「垂木の祇園祭」—次代へ存続するために—

弓桁 幸子

はじめに
静岡県掛川市の垂木地区(1)は、JR掛川駅から西北約5㎞に位置し、垂木川流域の水田地帯が広がる自然豊かな環境である。周辺は徐々に開発が進み、新興住宅地の造成や、近年は大型スーパーマーケットやホームセンターが次々と進出している。地域の人々はさまざまな職業に就き、異なる価値観を持つ。
「垂木の祇園祭」(資料1)(2)は、雨櫻神社(上宮)と六所神社(下宮)(資料2)の祭祀である。宮座(3)と呼ばれる遺制の祭祀形態で構成され、宮司、世襲の氏子、社家、社人が神役を担っている。中世に成立した宮座は、特定の家々が祭祀を独占し、支配的あるいは特権的に行っていたが、明治時代以降、祭祀維持が困難となり多くが変貌するか解体していく。甚だしく移り変わる時代の中で、垂木の祇園祭は次代へ存続するためにどうすればよいのか。宮座の伝統を受け継ぐ、静岡県浜松市「水窪の西浦田楽」(4)の事象を参考に考察する。

1 基本データ
名称  垂木の祇園祭(平成30年掛川市指定無形民俗文化財)

所在地 雨櫻神社 掛川市上垂木1612
六所神社 掛川市上垂木981

日程  7月第2日曜日~第3日曜日(5)

概要
祭祀初日、雨櫻神社で式典後、2㎞南に位置する六所神社へ獅子と3基の神輿が渡御する。獅子と神輿は還幸までの7夜8日六所神社にとどまり、その間、毎日定まった家が御神酒・麦オコワ(6)の特殊神饌を奉納する日供際(ニンクサイ)が行われる(資料3)。7日目の夜には御獅楽(オシガク)と称する神事が、最終日には古式豊かな流鏑馬が不定期ではあるが執行される。その後、獅子と3基の神輿は雨櫻神社へ還御する。
祭祀は、夏の高温多湿によって生ずる疫病や、農作物を喰い荒らす害獣の災いを祓うものであるが、一方で麦の収穫祭という要素を持ち、そのことを端的に示すのが麦オコワの調進である。神饌も直会もすべて麦オコワで、祭神も参加者も皆で一緒にいただき疫病除けとしている。麦は前年の11月より、宮座の人々により栽培され、6月に収穫される。
また、「獅子が現れ収穫が済んだばかりの麦を喰い荒らし大暴れしたところ、7騎の土豪に退治される。」という伝承がある(7)。

2 歴史的背景
応永年間(1398-1428)、雨櫻神社の社殿が火災に見舞われた際、御神体が六所神社に一時遷された旧事に由来し雨櫻神社が現在の場所に再建されると、年に1度六所神社に返礼の渡御をするようになったと伝えられている(8)。
垂木の祇園祭の起源の年代などは判然としないが、古文書の中に記されているものとして、『遠州佐野郡上垂木村差出帳』、延享4年(1747)、(中山一蔵家所蔵)に、神輿3基が六所神社に渡御し馬場で7騎馬による流鏑馬が行われた際、掛川藩より目付、足軽が警護に当たったとある(9)。
文化文政年間(1804~1830)に、掛川藩の実地調査により編纂された『掛川誌稿』によると、雨櫻神社は江戸幕府から神領75石を拝領していたとあり(10)、流鏑馬をはじめとする各種神事は安定的に斎行されていた。明治時代、雨櫻神社は郷社の社格が定められ信仰圏が拡大するも、経済的特権は無くなったため、5人いた神職は次第に退職し流鏑馬の出馬も減っていった。このような困難な中で、今日まで宮座の形態を保ちながら祭祀が続けられている(11)。
また、中世から江戸時代にかけて雨櫻神社の氏子であった「垂木郷七か村」(12)と呼ばれていた村落が、祭祀の時は現在の氏子範囲を超えて、神輿担ぎや流鏑馬奉納などの決められた役割を実行しているという特徴がある。

