丁石、奉献物の寄進者の分布から考察する愛知県三河地方における本宮山信仰の広がり

白井 隆文

1)はじめに
本宮山は、愛知県東三河各地から望まれる山々の最高峰であるとともに古代からの信仰の山である(註1) 。山頂(789m)付近には大己貴命(オオナムチノミコト、大国主命)を祀る砥鹿神社の奥宮が鎮座している。この奥宮までの参拝ルートは多数ある。昭和十九年刊『三河国一之宮砥鹿神社誌』では8本の参道を紹介している。
本稿における考察方法は、本宮山の砥鹿神社奥宮へ参拝する昔の主要参道のひとつである①「表参道」と、丁石(参道口から奥宮までの距離を「一丁」「二丁」と表す石造物)や石鳥居や燈籠などの奉献物が多く残る②「新城町裏参道」、③「河原参道」、④「野郷参道」をとりあげ(「図1.本宮山諸参道」参照)、上記4本の参道に残る丁石や奉献物の「基本データ」を添付資料「資料(1)本宮山参道丁石・奉献物一覧」(以下「資料(1)」)、「資料(2)表Ⅱ-2 文献資料に載る新城町裏参道の寄進者」で明らかにする。
次に「2)考察」において、丁石や奉献物の寄進年代から4本の参道のそれぞれの整備時期と、寄進者の出身地からの信仰分布の特徴を考察する。
さらに、「3)比較考察」では秋葉山(註2) の表参道(静岡県浜松市)における奉献物との比較を試みる。秋葉山は本宮山と同じように山頂に神社があり、複数の参道が麓の集落からついていて、参道には多くの町(丁)石と奉献物(常夜燈など)が残されているところが共通している。
「4)まとめ」では、今回の調査の総括と今後の本宮山信仰の研究についての展望について述べる。
調査の方法として、文献資料の『三河国一之宮砥鹿神社誌』(1944年)、伊藤晃雄『砥鹿神社金石文』(砥鹿神社蔵、1943年)、各市町村史を調べ、さらに丁石を独自に調査されていた小笠原正雄氏、杉下五十男氏の調査を参考にして現地確認をした。現地では適宜、拓本採取をした。当該寄進者の関係者にも聴き取り調査をした。

2)考察
①表参道
表参道には丁石、鳥居(5.写真資料.表参道参道口石鳥居)、灯籠などの奉献物が沢山残っている。平成のものも含めて、奥宮までの五十丁全てが残されている。その詳細は添付資料「資料(1)」の「表Ⅰ-1」「表Ⅰ-2」「表Ⅰ-3」の通りである。寄進者達は県域を越え、古くは江戸時代の中期(宝暦六年・1756)に遡る。丁石の寄進者の最遠方は「尾州宮宿東田中町」(名古屋市熱田区)、嘉永二年(1849)の寄進が最も古い。他の奉献物(奥宮の石鳥居)だと江戸からの寄進がある。
本宮山の表参道はすでに「元禄貮年長山村領内絵図」(権田家所蔵)(註3) に載っている。しかし、表参道が整備されたのは、嘉永年間の丁石が4基残されていることから幕末期であろう。他にも江戸時代後期・幕末期の人物(「資料(1)表Ⅰ-1 備考」参照)の寄進した丁石、奉献物(「資料(1)表Ⅰ-3」参照)が存在するので、幕末期に本宮山参詣者が多くあり、丁石の造立も盛んであった時期と考えられる。
寄進者の出身地の特徴としては、ほぼ東三河(旧宝飯郡、豊川市、豊橋市、蒲郡市)に限られていることである。表参道における本宮山信仰の広がりも東三河に限定されていることがよくわかる。

②新城町裏参道
参道の丁石には「藩中 加藤金兵衛」(二十五丁)、「宗高 元治郎」(二十六丁)、「縣立賢」(四十九丁)などの新城の藩士や町人、庄屋、町医師の他にも「三原屋/升屋」(6.写真資料.新城町裏参道四十二丁)をはじめ数多くの商家の屋号が刻まれている(「資料(1)表Ⅱ-2」参照)。身分差を越えた信仰のネット―ワークがあったことがうかがえる。
残されている丁石のうち、最遠方である三十三丁の寄進者以外は、新城藩城下の伊那街道沿いの人達である。新城町裏参道の丁石寄進者は、ほぼ現在の新城市に限定されているといえよう。
寄進年代は、寄進者が「資料(2)表Ⅱ-2」から分かるように幕末期に活躍した人物たちなので、1840~1850年代にかけてであろう。しかしながら表参道の丁石・奉献物のように、明治以降の寄進はみられないのは、廃藩置県により新城藩が消滅したことが大きいであろう。

