最も有名なのは、イタリアのヴェネツィアン・グラスである。13世紀に、高値で輸出が出来るガラス細工の技術を国外に出さないために、国の政策としてガラス職人をムラーノ島に集めて島外に出ることを禁じ、その中で職人同士に磋琢磨させた。そのため、高難度の装飾や着色の技法が非常に多いのが特徴である。小樽ガラスも、小さな街で職人同士が競い合うという形や、芸術より商業ベースという点は通じる所がある。また小樽には「北一ベネツィア美術館」というガラスの美術館があるところからも、小樽のガラス業界はベネツィアを強く意識しているのがわかる。
国内でもガラス工芸を特産品とする所がいくつかある。沖縄の琉球ガラスは、米軍のコーラやビールの瓶を再利用するためにガラス工芸が始まった。不純物が多いガラスを再生させると気泡が入るため、更に泡を足すことでデザイン性を向上させたもので、土地柄や歴史がガラスのデザインと密着しているという意味では大きな特徴と言える。
富山市は非常にガラス工芸に力を入れており、”富山ガラス造形研究所”という公立のガラス造形教育機関がある。卒業生も学校の設備を自由に使えるので、職人になってからも設備に不自由することがないという。実際に、小樽のガラス職人が富山に移住してしまうほど、制作環境に恵まれている。富山の場合は、技術向上に熱心ゆえに販売力がないという側面もあるそうだが、逆に小樽は販売で先に結果を出してしまった為に、技術向上が後回しになっているのが課題となっており、ほぼ対極にある事例といえる。
国家政策に掲げたイタリアや、行政が中心となっている富山と違い、小樽のガラス工芸は行政とまったく関わっていない。小樽を観光名所にし、吹きガラスを代表する工芸品として全国に広め、ガラスについての授業を中学・高校の美術の時間に取り入れるなど、全てを民間企業と作家と商店街だけで行ってきた。行政に頼らない意識は大きな違いであり、小樽の職人たちの特徴だと言えるだろう。

・ 事例の積極的な評価
ガラス工芸があくまでも観光用であり、小樽市民の生活に全く浸透していないことを気にかけていた木村氏が、地元にアピール出来るものを模索していたところ、レクサスが主催する「レクサス匠PROJECT 2017」の匠に、北海道代表で選出された。このプロジェクトは、地域性を取り入れたチャレンジを応援するという主旨で、担当者とのディスカッションなどにより、新たなプロダクト制作を応援する企画である。コンテストではないが、メディアへの発信方法や露出度などが、事実上のグランプリとなる仕組みになっている。それとは別に、プレゼンテーションの場に様々な販売に関わる企業が来ることから、肩書になる場合もあれば、営業になる場合もあるという。
そこで木村氏は、小樽をテーマにした作品をコンセプトにして臨んだ。確立されたコンセプトだったため、担当者は付いたが選考前から変更は一切なかったという。その作品は『小樽緑青硝子(おたるりょくせいがらす)』といい、そのテーマの源となったのは、小樽で親しまれていた『小樽焼』という焼物だ。
小樽焼とは、透明感ある青緑色の釉薬を特徴とする緑玉織部である。昔は小樽市内に3窯あり、窯によって色合いや形に特徴があって、使い手の好みによって窯を選ぶことが出来た。小樽市民に愛され親しまれ、どこの家庭にもあって生活の一部として使われていたという。しかし、2007年に最後の窯が閉窯となり、107年続いた小樽焼は完全に失われた。※註1
この小樽焼を懐かしみながらそれと同じように新しいガラスも市民に受け入れて欲しい、という思いからこの小樽焼をガラスで再現しようと試みたのが、小樽緑青硝子である。その作品は「群来(くき)」と名付けた。これは鰊が大群で来た時のことを表す言葉であり、その時の海の色の名前でもある。小樽は鰊漁で栄えた街なので、小樽焼と鰊漁の二重の意味を込めて名付けられた。
更にもう一つ、小樽焼とは別の色の作品も作った。曜変天目のような色合いで「蓮葉氷(はすはごおり)」という。小樽の海は、観光名所でもある小樽運河から、淡水が海に流れ込むことで塩分濃度が薄まるため、海水でありながら凍る。その氷が、蓮の葉のように薄く小さく浮かんで見えるという、小樽独特の景色をイメージして作られた。
焼物を再現するために不透明になるまで色を入れるか、ガラスの良さである透明感を残して焼物らしさを減らすかという葛藤を抱えながら、手の影が少し映る程度の透明感を残しての着色に決まった。プロジェクトとしての正式発表はこれからだが、すでにプレゼンテーションの会場で、カタログ商品としての掲載決定や、百貨店での催事オファーなどがあったという。
そしてその注目度を持った小樽緑青硝子が、本当に知名度が上がり需要が増えたら、小樽市内の工房を回って作り方を説明し、各工房でそれぞれの小樽緑青硝子を作ることを提案したいと言う。そこには、かつての小樽焼のように、どこの工房が好きかを話し合いながら、各家庭で生活の中に溶け込むように使って欲しいという思いがある。『この先100年愛されるガラスの小樽焼』が木村氏の目指すところであり、そのために全国的に注目度を上げて小樽のガラス工芸を底上げすることが、木村氏がレクサス匠PROJECTに参加した真意なのだという。個人の成功ではなく、地元の活性化を中心に制作活動を行っていることが、もっとも評価すべき点だと考える。

・今後の展望
小樽のガラス職人も一枚岩ではない。新参の工房は、観光地にある販売店に卸すことは出来るが直営店は出せないなど、工房同士のしがらみもあり、木村氏の工房もその中に含まれる。歴史のある街であるため、新しいものを取り入れることに抵抗のある昔気質の職人も多い。小樽緑青硝子の技法はそれほど難易度が高くなく、工房長レベルの腕前があればどこでも作れる程度。あとはどれだけ受け入れられるかが、大きな課題となる。また、全国的な販売実績と販路の拡大、そして肝心の小樽市民への浸透も重要だ。
有田焼の『2016/project』のように、垣根を超えたプロジェクトが小樽でも若手の中で持ち上がりかけたが、実を結ぶ前に辞めたり富山に行ってしまったりと、人材の流出が止まらない。そのため、木村氏が先に結果を出して他の職人に希望を持たせることで繋ぎ止めなければならない、というのが現状である。それと関連して、小樽のガラス職人の大多数が参加する「小樽ガラス市」の実行委員長もつとめ、作家同士での情報交換や連携なども積極的に行っている。
「芸術活動を仕事とするならば、それだけで生活が成り立つことが絶対条件でなければならない」と木村氏は口癖のように言う。そしてそのために、新しい技法を他の工房と共有し、職人を育てることにも力を入れている。小樽の地元に愛された焼き物の復活と懐古を中心に、遠い未来を見越した新しい制作活動は、小樽のガラス職人たちに大きな影響を与え、発展していくだろう。

  • 小樽焼:小樽ジャーナルの記事より(非掲載)
  • 2 小樽緑青硝子:群来(制作・撮影:木村直樹氏)
  • 3 小樽緑青硝子:蓮葉氷(制作・撮影:木村直樹氏)

参考文献

註1:小樽ジャーナル『消える小樽焼!道内最古の小樽白勢窯に幕! (2007/10/23)』
 http://otaru-journal.com/2007/10/post-2043.php

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