3 事例の積極的評価点
神輿還御の前夜に行われる御獅楽は、伝承に基づいた神祭としての観念が流露するものである。神事は土豪の系譜で19代続く中村家(当主悟氏)(13)の庭で行われ、会場設営(14)や「獅子の御供」(竹皮で包んだ麦オコワ)(15)(資料3)づくりは、中村家の隣組の人々により準備される。
日没後、獅子は祭囃子を奏でる榊屋台とともに中村家に現れ、注連縄が張られた庭で収穫されたばかりの麦俵を喰い荒らす場面を再現する。
榊屋台とは、大八車の中央に5mの榊(16)を立て、13個の提灯を灯し、前方に小太鼓を2つ、後方に大太鼓を1つ付けた素朴な山車である。六所神社氏子の4地区から出され、青年や小学生により運行されている(資料4)。榊屋台は掛川市に隣接する袋井市山梨の初盆供養、傘鉾子供念仏(カサンブク)(17)に用いられる盆車が明治時代に導入され、松の木を榊の木に変え神事用に手を加えたものである。
暴れる獅子の伝承を再現した御獅楽は、青年・子供の参加や近隣の他文化の融合など、垂木の祇園祭が変容しながら存続を示しているものである。

4 水窪の西浦田楽との比較
西浦田楽は、旧暦1月18日~19日(現在でも厳格に旧暦が守られている)に、観音堂で行われる祭祀で、別当の高木家を中心に、能衆と呼ばれる家の長男が祭祀を受け継いできた。国指定無形民俗文化財である西浦田楽は、神事芸能としての評価が高い。神事は極寒のなか夜を徹して行われ、田楽を見学する地域外の人々を、この遠州西北端の山間村落の地に引き付けている。
西浦田楽は、演目により担当する家が決まっており、本来1軒でも欠けると演じることが困難である。地域では過疎が進み、昭和40年(1965)頃から転出する能衆があらわれ、継承問題が深刻である。そこで、平成22年(2010)から次男、三男の参加資格の見直しがされる。また、西浦を離れても、祭祀の時には帰って来て参加する能衆もある。

共通点
垂木の祇園祭では、垂木郷七か村や御獅楽準備など、地域の人々にも役割がある。そして西浦田楽でも、箒やゴザをつくる茅や、注連縄として使うクゾバヅル(葛の蔓)(18)を地域の人々が持ち寄っている。このように、両祭祀とも地域協力が祭祀を支えているといえるが、その役割も特定の人々により行われる。

相違点
西浦田楽は、民俗芸能関係の公開講座や学会(19)の出演、地域外からの来訪者の受け入れなど、日本全国に西浦田楽を知ってもらうことも祭祀保存の方法と捉えている(20)。また、流鏑馬のように大きく費用がかかる儀式が無いことも、祭祀が存続できる要因だと考えられる。

特筆される点
大人が中心の両祭祀に、西浦田楽ではタヨガミと呼ばれる火を守る2人の子供(男児)が、垂木の祇園祭でも流鏑馬の馬の乗り手に子供が参加しており、祭祀の中で子供の神聖性を認めるという観念が反映されている(21)。また、前述した御獅楽の榊屋台には、祭囃子の小太鼓や屋台の引き手として、子供が各地区から5~10名ずつ参加している。
このように、祭祀をはじめとする伝統行事へ子供が参加する意義は、子供が地域の役割の一つを果たすということである。また、結果的に地域への愛着や、参加した伝統行事の興味へつながると考えられる。

5 今後の展望
享和3年(1803)の『遠江古蹟圖會』に、垂木の祇園祭の流鏑馬の記述と挿絵が残されている(資料5)。かつて老若男女が熱狂した流鏑馬は、戦後になると世襲の出馬が徐々に減り、昭和38年(1963)より29年間中止されるも、平成3年(1991)再興を成し、不定期ながら開催されるようになる。また、平成20年(2008)から、神事とは関係ないが、地域の人々に関心を持ってもらうために、流鏑馬の専門家による迫力ある本格的な的割りのデモンストレーションが披露されている。
流鏑馬は馬の借用及び馬方の人件費、馬具等の付属品の整備、稚児の衣装に至るまで、出馬する世襲の負担が大きいのが現実である。しかし、5~6年に1度の実施になったことで負担が軽減され、開催の年には特別性が強調されるようになった。古来より伝わる流鏑馬は祭祀の中心的な神事である。六所神社の戸塚友美神主は、「祭祀が掛川市指定無形民俗文化財となり、流鏑馬は平成30年(2018)、4家5騎の出馬であった。今後は毎年ではなくても定期的に開催し続けることが重要だ。」と話す(22)。