③野郷道
「資料(1)表Ⅲ-1」によれば、参道口の石鳥居(7.写真資料.野郷道参道口石鳥居)の額(裏面)は安政三年三月下旬、鳥居横の「従是五拾丁/正一位砥鹿神社/丁初」は安政六年と判読できる。鳥居そばの台座石にも銘がある。こちらは「寛政五癸丑年十一月日」に造立された道標正面「本んぐふ右本宮/左新城志んしろ/道」である。これらから考察すると、野郷道は安政三~六年にかけて整備されたが、開通はさらに寛政以前に遡ることが推察される。
残されている丁石の寄進者は、作手村域(現新城市)、豊田市下山地区(旧東加茂郡下山村)が占めているが、十一丁の「笠井村」は岡崎市井沢町周辺(旧額田郡)で、野郷道に残る丁石の寄進者の中では最遠方である。三十六丁の「弓木村」は作手高松の旧村名である。
野郷道では丁石以上に重要と思われるのが鳥居に刻まれた「鳥居講中」の複数の願主である。野郷近在の村々の名前の他、豊田市下山地区(羽布、蘭、黒坂)や作手南部(赤羽根、小林、相月、寺林、手洗所)、作手北部(善夫、黒瀬)の願主がみられ、作手村域を越えた信仰ネットワークが考えられる。他の参道の鳥居には見られない特徴あるものである。

④河原道(宮崎村裏参道)
河原道に残る丁石、遺物は全て岡崎、旧額田郡(現岡崎市)方面の寄進者である。信仰分布もこれらの地域に限られるだろう。「資料(1)表Ⅳ-1」で分かるように、河原道は、岡﨑藩の藩士から町人から農民(庄屋?)まで、寄進者にはさまざまな身分の人たちがいたと考えられる。
丁石の形状も他の参道と比べても大ぶりで刻銘されている字体も優美なものがあるのが特徴的だ。これは石造が盛んな岡崎地区の影響があるであろう。河原道の丁石には年号が刻まれているものがないが、「第弐十丁目」(8.写真資料.河原道第二十丁丁石)の「岡崎家中 楠田氏」は、表参道の奥宮石段下の右燈籠の寄進者「岡崎家中」の「楠田」氏と同一人物の可能性がある。「楠田」氏は岡﨑藩の藩士であろう。このように河原道の丁石は幕末期の寄進が多かったと考えられる。

3)比較考察
秋葉山では居開帳(註4) があった幕末の嘉永五年(1852)に造立された常夜燈と町石が、表参道(坂下参道)に残されている(「資料(3) 表V-1」参照)。町石には年号が刻まれておらず寄進年代は不明だが、常夜燈の寄進は嘉永五年が最も多く、古いものだと宝暦九年(1759)である。寄進者は駿河、遠江が多く最も遠い寄進者は名古屋である。
秋葉山は火防の神社として全国的に知名度が高いが、本宮山も表参道で最も古い奉献物は宝暦六年の常夜燈であり、最も遠い寄進者は江戸市中の人物がいることから考えると、秋葉山と比較しても遜色のない信仰の広がり(地域的・時代的)があったといえよう。
本宮山表参道においては、平成のものも含めて、奥宮までの五十丁全てが残されているのは特筆すべきことである。常に更新されてきた。その点では、秋葉山表参道における町石・常夜燈には明治期以降のものがほとんどないのとは対照的だ。

4)まとめ
丁石の残る参道の景観は往時のまま保持されており、次代にまで伝えなければならない歴史遺産である。参道の丁石は、地元自治体の史誌にも載っていない。学術的な踏査ではなかったが、多少とも光を当てることができたことは一つの成果であったと考える。ただ、横転しているもの、谷底に落下したまま、という丁石も多くある。これらの現況確認・保存が急がれる。
今後の展望としては、幕末期に丁石、奉献物が多かった時代背景を探る、具体的には寄進者のプロフィールを探ると、その時代における民衆と宗教(本宮山信仰)との関係についてさらに深い考察が得られると考えられる。さらに山麓には本宮山を示す「道標」も残されている。それらを追跡調査すれば、各主要な街道(東海道)からの本宮山参詣路も明らかになるであろう。