6 まとめ
子供の祭祀参加の拡大や、地域の人々に関心を持ってもらうこと、また、西浦田楽のように各方面への出演、来訪者の受け入れ、経済的負担をかけないことなどは、垂木の祇園祭が次代へ存続していくための方向性となるものである。しかし、祭祀の存続だけが目的となり、形式化や簡略化されることはあってはならない。垂木の祇園祭は、宮座形態の祭祀が幾世代から厳然と受け継がれてきたことに人々は共感し、その価値があるからである。

  • 81191_011_32086009_1_1_20220717_153737 資料1 垂木の祇園祭
     
     令和4年(2022)度「垂木の祇園祭」が7月10日~17日に開催された。当年、流鏑馬は行わない。新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、榊屋台は出されなかった。
    幟旗は雨櫻神社で2カ所、六所神社で1か所、馬場で1か所建てられる。幟建ての担当は、地区ごとで決まっている。
  • 81191_011_32086009_1_2_20220717_160137 資料2 雨櫻神社と六所神社

    雨櫻神社
    祭神 素戔嗚尊、櫛稲田姫命、八柱御子神
    江戸時代まで雨櫻牛頭天王社と呼ばれていた。
    六所神社
    祭神 塩土老翁命、金山彦命、舟玉命、倉稲魂命、仁徳天皇、不詳一座
    祭神不詳の神に、近在の小宮5社を合祀して、六神が祀られている。
    江戸時代まで六所大明神と呼ばれていた。
    掛川市無形民俗記録作成事業実行委員会『垂木の祇園祭 調査報告書』2016年、5頁、9頁、参考。
  • 81191_011_32086009_1_3_20220717_162028 資料3 獅子と神輿は7夜8日六所神社にとどまる
     
     2022年7月15日、日供際の神饌奉納は雨櫻神社氏子の中村弘家であった。六所神社の戸塚友美神主に聞き取りの際、その日蒸された「獅子の御供」(竹皮で包んだ麦オコワ)をいただいた。
  • 81191_011_32086009_1_4_20220720_111526 資料4 榊屋台・流鏑馬の順路
     
     御獅楽当日の夕方、六所神社氏子の4地区(宮中区・鰯原区・田中区・桜野区)の各公会堂に青年や子供が集合する。榊屋台は、各地区を巡行した後、六所神社へ向かう。一番遠い桜野区が最初に出発し、田中区、鰯原区、宮中区の順で道中合流しながら、「オイッショーラ」(青年)「エイッショーラ」(子供)のかけ声で六所神社を目指す。到着後、中村家の使者が迎えに来ると、神主を先頭に六所神社の関係者と榊屋台は行列を成し中村家へ向かう。
     流鏑馬の順路は、各家を出陣した流鏑馬隊が、宮中公会堂北側の「垂木の大スギ」(掛川市指定文化財、昭和55年8月20日指定、静岡縣神社廳より御神木に指定されている)の下で合流する。還御の神輿3基とすべての流鏑馬隊が出会い、会場の馬場へ向かう。

    ①②2022年7月13日筆者撮影
    ③2022年7月15日筆者撮影
    ④2022年4月2日筆者撮影
    ※《六所大明神御境内繪圖》天明8年(1788)、戸塚友美家所蔵、『垂木の祇園祭 調査報告書』掛川市無形民俗記録作成事業実行委員会、2016年、巻頭図版より引用。
  • 81191_011_32086009_1_5_20220720_123330 資料5 流鏑馬史料
     
     藤長庚『遠江古蹟圖會3巻』1803年、国立国会図書館蔵、《垂木雨櫻》の流鏑馬に関する記述である。
    「毎年六月十四日祭有て賑なり。鏑矢有り馬七疋乗人七人なり。馬場有て氏子馬に乗て弓を射る的割という競馬のごとく。馬駆さす所の土民持馬なれば人の群集夥しきゆえ驚き駆出す事興有事なり。毎年の事なれば上手に乗者も有。祭の日は神輿出神主は烏帽子狩衣にて出るなり。往古より有て初まりし時代を聞かず。古き事成よし申傳えたり。雨天にても祭日延さず。小松原有。俗に呼て垂木馬場という。」(筆者書き下し)

参考文献


(1)「垂木」という地名は現在無く、一般に上垂木と下垂木を指す。雨櫻神社の氏子地域は、上垂木全域で、六所神社の氏子地域は、下垂木1区の一部で宮中区、鰯原区、田中区、桜野区、小津根区(4軒)である。

(2)「垂木の祇園祭」については、
掛川市無形民俗記録作成事業実行委員会『垂木の祇園祭 調査報告書』2016年、
中村悟『垂木の祇園祭 神様になった獅子』羽衣出版、2015年、
掛川市史料編纂委員会『掛川市史 資料編 古代・中世』掛川市、2000年、643頁~662頁、
『静岡県史 資料編25 民族三』静岡県、1991年、859頁~862頁、
斎田茂先『掛川誌稿(全)』名著出版、1972年、208頁~210頁、212頁、を参考にした。

(3)宮座は中世から行われている村落の祭祀組織の一つで、特定の家々が世襲的に特別な地位を保ち、限られた人々が祭祀の中で重要な役割を担うというものである。
野村朋弘編『伝統を読みなおす5 人と文化をつなぐもの―コミュニティ・旅・学びの歴史』(芸術教養シリーズ26)藝術学舎、2014年、40頁、
高牧實『教育者歴史新書〈日本史〉35 宮座と祭』教育社、1982年、参考。

(4)「水窪の西浦田楽」については、
野村朋弘編『伝統を読みなおす5 人と文化をつなぐもの―コミュニティ・旅・学びの歴史』(芸術教養シリーズ26)藝術学舎、2014年、45頁~48頁、
『水窪の民俗』遠州常民文化談話会、2012年、156頁~157頁、
『静岡県史 資料編25 民族三』静岡県、1991年、110頁、325頁~327頁、731頁~740頁を参考にした。

(5)祭祀の日程は古来より、旧暦6月7日~14日であったが、明治5年(1872)には太陽暦に合わせ8月7日~14日に、明治40年(1907)には7月7日~14日に変更された。そして平成6年(1994)から7月第2日曜日~第3日曜日という曜日に合わせた日程となる。
掛川市無形民俗記録作成事業実行委員会『垂木の祇園祭 調査報告書』2016年、17頁~18頁、参考。

(6)麦オコワは垂木の祇園祭の第一神饌である。かつては麦も主食の一部であったため、広く栽培されていたが、現在では一部の宮座が祭祀に使うための麦を、六所神社東側の田圃の一部などで栽培している。麦オコワの作り方は各家によって異なるが、およそもち米2升に麦が1合である。
掛川市無形民俗記録作成事業実行委員会『垂木の祇園祭 調査報告書』2016年、32頁、参考。

(7)垂木の祇園祭の伝承である。
「古来垂木の郷には深山渓谷があり、獅子が生息していたと伝わる。ある初夏、中村彦八家の庭先に天から獅子が榎の木をつたって降りてきて、収穫が済んだばかりの麦を喰い荒らし大暴れする。六所神社の神主が神に祈ると、小柳津六郎衛門を筆頭に7騎の土豪の騎馬が馳せ参じ、獅子を山奥に追い詰め射止める。諸人は獅子が再び害を起こさないように、また、その強い力で地域を守ってほしいと願い、洞戸権現唐土神社という社を建て、獅子の霊を祀る。」
中村悟『垂木の祇園祭 神様になった獅子』羽衣出版、2015年、8頁~20頁、参考。

(8)中村悟『垂木の祇園祭 神様になった獅子』羽衣出版、2015年、96頁~97頁、参考。

(9)掛川市無形民俗記録作成事業実行委員会『垂木の祇園祭 調査報告書』2016年、17頁、間接引用。

(10)斎田茂先『掛川誌稿(全)』名著出版、1972年、208頁~210頁、212頁、参考。

(11)掛川市無形民俗記録作成事業実行委員会『垂木の祇園祭 調査報告書』2016年、6頁、参考。

(12)中世、雨櫻神社の氏子地域は「上垂木・下垂木・田中・嶺(峰)・家代・遊家・富部」であり、「垂木郷七か村」と呼ばれた。時代とともに氏子地域は複雑に変遷し、現在、家代・遊家・富部は氏子ではない(六所神社の氏子でもない)が、垂木の祇園祭の時は氏子範囲を超えて神輿担ぎや流鏑馬の出馬といった役割を実行している。
掛川市無形民俗記録作成事業実行委員会『垂木の祇園祭 調査報告書』2016年、12頁~13頁、参考。