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  • 10 資料(1)本宮山参道丁石・奉献物一覧 筆者作成
  • 2-%e8%b3%87%e6%96%992%e8%a1%a8%e2%85%a1-2-%e6%96%87%e7%8c%ae%e8%b3%87%e6%96%99%e3%81%ab%e8%bc%89%e3%82%8b%e6%96%b0%e5%9f%8e%e7%94%ba%e8%a3%8f%e5%8f%82%e9%81%93%e3%81%ae%e5%af%84%e9%80%b28-001 資料(2)表Ⅱ-2 文献資料に載る新城町裏参道の寄進者 筆者作成
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  • 7 資料(3)表V-1秋葉山表参道(坂下口参道)町石・常夜燈銘一覧 筆者作成
  • 4-%e5%9b%b31-%e6%9c%ac%e5%ae%ae%e5%b1%b1%e8%ab%b8%e5%8f%82%e9%81%93-001 図1.本宮山諸参道 
    国土地理院の「電子国土WEB」上の地図を筆者が改変
  • 5-%e5%86%99%e7%9c%9f%e8%b3%87%e6%96%99-%e8%a1%a8%e5%8f%82%e9%81%93%e5%8f%82%e9%81%93%e5%8f%a3%e7%9f%b3%e9%b3%a5%e5%b1%85 5.写真資料.表参道参道口石鳥居
    2018年1月7日筆者撮影
  • 6-%e5%86%99%e7%9c%9f%e8%b3%87%e6%96%99-%e6%96%b0%e5%9f%8e%e7%94%ba%e8%a3%8f%e5%8f%82%e9%81%93%e5%9b%9b%e5%8d%81%e4%ba%8c%e4%b8%81 6.写真資料.新城町裏参道四十二丁
    2017年11月25日筆者撮影
  • 7-%e5%86%99%e7%9c%9f%e8%b3%87%e6%96%99-%e9%87%8e%e9%83%b7%e9%81%93%e5%8f%82%e9%81%93%e5%8f%a3%e7%9f%b3%e9%b3%a5%e5%b1%85 7.写真資料.野郷道参道口石鳥居
    2016年12月4日筆者撮影
  • 8-%e5%86%99%e7%9c%9f%e8%b3%87%e6%96%99-%e6%b2%b3%e5%8e%9f%e9%81%93%e7%ac%ac%e4%ba%8c%e5%8d%81%e4%b8%81%e4%b8%81%e7%9f%b3 8.写真資料.河原道第二十丁丁石
    2017年9月25日筆者撮影

参考文献


註1:「本宮山砥鹿神社奥宮の創祀は、文武天王大宝年間以前より鎮座せられた事は、社伝に明からである」(砥鹿神社奥宮拝殿由緒書より)。(註:大宝年間…701-704)。
註2: 江戸時代半ば頃から、秋葉山は火防の神として信仰を集め、参詣者で賑わった。明治になり、神仏分離によって秋葉神社、秋葉寺、可睡斎三尺坊に分離した。
註3: 権田賢一「元禄二年の領内絵図」(『ふるさとの伝説昔のはなし』一宮町編、1991年)。
註4: 開帳とは特定の日に厨子の中の仏像を拝ませる時期のこと。開帳には自らの寺院で行う居開帳と出張して他の場所で行う出開帳があった。嘉永五年の居開帳には2か月で数十万人の参詣者があったという(『春野町史 通史編 上巻』春野町、1997年)。

主要参考文献
三河一宮砥鹿神社『三河国一之宮砥鹿神社誌』、1944年
伊藤晃雄『砥鹿神社金石文』砥鹿神社蔵、1943年
一宮町誌編纂委員会/編集『一宮町誌 本文編』、1976年
新城市教育委員会・新城古文書学習会『新城町御触書留帳-天保十四年』2017年
新城市教育委員会・新城古文書学習会『新城町御触書留帳-自天保十五・弘化元年至弘化三年』、2008年
新城市教育委員会・新城古文書学習会『新城町御用留-一八五二(嘉永五)年』、2011年
新城市教育委員会・新城古文書学習会『新城町御用留-一八五三(嘉永六)年一八五四(安政元)年』、2012年
新城市教育委員会・新城古文書学習会『新城町御用留-一八五七(安政四)年一八五八(安政五)年』、2013年
新城市教育委員会・新城古文書学習会『新城町御用留-一八六〇(万延元)年七月~一八六一(文政元)年』、2016年。
川合重雄編『川合森之助遺稿集Ⅲ』、2006年
新城市教育委員会・新城古文書学習会『新城町役場日記―自慶応二年至明治四年』、2005年
今泉忠左衛門『千郷村史 上』、新城千郷村史研究会、1994年
作手村誌編纂委員会/編集『作手村誌』、1982年
作手村誌編集委員会/編集『作手村誌 本文編』、2010年
新城医師会史編纂委員会/編集『新城医師会史』、1991年
下山村/編集『下山村史 史料編Ⅱ』、1986年
額田町史編集委員会/編集『額田町史』、1986年
静岡県教育委員会文化課編『静岡県歴史の道調査報告書-秋葉道‐』静岡県教育員会、1983年
春野町史編さん委員会/編『春野町史 通史編 上巻』、1997年
新城市教育委員会・新城古文書学習会『新城町御触書留帳-天保十四年』2017年
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