(13)中村家は地域の人々から、彦八様(ひこはちさま・ひこはっつぁま)と尊称されている。
地域の60代男性より聞き取り(2022年6月10日)。

(14)御獅楽の会場と「獅子の御供」の準備は、中村家隣組(中才組)の人々により行われる。会場は青竹を建てて注連縄を張り巡らし、獅子頭や御神酒を供える祭壇が設置される。獅子頭を置く場所には垂木川で拾ってきた小石を12個置き、笹が敷かれる。
掛川市無形民俗記録作成事業実行委員会『垂木の祇園祭 調査報告書』2016年、45頁、参考。

(15)「獅子の御供」は、御獅楽の出席者や見物者に配られ、これを食すと1年間無病息災で過ごせるといわれる。麦オコワを竹皮に包んで渡すため、宮座の人々が6月下旬に地域の竹林で落ちたばかりのきれいな竹皮を集める。
掛川市無形民俗記録作成事業実行委員会『垂木の祇園祭 調査報告書』2016年、29頁、
『静岡県史 資料編25 民族三』静岡県、1991年、861頁参考。

(16)榊屋台の中央に取り付ける榊は、六所神社の裏山から採られる。榊を採った付近へ2~3本の苗を植え、榊を絶やすことのないように配慮されている。
掛川市無形民俗記録作成事業実行委員会『垂木の祇園祭 調査報告書』2016年、43頁~44頁、参考。

(17)「傘鉾子供念仏」は、地域では「カサンボコ・カサンブク」と呼ばれる。旧盆にあたる8月13日~14日に行われる初盆供養で、小学生が提灯と太鼓を飾りつけた盆車を引き、赤い布で覆われた傘を持ち、初盆の家を廻り念仏(和讃)を唱えるというものである。
『静岡県史 資料編25 民族三』静岡県、1991年、953頁~954頁、参考。

(18)葛の蔓は水田の無い畑作地帯では藁の代替えとして用いられる。
『静岡県史 資料編25 民族三』静岡県、1991年、110頁、参考。

(19)日本伝統音楽研究センター 第36回公開講座「西浦田楽―伝承の現在と未来」 | 京都市立芸術大学 (kcua.ac.jp)
https://www.kcua.ac.jp/lecture_36/
(2022年7月6日最終閲覧)
民俗芸能学会 (minzokugeino.com)
https://www.minzokugeino.com/info/special/list/
(2022年7月6日最終閲覧)

(20)西浦田楽がはじめて世に出たのは昭和5年である。神事を人に見せるとか話をすべきものではないとしながらも、東京出演を承諾する。地域で「観音様の祭」と呼ばれていた祭祀が、現在では「日本の田楽」にまで成長する。
『静岡県史 資料編25 民族三』静岡県、1991年、732頁、参考。

(21)野村朋弘編『伝統を読みなおす5 人と文化をつなぐもの―コミュニティ・旅・学びの歴史』(芸術教養シリーズ26)藝術学舎、2014年、60頁、15行~16行、間接引用。

(22)六所神社戸塚友美神主より六所神社に於いて聞き取り(2022年7月15日)。

参考文献
掛川市無形民俗記録作成事業実行委員会『垂木の祇園祭 調査報告書』2016年
中村悟『垂木の祇園祭 神様になった獅子』羽衣出版、2015年
掛川市史料編纂委員会『掛川市史 資料編 古代・中世』掛川市、2000年
『静岡県史 資料編25 民族三』静岡県、1991年
斎田茂先『掛川誌稿(全)』名著出版、1972年
野村朋弘編『伝統を読みなおす5 人と文化をつなぐもの―コミュニティ・旅・学びの歴史』(芸術教養シリーズ26)藝術学舎、2014年
高牧實『教育者歴史新書〈日本史〉35 宮座と祭』教育社、1982年
『水窪の民俗』遠州常民文化談話会、2012年

参考ウェブサイト
「垂木の祇園祭」のお知らせ | 掛川観光情報 観光と交流の町「静岡県掛川市」 (kakegawa-kankou.com)
https://www.kakegawa-kankou.com/news/14587/ 
(2022年7月15日最終閲覧)
日本伝統音楽研究センター 第36回公開講座「西浦田楽―伝承の現在と未来」 | 京都市立芸術大学 (kcua.ac.jp)
https://www.kcua.ac.jp/lecture_36/
(2022年7月6日最終閲覧)
民俗芸能学会 (minzokugeino.com)
https://www.minzokugeino.com/info/special/list/
(2022年7月6日最終閲覧)
遠江古蹟圖會 3巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2538219
藤長庚『遠江古蹟圖會3巻』1803年、国立国会図書館蔵
(2022年7月20日最終閲覧)

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